歌庭 -utaniwa-

“ハナウタのように:ささやかで、もっと身近な・気楽な庭を。” ~『野口造園』の、徒然日記。

日帰り関西

2011年07月15日 | 旅録 -travelogue-
十三日の水曜日。



出張で、神戸へ行きました。


この前の日曜日に鎌倉に行ったこととか、先月末に北海道行ったこととか、
色々あるけど、もう忙しすぎるので、時系列はさておき。






前夜、新宿発の夜行バスで。

「三列独立ゆったりシート(トイレ付)」でも、片道5千円以下。安い。
快適に寝れた。

ケチって「4列レギュラー格安シート」とかにすると、絶対に後悔します。


但し旅行会社によって若干のムラがあり、
前後左右のお客さんのアタリハズレは、運。



心なしか、東京よりも風が涼しげ、神戸。

神戸っていうか、兵庫。
兵庫県のことを言ってるつもりで
「神戸」って言ってしまう。そんなささやかな癖がついてる。

厳密に言うと、降り立ったのは 三宮。
「兵庫」に来たということで、
兵庫は西宮在住の、当日たまたま休日だった奇跡の友人バブルを召喚し、朝カフェ。
ほんとに瞬く間。

それから仕事関係。

そのあと、



三宮にある「東遊園地公園」の一角、

『震災と慰霊のモニュメント』へ。




神戸に来たら、必ず寄ることにしている。





水にはじけて、光りと音が、響く。








この日の神戸の空は、雲ひとつなかった。







高い「オール電化」マンションと、新しいビルに囲まれて。









それから。

宇治に住む友人に会いに。

彼もまた、奇跡的に当日ホリデーで、
宇治を案内してくれた。

水曜日はどうやら、観光のエアーポケット日らしい。すいている。閉まってる店もちらほら。


静かで混んでなくて、とてもラッキー。



鵜飼が見られる宇治川。宇治川、、でいいのかな。

穴場らしく、静か。

その川岸に、いわゆる鴨川の「川床」みたいに張り出している離れ座敷がある
おそば屋さんがあって、




茶そばを頂く。

それと、
「うなぎいいめし」というものを。

その正体は、
もち米に、サンショウを練りこみ、うなぎを載せて、竹の皮で包み、蒸した粽(ちまき)。

これが、
あまりにも最強にうますぎて、目から虹色のウロコがほろほろと零れ落ちました。

戦慄です。羨ましがられるから、写真控える。





それから、



平等院鳳凰堂。

ちゃんと拝殿にも。そして、大きな阿弥陀如来と雲中供養菩薩(の半分)、国宝の天蓋、

きらびやかな極楽浄土を拝む。

感無量。




蓮も咲いてる。



別館の資料館も、必見。

なぜなら、

わたくしがこの世で一番というか唯一「大好き!」と表明できる仏像、

「雲中供養菩薩」ががっつり拝めるから!
本堂から取り外された半分=26体。

雲にのって、いろんな楽器を持ち、舞い踊り、
とても楽しげで、ほんとに極楽浄土の音楽がぷわああんって、朗々と聞こえてきそうな。

幸せになります。

52体全員集合した雲中供養菩薩クリアファイルを買いました。





拝観終了寸前。

時刻はもう黄昏。




夏の初めの、黄昏。








宇治といえばお茶。

宇治に本店を構える、歴史の旧いお茶屋さんへ。




友人が、気づいたら アイスを買ってくれていて、



友人宅にて、黄昏まったり。


仕事の打ち合わせ準備に勤しんでいた奥さんとも、ここで再会。

旦那さんは、骨董屋さんで働いている人。映像を撮る人でもある。

奥さんは、フェルデンクライスという身体メソッドを教える人。舞う人でもある。

かつて働いていた森で、真冬の秋田の雪の中で出会ったおふたり。
以来、仲が続いている。


おふたりが宇治でやっている
「フェルデンクライスカフェ(フェルカフェ)」。


ふつうのマンションの一室だけど、ドア開け放っていた。東京じゃありえないから、ちょっとびっくり。
風が通り抜けて、気持ちよい。



お茶を頂き、アイスを食べ。
すっかりのんびり。


やっとお邪魔できました。







それから、

京都市中へ移動。


なんと、


祇園祭の鉾が立っていました。

この週末にあるという、祇園祭。その予行演習的な、前夜祭的な感じなのかしら。

もうやってるよ、という感じでした。



