『リアス/椿』で知られた歌人の四冊目の歌集である。いかにも「塔」の詠風で、写実の手法をベースにして、私詩としての短歌を、この今を生きているすべての人々に通ずるような普遍的な思いへとつなげる努力を孜々として続けている。とりわけ東日本大震災と続く原発災害に生活の基盤を根こそぎ奪われた人々の日々の生活の痛みに触れながら、自身も病の不安を抱えて薄氷を踏むように生きるという経験のなかで、可能なかぎり直接的な言葉を抑えて、淡い色彩の水彩画のような筆致で、深いところに鎮めるように、沈めるように祈るように言葉を置いてきた経緯というものが、そのことの必然性への共感をもって受け止められる。
海辺へと続く枕木 数百人の打ち上げられし閖上浜へ
※「閖上」に「ゆりあげ」と振り仮名。
どこまでも水漬きたること思ひ出す改札口抜けて空を見るとき
ここでは震災の記憶は日常である。海と空と殺風景な仮設の建造物が一面にひろがっている光景の空気感が、読み手にそのまま伝わってくる。
深山岳 田代岳 下原 候補地より澄みとほるみづあふれて流る
※ふかやまだけ たしろだけ しもはら と振り仮名。
どこかには埋めねばならずどこかなるそのどこかとふ実存が要り
辺涯のまた辺涯の辺涯へ押しやる力 山、溶暗す
ここには放射性廃棄物の最終処分場の選定が、その土地の美しい豊かな自然を虐げることを代償にしてなされるのだという事実が、痛みをもってうたわれている。それは行政や国政の想像力の及ばない視点である。この一連でも社会的な訴求性のあるような言葉の選び方はむしろ避けられている。現地の人はこんなことを思っているんだという好奇心にこたえるような要素を持つ歌は、作品集の中で中心をなすものではない。作者の心境というものが、そういうところから離れて、自分のいま生きている時間を大切にすることに集中していることから獲得された得難い真実性が、本集を貫くものとなっている。
太陽光パネルに映る空ありてときに鉄ときに銀
※「鉄」に「くろがね」、「銀」に「しろがね」と振り仮名。
跡継ぎを持たぬ田畑と跡継ぎを持てる田畑が畔に分かたる
※「畔」に「くろ」と振り仮名。
こういうデッサンのしっかりとした歌によって日本の農村の現実の姿が的確に伝えられる。
焚上げの日の迫りたり五年とふことをひとつの区切りと決めて
※「焚」に「たき」と振り仮名。
火のなかにほどければいい あの春を写真に幾度打ち寄する波
「津波流失物」の一連から。万感をこめて言葉を削って、一語に込められているものは、自分一人のものではないのだ。震災の被災地のただなかで歌人として生きるということの意味が、これらの作品からは伝わってくる。「塔短歌会・東北」が出した「2199日目 東日本大震災から六年を詠む」という平成二九年七月刊の冊子をいま本の山のなかから探し出したが、奥付をみると梶原さい子はその発行者なのだった。震災ののちの人々の生きる姿を見つめることが、みずからを奮い起こし、生き続けて短歌を作るということと一体になっているという経緯は、自ずと了解されるものがある。だから集中にいくつか挿入されている旅行詠も、作者とともに生のかぎりない一回性の経験として切実な思いで読むことができる。
隣人に知られぬやうに泣きしとふ冷たき壁の林のなかを
これは仮設住宅の撤去にかかわる一連から。どうしてもこういう歌が目につくが、一集の柱をなす祖父母や子供たちのことをうたった歌については、また別の誰かがコメントするだろうと思うので、私はここでは触れない。本歌集は『リアス/椿』や「塔短歌会・東北」の活動と一体にして論じられるべきだろうと思うので、私は即時の感想をここに述べたのにすぎない。しかし、コロナ騒ぎで震災関連の社会的な関心と取り組みが霞んでしまわないようにしてほしいというのは、多くの被災者、避難者の方々に共通の思いだろうから、あえてここに付言しておきたい。
海辺へと続く枕木 数百人の打ち上げられし閖上浜へ
※「閖上」に「ゆりあげ」と振り仮名。
どこまでも水漬きたること思ひ出す改札口抜けて空を見るとき
ここでは震災の記憶は日常である。海と空と殺風景な仮設の建造物が一面にひろがっている光景の空気感が、読み手にそのまま伝わってくる。
深山岳 田代岳 下原 候補地より澄みとほるみづあふれて流る
※ふかやまだけ たしろだけ しもはら と振り仮名。
どこかには埋めねばならずどこかなるそのどこかとふ実存が要り
辺涯のまた辺涯の辺涯へ押しやる力 山、溶暗す
ここには放射性廃棄物の最終処分場の選定が、その土地の美しい豊かな自然を虐げることを代償にしてなされるのだという事実が、痛みをもってうたわれている。それは行政や国政の想像力の及ばない視点である。この一連でも社会的な訴求性のあるような言葉の選び方はむしろ避けられている。現地の人はこんなことを思っているんだという好奇心にこたえるような要素を持つ歌は、作品集の中で中心をなすものではない。作者の心境というものが、そういうところから離れて、自分のいま生きている時間を大切にすることに集中していることから獲得された得難い真実性が、本集を貫くものとなっている。
太陽光パネルに映る空ありてときに鉄ときに銀
※「鉄」に「くろがね」、「銀」に「しろがね」と振り仮名。
跡継ぎを持たぬ田畑と跡継ぎを持てる田畑が畔に分かたる
※「畔」に「くろ」と振り仮名。
こういうデッサンのしっかりとした歌によって日本の農村の現実の姿が的確に伝えられる。
焚上げの日の迫りたり五年とふことをひとつの区切りと決めて
※「焚」に「たき」と振り仮名。
火のなかにほどければいい あの春を写真に幾度打ち寄する波
「津波流失物」の一連から。万感をこめて言葉を削って、一語に込められているものは、自分一人のものではないのだ。震災の被災地のただなかで歌人として生きるということの意味が、これらの作品からは伝わってくる。「塔短歌会・東北」が出した「2199日目 東日本大震災から六年を詠む」という平成二九年七月刊の冊子をいま本の山のなかから探し出したが、奥付をみると梶原さい子はその発行者なのだった。震災ののちの人々の生きる姿を見つめることが、みずからを奮い起こし、生き続けて短歌を作るということと一体になっているという経緯は、自ずと了解されるものがある。だから集中にいくつか挿入されている旅行詠も、作者とともに生のかぎりない一回性の経験として切実な思いで読むことができる。
隣人に知られぬやうに泣きしとふ冷たき壁の林のなかを
これは仮設住宅の撤去にかかわる一連から。どうしてもこういう歌が目につくが、一集の柱をなす祖父母や子供たちのことをうたった歌については、また別の誰かがコメントするだろうと思うので、私はここでは触れない。本歌集は『リアス/椿』や「塔短歌会・東北」の活動と一体にして論じられるべきだろうと思うので、私は即時の感想をここに述べたのにすぎない。しかし、コロナ騒ぎで震災関連の社会的な関心と取り組みが霞んでしまわないようにしてほしいというのは、多くの被災者、避難者の方々に共通の思いだろうから、あえてここに付言しておきたい。
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