さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

秋山佐和子『豊旗雲』

2020年05月27日 | 現代短歌
  病棟の廊下の我の靴音を聴き分くるとふ夫へ急ぎぬ   

 歌集をめくって読み始めてから、だんだん本の残りのページが減っていくのがつらかった。あとがきは最後に読んだが、ステージⅣのがんを宣告されて最後まで仕事に生きようとした医師である夫の潔い生き方も、この歌集から伝わってくる。何よりも夫婦の愛情と思いやりに満ちたやりとりが、美化されるわけでもなくいたって自然に表現されている点に心をひかれた。

 集中には病人の食事にまつわる歌が多い。それがみんなおいしそうで、作者が夫とすごすこの幸せな時間が、少しでも長くつづいてほしいと思ったのだった。

  味噌味の鍋はしんからあたたまると卓を離れて二度もいふ夫

黒土に触るるばかりに育ちたるさやいんげん摘む午後のベランダ

コーヒーを淹れてくれたり点滴の管を抜かれて身を清めし夫

ここには引かないが、野菜ジュースの歌、スープの歌、おにぎりの歌など、平凡な厨歌が、いきいきとした表情と生の意味を語ってやまない。闘病する夫との生活という重たい内容を遅滞なく読み進めることができるのは、一つ一つの事象を抒情の羽根でくるむことができる作者の感性と、それを支えるすぐれた詩語の運用があるからだ。

 茜雲たなびく明日香の石舞台 成瀬有らの哄笑聞こゆ
 
バリケード築ける階に救ひくれし師の手の甲に滲む血忘れず
   ※師の岡野弘彦についての短文が付されている

 あとがきは短くすべし 編集者鷲尾賢也のますぐなる声
   ※作者自注 ――歌人小高賢は名編集者鷲尾賢也でもあった

 『三ケ島葭子全創作文集』編みしのち「少女号」なる資料に遇ひき

 亡き姉のこゑも交じれり青葉影さざめく路上の石蹴り遊び

 法隆寺展のみ仏に涙にじみしとふ友の文読みそのこころ思ふ

 鳴きいでてようしとをさむるつくつくを生のをはりのこゑと歌ひき
  ※「悼 藤井常世」と一連おわりの歌に下注のある一連から

うたえばおおかたが挽歌となるというのも、生きることに伴うかなしみの一つである。とは言いながら、成瀬有も小高賢も藤井常世もくっきりとしたその姿が記しとどめられているではないか。

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