※ 以前「北冬」にのせた原稿。
『ピュシスピュシス』のこと
冒険の行方 さいかち真
この日本において、人が<痛み>をもって生きるためには、どうしたらいいのか。そのための方法を提示している書物として、二〇〇六年七月刊の『ピュシス ピュシス』を読むことができると私は思う。作品の刺激は、十年経っても減衰していない。たとえば次のような歌。
・昨日の空は、僕の汚血を抱いている 鳥渡りゆくアカルサに耐え (二〇〇頁)
・あらゆる肉の切り口の虹 僕たちの記憶の先でずっと鳴ってた
現在の私の「アカルサ」は後ろめたいものである。こういう歌が激しく弾劾している<私>というものと、自分が自分であることへの羞恥の感覚とを結びつけてみることは、スマホ動物園の管理獣と化している我々にとって必要な感じ方なのではないだろうか。「昨日の空」に充満した環境にあって、「汚血を抱いている」自分という存在を自覚することを作者の個人的な感慨として読むだけではつまらない。「肉の切り口の虹」という詩語には、記憶の傷としてあるような、われわれの<過去>への遡及が示唆されているだろう。
本書は全部で八つに章立てされているうちの第3章が、アメリカの対イラク戦争を前にして作られているところに、その時代の背景を感じさせるものがある。タイトルともなった「ピュシス ピュシス」という一連は、イラク戦争についての一連の中にある。江田の作品の目指すところは、言葉による<反覆を、意志と自由との至高の対象として定立すること>(ジル・ドゥルーズ『差異と反覆 上』河出文庫三二ページ)にあり、そのための螺旋状の運動が詩なのだ。
・妻を抱けば空を争う羽音の幽かなる ピュシスピュシス濡らせり
この歌の詞書は[自然が流れ込んでくる]とあって、「ピュシス」はギリシア語で本源的な自然を意味するが、ドゥルーズによれば、ニーチェは<自然(ピュシス)>のうちに「すべての変化を横断しておのれ自身を欲する意志、法則に抗する力」(引用前出)を見出していた。江田にとって、<自然(ピュシス)>があらゆる言語的実験と詩的志向を支える標語のようなものとしてあることをここでは確認しておきたい。
内容が多岐にわたる本書の作品は、目の前で破裂した硝子が飛び散って、詩の言葉の肉である全身に突き刺さっているというような印象を受ける。硬質な言葉が、激しく<私>を糾明してやまない点に驚かされるのだ。そこでは性愛についての歌も、すべて人間の関係そのものを対象とした形而上詩のようなものに転化させられており、右に引いた歌に出て来る「妻」も、関係性そのものを、より問題とするための契機的存在として現われている。では、<私>は、どのような様相において現れて来るものなのか。第2章の「あなたの中の『私』の部屋」という一連から何首か引く。詞書は省く。
・心性が盗むのである 薔薇色の時といえばもつれ合う「私」
・数えられない「私」に蒼い線が引かれ 朱に染まって歯たちが並ぶ
・無意味だと言ってはみても乳の膜 光を乗せて 笑った、笑った
・欲望はあなたにまみれ唐突に脈拍のように木霊する「私」
<私>は「あなた」や「他者」の全体に向かって響いている線の束なので、あらゆる現象が、次々と歌の中に入ってきては、そのつど<私>を開示し、過ぎ去って行く。ここには予定調和的な既成の言葉の組み合わせから断固として外れゆこうとする冒険への意志がある。<私>は、一定の抒情的な感じを喚起する言葉の構成のうちにとどまっていてはならないのである。
作者の根源的なモチーフは、「あなた」や、比喩的に「妻」として意識されるものに向けた詩語のなかに関係性の傷として語られるものの中に現われている。だから、一冊の中に「あなたの中の『私』の部屋」と名付けられた一連があることの意味は重い。ここで「欲望はあなたにまみれ唐突に脈拍のように木霊する『私』」というようなストレートな歌を概念的にすぎるとして批判するのは、当たらない。「欲望はあなたにまみれ」と言った瞬間に従来の短歌的なセオリーを一度に飛び越えた言葉の実践的な場が用意されてくるのである。ただ、そこでは自他の境と日常的なパーソナルなものの境界とをごっちゃにしないで「詩」の劇を演じ、作り、読むための熟練を必要とする。また、大きな意味での「芸術」の枠組みが必要となる。それが突出した他者性を突き付けて来るエゴン・シーレの絵などに作者が言及する所以である。
本書の第6章と第7章は重要な章である。たとえば「対話ノ重層性ニ向カッテ……」の一連は、『ギルガメシュ叙事詩』などを引用しつつ構成されているが、そこには、これまで江田が論じて来た山中智恵子の作品の要素が織り込まれてもいる。神話を読む劇的な語りのなかで、「私」に「言葉」が降り立つとき「死」がまじまじと意識される。
・鳥ノ舌 常世ニトモル薄明ノ言葉ノ裔ニ打チ据エラルル
・暮レ鳥ノ声落チフカキ祈リ充ツ 傷匂イ立ツ瀝青ノ斧
これに加えて、「神を噛んで……」という、「カミオカンデ」を意識している一連から引く。
・死に向けて蘇生する私 神を噛んで恍惚は躰を合わせゆく言葉(ロゴス)
「神」を引用しはするものの、それ以上に「自己」に反射して来る傷のようなものに関わるところで「神」に言及することに作者は意を注いでいる。おしまいに。私がいちばんいいと思ったのは、第7章の一連などに詞書として付された俳句体の短詩であることを付け加えておきたい。
『ピュシスピュシス』のこと