子供らが声を張り上げて、祇園祭の唄を歌って、売り子の練習をしていて。

ちょうかわいい。

ドスの利いた関西弁をちっちゃな男の子がしゃべるのも、ちょうかわいい。



祇園祭。初めて見た。

本番当日は ぎゅーぎゅーの混雑で、とても歩けやしないとのこと。
でももちろん、この日は普通に歩ける。あちこちの鉾を見て廻れました。



朝方瞬間的に会った神戸の友人バブルを再召喚し、合流。

この日にここに来るなんて決めたのはけっこう急だったし、偶然だったんだけど、
ほんとにラッキー。



道を歩いてたら、

フェルカフェ旦那が、やおら立ち止まり、見ず知らずのサラリーマン青年と話し出した。

そしたら、



腕に、セミの幼生が。

土から出てきたばかりなのか、まだやわらかいんだ、と言う。


どうやら、街路樹のケヤキの根元から這い出したみたいなんだけど、
木に登れず、道路を歩いていたのを、救出したところだったらしい。


確かに、そのケヤキは そのセミには幹が太くてつるつるすぎるのか、
つかめないらしい。

それで、



近くのシマトネリコの細い枝に引っ掛けたら、

うまいこと、よじ登り出した。


よかったね。といって、

さらっと 別れる。

じゃ、と。



なんとなく、経験のあまりない、レアなコミュニケーションをとった気がした。

行き当たりばったりの、瞬間的な風来坊の、一期一会。

すーっと、夏の夜風が胸を通るような。静かに優しい、心地になった。

あとくされも何も、まったく何にも残さないし、それで十分という、

そよ風のような出会い方。と、別れ方。



あー、そうだ、これって、

旅の最中に起こる、旅先特有のコミュニケーション。だ。

名乗らず、連絡先も交わさず。それはそれでいいんだという。

最近は、facebookにしろ、twitterにしろ
人とのつながりが大事!確かにそれはそうなのだけど、
人の縁をガンガン活用しよう、レッツメイクチームワーク!という感じがけっこう強調されて、

それは決して間違っていないし、良いと思うんだけど、確かに。

「友人」との結びつき合いを 必死に増やし、維持し、繫ぎ止めようと
決して離すまい、決して忘れられまい と、
寸暇を惜しんで頑張っている風潮があるかもしれない。

ある種、束縛。


でも、旅すると、

「そういうのが無くても別に大丈夫。、っていう世界も、ふつうにある。」

と、改めて気づかされたりする。

ちょっと前までは、そんなもの無くて、それで普通にちゃんとつながる人とはつながっていて、
暮らせていたんだもの。

ということだとかを。






、とかいう考えが、ふと湧いたりしたときに、


「ああ。いま、旅してるんだなあ。」

って、

すとーんと腑に落ちるように、「今、自分の現在地」を、実感できた。

なんというか、

案外、日々あたふたして押し流されて見えなくなっている「自分の今の立ち位置」を
ふと見つけた別の角度からやっと 見つめることが出来て、
「ああ、そこか。」って、しっくり、理解できた、というか。落ち着きを見つけた、というか。


そしたら、次の瞬間、

夏の夜の風が、なおさらに、ひゅーっと涼しく、通ってゆくように感じられて。


なんて心地よい夜だろう。

と、

じんわり、想った。



今そこに居ることの、偶然のような幸運を、独り黙って、じっくり、噛み締めつつ。






そんなこんななこともありつつ、

おなかがすいたし帰る時間が迫っているので、
行き当たりばったりの店にばっと入って、幸いにも美味しいものを食べて少し呑んだりして、

あたふたしつつもゆっくりしつつ、

「じゃー、またー!」とあたふた別れ、

23:10。
京都駅の八条口から、無事、帰りの夜行バスに乗りました。




旅すると、
一日が濃密で、長くて、

そして、

あっという間。









帰りのバスでは、

苦しい悪夢をダブルで見てしまい、

うまく寝れなかったのだけど。



翌朝、すでに暑くなり始めている6時半の新宿に着き、

そのまま仕事へ。


ちょっと洗われてしゃきっとなった気持ちを抱えて、

また元の、忙しい日々へ。






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