さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

稲葉京子『忘れずあらむ』

2019年09月23日 | 現代短歌
 久しぶりに知友と会ってしばらく話し込んでいるうちに、人生というのはままならないものだなあ、というような話になって、何時間か道を歩きながら話しあって、それからゆくりなく別れた。貴重な時間であった。そうして、今日たまたま積み上げてあった本の中から、この一冊を引き出したのも何かの縁である。

  一本の若木に向きて問ひてをりこのやうな母でよかつたらうか  稲葉京子

  今ひとたび幼な子となり帰り来よ老いてもろでのあそべるものを

 自分の子育てのことを思うと、後悔することが多い。この二首をみて、ああ私も、と思うのだ。

  遠い日に少女でありし私は「八双の構へ」といふ語を知れる

  「ふりかぶつて面」はひつたりと律調が言葉を得たる一瞬をいふ

 作者の平易で構えないことばの斡旋のしかたが、私は若い頃は物足りなかった。けれども、それは若気の至りというものだった。次のような歌をみると、佐太郎のような外連味はないが、香りのよい薄茶を一服口にふんでいるような、清浄な味わいがあって、作者への共感がだんだん深まってくるのである。

  立ちのぼるコーヒーの湯気のかなたなる七十の父まだ生きて見ゆ

  涙散るよはひにあらず膝つきてこぼれ椿をかき寄せてをり

  たへがたき寂をはらへと父母がわれに置きてゆきしはらからならむ

  大方はさびしき夢のうすやみにはたはたと発ちてゆく鶴の影

 これも私の高齢の知人だが、話し相手もなくて、さびしいものですと葉書に書いてある一句に胸を衝かれるのだが、こちらも自分のことで手一杯、彼の人にせめて「はらから」なりと近くにあればいいのだが、みなそれなりに年をとっていると聞けば溜息をつくばかりだったりする。「大方はさびしき夢のうすやみ」の寂びたうつくしさ。

  駆けて来る小さき者を抱きとむる広さがわれの胸にまだある

  立ち直る力が全身に満ちるまで今しばし時をわれに給はれ

 おしまいに引いたのは、病んだときのものだが、なお生きようとすることの義(ただ)しさのようなものが、ここにはある。

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