この歌集には、モノとコトに対して独特の間合いをとった歌が並ぶ。作者は玉城徹の弟子を自他ともに自任している人で、「短歌往来」10月号の対談や、その前に出た「現代短歌」の対談でも大きな役割を果たしていた。玉城徹の薫陶を受けたということは、幸福でもあり、一作家にとっては逆の面も持っている。師の個性が強烈なうえに、どうしても比べて見られるからだ。私はかつて「うた」という雑誌を手にした時、全体が寺院の声明のような響きに充たされていることに衝撃を受けた覚えがある。もっとも作者の場合は、特に師の没後に、自分は自分でやっていけばいいのだという悟り方をしたのだろうと思う。と同時に、美的なものに対するこだわりとか、言葉をもて扱うときの凝り性の職人のような態度とか、そういう師の癖のような部分は、むしろ意識的かつ積極的に引き継いでいこうとしているように見える。同じ一連から引く。
川の面ゆ浮かぶと見るに黒き影翼顕れはたたきはじむ
※「顕」に「あらは」と振り仮名。
雪囲ひ終へたる街はこの家も七竈ふさとあかき実を垂る
立ち腐れやがて深雪に屈しゆく無人の家の暮るれば暗し
※「深雪」に「みゆき」、「無人」に「むにん」と振り仮名。
作者はそこに住んでいるわけではないが、故郷の新潟県の風物を詠んだ歌に味わいの感じられるものが多い。一首目の川は信濃川である。
佐渡汽船埠頭をかすめ緑桜の川水の帯海につづけり
※「緑桜」に「りよくあう」と振り仮名。
八一むろん白秋もまたあゆみしと径ゆきゆけば空には松風
二十年も前に海辺の会津八一記念館と新潟大学のあたりを歩いた記憶が私にもあるが、作者の歌を読んでいると、新潟の空がたちどころに想起される。
次にセミパラチンスク核実験場の隅にあった軍事秘密都市クルチャトフに、日本の医療支援のための疫学調査に訪れた際の歌を引く。
忽然と地平に小さきマッシュルーム光の輝き出現せしと
閃光を遠く見てのち降る雪の赤くありしと陳ぶるをメモす
赤き雪降るをよろこび外に出でてこもごも食ひきと遊牧の人
※「外」に「と」と振り仮名。
入りきたる研究室になんとせう薄暮の棚に無脳症児ゐる
嘘だらういいや本当水素爆弾爆裂口湖水泳倶楽部
乾燥草原を虹立てながら移りゆく白雨の下へ自動車近づく
※「乾燥草原」に「ステップ」、「自動車」に「くるま」と振り仮名。
ぽつかりと乾燥平原に口を開く原子湖鳥も通はず
※ 「開」く、に「あ」く、「原子湖」に「アトミック・レイク」と振り仮名。
作品の順序は変えて引いた。カザフスタンのこういう廃墟の姿を詠んだ歌は、とてもめずらしいうえに貴重だ。現地の人からの聞き取りをもとにして詠んだ歌もみごとにその時を追体験させるものになっていて、一首の歌が映像のドキュメントに匹敵する。
大空をソラソラミソラと渡りゆくものあれを見よそれはおまへだ
故郷を出て以来ずっと旅をつづけているという感覚が抜けないというようなことを作者はどこかで書いていたかと思うが、一集の底を流れる漂泊感のようなもの、人生という時間を旅しているという感覚が濃厚に出ている歌集である。だからこそ、ここには引かなかったが、酒や食べ物に一時の歓を尽くす経験が、滋味深いものとなるのだろう。
川の面ゆ浮かぶと見るに黒き影翼顕れはたたきはじむ
※「顕」に「あらは」と振り仮名。
雪囲ひ終へたる街はこの家も七竈ふさとあかき実を垂る
立ち腐れやがて深雪に屈しゆく無人の家の暮るれば暗し
※「深雪」に「みゆき」、「無人」に「むにん」と振り仮名。
作者はそこに住んでいるわけではないが、故郷の新潟県の風物を詠んだ歌に味わいの感じられるものが多い。一首目の川は信濃川である。
佐渡汽船埠頭をかすめ緑桜の川水の帯海につづけり
※「緑桜」に「りよくあう」と振り仮名。
八一むろん白秋もまたあゆみしと径ゆきゆけば空には松風
二十年も前に海辺の会津八一記念館と新潟大学のあたりを歩いた記憶が私にもあるが、作者の歌を読んでいると、新潟の空がたちどころに想起される。
次にセミパラチンスク核実験場の隅にあった軍事秘密都市クルチャトフに、日本の医療支援のための疫学調査に訪れた際の歌を引く。
忽然と地平に小さきマッシュルーム光の輝き出現せしと
閃光を遠く見てのち降る雪の赤くありしと陳ぶるをメモす
赤き雪降るをよろこび外に出でてこもごも食ひきと遊牧の人
※「外」に「と」と振り仮名。
入りきたる研究室になんとせう薄暮の棚に無脳症児ゐる
嘘だらういいや本当水素爆弾爆裂口湖水泳倶楽部
乾燥草原を虹立てながら移りゆく白雨の下へ自動車近づく
※「乾燥草原」に「ステップ」、「自動車」に「くるま」と振り仮名。
ぽつかりと乾燥平原に口を開く原子湖鳥も通はず
※ 「開」く、に「あ」く、「原子湖」に「アトミック・レイク」と振り仮名。
作品の順序は変えて引いた。カザフスタンのこういう廃墟の姿を詠んだ歌は、とてもめずらしいうえに貴重だ。現地の人からの聞き取りをもとにして詠んだ歌もみごとにその時を追体験させるものになっていて、一首の歌が映像のドキュメントに匹敵する。
大空をソラソラミソラと渡りゆくものあれを見よそれはおまへだ
故郷を出て以来ずっと旅をつづけているという感覚が抜けないというようなことを作者はどこかで書いていたかと思うが、一集の底を流れる漂泊感のようなもの、人生という時間を旅しているという感覚が濃厚に出ている歌集である。だからこそ、ここには引かなかったが、酒や食べ物に一時の歓を尽くす経験が、滋味深いものとなるのだろう。
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