さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

川野里子『歓待』

2019年05月04日 | 現代短歌
 この連休の前半は、尾崎一雄全集の第二巻を注意深く読んだ。その合間に、川野里子さんの新歌集をめくっていた。全集の第二巻には、昭和二十年前後の作品が収録されている。親族の死と自らの病と戦争の現実に直面しながら生きる姿をえがいた小説世界である。川野さんの歌集にも、苦難に面して生きる人の思いがのべられている。引いてみよう。

  「オフロガ・ワキ・マシタ」しんと木星も土星も聞きてゐるなり

  一匹のマウス握りてゐるこころマウスに縋るごとくにをりぬ

  自己主張してきしあはれスイッチ押せば驚きてコード巻き戻り来る

 身めぐりのものを相手にしながら、感情のふかいところから言葉をさぐって、自己を凝視している。機械に囲まれながら、われわれが抱えている根源的な孤独を一首目は暗示し、手作業のうちに押し込められている焦燥感を二首目はあらわにし、三首目は、われわれの〈欲望〉のありようを、満たされない欲求不満の地点から引き返すものとして巧みに家電のコードに仮託しつつ形象化している。一方に情念の当体を意識しながら近しい「モノ」と対話する批評的な精神のはたらきが感じられる。

 「あとがき」は、短いが亡母のことにふれたいい文章である。この作品集の底を流れる基調の感情が何か、ということがわかる。

  酸素マスクの中に歌はれ知床の岬は深き霧の中なり

  生きようとする人ベッドにゐる昼を蛇口に水はゆれながら立つ

   ※   ※

  一両列車とほりすぎたりゆつくりと何かを探すカーソルのやうに

  絶対安静 吊り橋となりしわたくしをだれかひつそり渡りゆきたり

 最後の方の章をみると、母の看護をしているうちに作者自身が心身の過労で倒れてしまったらしい歌がある。人生というものの過酷さに堪えて人間が生きるということのたいへんさ、危うさを描いている。尾崎一雄は文学を支えにして耐えたと書いている。川野も短歌を支えとして生き堪えているだろう。

 危機的な局面のなかで、生の場所と時間の一回性に突き当たるような言葉があらわれてくる。「蛇口に水はゆれながら立つ」、「何かを探すカーソルのやうに」というのは、単に修辞がどうとかいうことではない、そのように言ったときにはじめて照らし出される真剣でのっぴきならない生の真実の相貌を詩として示している。


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