雨に濡れし朱の自転車を拭いておくふたたび仕事得んとする子に 中川佐和子
水草のごとく過ごせよ東京の地中の電車に揺られながらに
平穏無事な日常の起伏のなかに、折々訪れる感情の揺れを正確にスケッチして書きとどめる。そういう生活のなかのちょっとした詩というものを喜び、短歌に作ることを楽しみとする人々にとっては、中川佐和子の歌は等身大で手の届くところにあるように見えるのかもしれない。しかし、この平易な口調は並々ならぬ努力と執心によってもたらされたものであることを、私は知っている。同じ一連から引く。
かなしみもはぐくむごとくと言えるのは病む三十年の長さの果てに
気を張りて待合室に座す母よ虹のごとくに生きよと思うに
※「思」に「も」と振り仮名あり。
仕事待つゆえに国立駅まで快速に乗り立ち直るべし
3Bの鉛筆握りているときの心に荒き波を奔らす
母を病院に連れて行ってから、自分は仕事の列車に乗る。職場に入って校正か添削の鉛筆を握っていると、「心に荒き波」が立つ。淡々と述べているが、こういう感情の移り行きの描写を通して、「母よ虹のごとくに生きよ」という使い古されたような凡庸な比喩が、そのまま詩の実質として強さを持ち始める。作者はずっとこういう行き方で押してきた。ここに作者の特徴があり、その作品の持つぶ厚い説得力がある。
払暁の東京へゆくタクシーの中にて母に橋を指さす
諧調をなす朝明けの空なればきっといいことあるを信じる
実に安らかな、いたって普通の歌だ。しかし、この出来事の断片に目を当てていると、ある一個人の上を流れる時間のかけがえのない意味が、じわりと伝わってくるのである。
※8月20日に書き直した。
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