さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

浦上規一 「未来」の短歌採集帖(5)

2016年11月12日 | 現代短歌
「一太郎」ファイルの発掘である。
浦上規一
歌集『点々と点』   (本阿弥書店・二七〇〇円+税)   大きな受容のかたち   

 浦上さんは、出来事を楽しむ。生老病死のすべての事象を、言葉によって、短歌という瞬間の詩のなかに取り込んで生きる。すると、不思議や、悩み多き人生が、この苦難に満ちた日常が、重たい老年の肉体が、かりそめの浮揚力を手に入れることになるのだ。

  夜の雨の残る石凹に、羽根うすき快楽成仏光りつつうごく 153

   右の歌の、光のかたまりのようなものが動くイメージの美しさは、比類がない気がする。小鳥は水浴びをしつつ、まちがいなく「快楽成仏」と化しているのだ。作者は、現実にそれを見、「言葉」によって、天女の水浴びにも等しいものを幻視している。  

  空低うなりしと思ふ街上を縄文基本型に透けて行く    93

これも一読した瞬間にはわからないのだが、しばらくすると、雲間をもれる光線と、地表を動く「縄文」の雲の影が、イメージとして同時的に浮かびあがってくる。ここでは、言葉が「景」を生み出しているのであって、「景」が言葉を生み出しているわけではない。そのことの機微を浦上さんの歌はわからせてくれる。「写実」の方法の極まりのかたちが、ここにはあると言っていいだろう。

  かの時どかと沈みし者ら森閑と揺れつつそこに眠れずに居る 42
  軍星また離れゆく宵のいろ吉野の柿をまあ食いたまえ 128
こんな世になると思って「み戦」に臨んだのではなかったのだ 137
戦いをくぐり届きし妹が文、ついぞ「愛」の字一つなかりき 211

どれも戦争体験を持つ世代の思いが、伝わってくる歌だ。どかと沈んだのは、大半が夜間に米軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けたため。船が沈めば真っ暗な海に放り出されたのだ。おしまいの手紙の歌は、妻への挽歌として読んだ。当時兵営に届く手紙は、すべて検閲されたということが背景にある。

  ふんばって生きてたかだか数年の日々月々をゆうるり生きむ 24
  石に降りにじみ消えゆく春の雪、母痩身の立ち居まぼろし 50
終の日の炎は見ゆれ、濃き色の一つめらりんと立ちてのち止む 67
  今日もまた一寸先は闇である、闇に向ってボンゴレを食う 127
  酸素管つけて十年しぶといぞ「生きてまーす」が朝の挨拶  146
  長生きして得なことはと訊かるるか、まだ三、四日待ってくだされ

 さびしい歌が多いのに、読んでいて楽しいし、読後感も重くない。妻への挽歌は、どれも抑制がきいた歌になっていて、読者に無理な負担を強いない。ある程度の年齢に達して、作者には一種の覚悟のようなものが生まれて来て、自然とこうした自在さを手に入れることになったのではないだろうか。浦上さんの老いの歌は、どれもユーモラスに明るく詠まれていて、深刻悲壮ぶらないところがある。先日はじめて著者に電話をした。耳が遠いので拡声器とマイクを使いながら自宅で歌会を開いているとのことであった。いい話だと思った。ほかに、

  現し世は文芸を模し文芸はうつつの迅に茫然たり
  流れくる朝の歌ごえ、窓の下、ゴミの車の口閉ずる音
  少年野球に朝より集う五万余のゆばりの量は思いいたりき
  みじか歌瞬間芸はいわばしる垂水を過ぎて潮の目を追う
  金剛の風来る駅に降りゆけりルーズソックス残党三人
死ののちのその塩梅を歌に詠み伝え来るもあれ一人二人は
かつらぎの走り出の端の町の上、音なき花火ねじれ昇りぬ

◇ ◇  別稿
 大阪府松原市に住んでいる歌人の浦上規一さんの作品を先に紹介したい。

二〇〇七年ぶた年生まれは運勁し、方舟組めと伝へやろうぞ
屋上の夕光残る止り木に黒き大鳥「なんやね」と鳴く    
戦いをくぐり届きし妹が文、ついぞ「愛」の字一つなかりき    『点々と点』より

作者は一九二〇(大正九)年生まれ、戦中世代である。一首め、勁しは、「つよ」しと読む。方舟には「はこぶね」と読み仮名が振ってある。わざわざ「ぶた年」と言っているところに、おかしみがあり、「箱舟組め」には、後続世代への皮肉と同情がにじむ。二首め、夕光には「ゆうかげ」と仮名が振ってある。止り木にいるのだから、からすではなくて九官鳥の類か。そっけなくて、ばかばかしい感じがユーモラスである。三首めの妹には、「いも」と振り仮名があり、文は「ふみ」と読む。兵営から出す手紙も、そこに届く手紙にも検閲があった。愛していますなんて艶めいた言葉は、当時禁句であった。微妙なユーモアを漂わせる老年の回想の歌である。この人の場合は、主として土屋文明によって養われた感覚だが、こういう微妙なセンスを養うのに、近世の和歌を読むことはプラスになるのではないかと私は思う。
 
 ついでに、もう一冊紹介したくなった。鳥取県東柏郡に住む歌人池本一郎さんの歌集『草立』(くさだち)から。作者は昭和十四年生まれ。

たこ焼きののぼりはためく獺祭忌タコはふしぎな向こう鉢巻
東京の地下にて深夜ケータイに電話をしたら君が釣れたよ
雷神の異様はなんぞ白き躯に祖母のごとく乳が垂るるも

 一首め、獺祭忌には「だっさい」と仮名が振られている。だっさいき、と読んで、正岡子規をしのぶ集いが開かれている会場の風景だろう。二首めも七十歳近い作者だからこそ、かえって君を「釣る」という表現におかしみが伴ってくる。三首め、もとの本では「躯」が略字でなくて、つくりのはこがまえの中が、品と言う字である。祖母には、「おばば」と振り仮名がある。その昔ふと目にしたおばあさんの体の白さと垂れたおっぱいには、私も強い印象が残っている。軽妙洒脱、自在な歌柄である。
 



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