冒険の行方 さいかち真
この日本において、人が<痛み>をもって生きるためには、どうしたらいいのか。そのための方法を提示している書物として、二〇〇六年七月刊の『ピュシス ピュシス』を読むことができると私は思う。作品の刺激は、十年経っても減衰していない。たとえば次のような歌。
・昨日の空は、僕の汚血を抱いている 鳥渡りゆくアカルサに耐え (二〇〇頁)
・あらゆる肉の切り口の虹 僕たちの記憶の先でずっと鳴ってた
現在の私の「アカルサ」は後ろめたいものである。こういう歌が激しく弾劾している<私>というものと、自分が自分であることへの羞恥の感覚とを結びつけてみることは、スマホ動物園の管理獣と化している我々にとって必要な感じ方なのではないだろうか。「昨日の空」に充満した環境にあって、「汚血を抱いている」自分という存在を自覚することを作者の個人的な感慨として読むだけではつまらない。「肉の切り口の虹」という詩語には、記憶の傷としてあるような、われわれの<過去>への遡及が示唆されているだろう。
本書は全部で八つに章立てされているうちの第3章が、アメリカの対イラク戦争を前にして作られているところに、その時代の背景を感じさせるものがある。タイトルともなった「ピュシス ピュシス」という一連は、イラク戦争についての一連の中にある。江田の作品の目指すところは、言葉による<反覆を、意志と自由との至高の対象として定立すること>(ジル・ドゥルーズ『差異と反覆 上』河出文庫三二ページ)にあり、そのための螺旋状の運動が詩なのだ。
・妻を抱けば空を争う羽音の幽かなる ピュシスピュシス濡らせり
この歌の詞書は[自然が流れ込んでくる]とあって、「ピュシス」はギリシア語で本源的な自然を意味するが、ドゥルーズによれば、ニーチェは<自然(ピュシス)>のうちに「すべての変化を横断しておのれ自身を欲する意志、法則に抗する力」(引用前出)を見出していた。江田にとって、<自然(ピュシス)>があらゆる言語的実験と詩的志向を支える標語のようなものとしてあることをここでは確認しておきたい。
内容が多岐にわたる本書の作品は、目の前で破裂した硝子が飛び散って、詩の言葉の肉である全身に突き刺さっているというような印象を受ける。硬質な言葉が、激しく<私>を糾明してやまない点に驚かされるのだ。そこでは性愛についての歌も、すべて人間の関係そのものを対象とした形而上詩のようなものに転化させられており、右に引いた歌に出て来る「妻」も、関係性そのものを、より問題とするための契機的存在として現われている。では、<私>は、どのような様相において現れて来るものなのか。第2章の「あなたの中の『私』の部屋」という一連から何首か引く。詞書は省く。
・心性が盗むのである 薔薇色の時といえばもつれ合う「私」
・数えられない「私」に蒼い線が引かれ 朱に染まって歯たちが並ぶ
・無意味だと言ってはみても乳の膜 光を乗せて 笑った、笑った
・欲望はあなたにまみれ唐突に脈拍のように木霊する「私」
<私>は「あなた」や「他者」の全体に向かって響いている線の束なので、あらゆる現象が、次々と歌の中に入ってきては、そのつど<私>を開示し、過ぎ去って行く。ここには予定調和的な既成の言葉の組み合わせから断固として外れゆこうとする冒険への意志がある。<私>は、一定の抒情的な感じを喚起する言葉の構成のうちにとどまっていてはならないのである。
作者の根源的なモチーフは、「あなた」や、比喩的に「妻」として意識されるものに向けた詩語のなかに関係性の傷として語られるものの中に現われている。だから、一冊の中に「あなたの中の『私』の部屋」と名付けられた一連があることの意味は重い。ここで「欲望はあなたにまみれ唐突に脈拍のように木霊する『私』」というようなストレートな歌を概念的にすぎるとして批判するのは、当たらない。「欲望はあなたにまみれ」と言った瞬間に従来の短歌的なセオリーを一度に飛び越えた言葉の実践的な場が用意されてくるのである。ただ、そこでは自他の境と日常的なパーソナルなものの境界とをごっちゃにしないで「詩」の劇を演じ、作り、読むための熟練を必要とする。また、大きな意味での「芸術」の枠組みが必要となる。それが突出した他者性を突き付けて来るエゴン・シーレの絵などに作者が言及する所以である。
本書の第6章と第7章は重要な章である。たとえば「対話ノ重層性ニ向カッテ……」の一連は、『ギルガメシュ叙事詩』などを引用しつつ構成されているが、そこには、これまで江田が論じて来た山中智恵子の作品の要素が織り込まれてもいる。神話を読む劇的な語りのなかで、「私」に「言葉」が降り立つとき「死」がまじまじと意識される。
・鳥ノ舌 常世ニトモル薄明ノ言葉ノ裔ニ打チ据エラルル
・暮レ鳥ノ声落チフカキ祈リ充ツ 傷匂イ立ツ瀝青ノ斧
これに加えて、「神を噛んで……」という、「カミオカンデ」を意識している一連から引く。
・死に向けて蘇生する私 神を噛んで恍惚は躰を合わせゆく言葉(ロゴス)
「神」を引用しはするものの、それ以上に「自己」に反射して来る傷のようなものに関わるところで「神」に言及することに作者は意を注いでいる。おしまいに。私がいちばんいいと思ったのは、第7章の一連などに詞書として付された俳句体の短詩であることを付け加えておきたい。
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