歌庭 -utaniwa-

“ハナウタのように:ささやかで、もっと身近な・気楽な庭を。” ~『野口造園』の、徒然日記。

正しい優しい

2011年03月27日 | 徒然 -tzure-zure-
前回に引き続き、今回までは、とにかく、「自分のために」書きます。
自分を大丈夫にするために。

自分のためだけに書く身勝手な文だけれど、伝わってほしいこともあるので、
正しくまっすぐに、想いは込めています。(それは、いつもと同じ気持ちで。)
よかったら、読んで下さい。




* * * * *


金曜日、ミュージックステーションを見た。

テレビは持ってないので、ケータイのワンセグで。
もちろん、
マイガッデス:Coccoさん目当てで。
AIちゃん(中学の同級生)も出てた。


Coccoは、一番最後に、
「ジュゴンの見える丘」を歌いました。

 

 もういいよ 目を閉じていい

 もういいよ 少しお休み

 悲しみは要らない

 優しい歌だけでいい

 あなたに降り注ぐ全てが 正しい やさしい であれ

 >>

  (著作権でほんとはあれかもしれないけど、歌詞を一部抜粋。)






自分の出番になるまで、後ろの席で、ほとんどずっと 目を閉じてうつむいていたので、
ネットでは「Cocco寝てる!」とか「不謹慎」とか騒がれて。

自分も一瞬寝てるように見えたし、それがどわっと騒がれている事態も面白くて、つい笑ってしまったのだけど、

よく考えろ。

考えたら、
あの状況で、寝てるわけがないわけで。



翌日、CoccoさんのHPに、メッセージが上げられた。
コピペはしないので、下記リンクからご覧下さい。

>>COCCO CHAnNEL


彼女自身が食らった痛みを堪えていて、

寝てるわけがないわけで。





ツイッターが、この震災の時にだいぶ役に立ったということで賛美されてる。
と同時に、不要なまでの煽りや誤りも、大量に垂れ流されて、拡散された。
有益なのも、無益なのも、善意も身勝手も真偽もぜんぶごちゃまぜで、
ほんとに大量に。

ほっとけばパニックになる事態だと思うけど。日本人の多くが幸い、冷静で、良かった。
一方で、冷静でいられず、起きたパニックもある。


発せられた情報、ことばは、飛散したまま、
見かけ上は、流れ去って行く。見えなくなって行く。

でも、
触れた人の 心の端々に、ひっかかる。

ひっかかって、傷をつける。

付けられた傷について、誰も責任を問えないだろう。
責任の所在はすでにわからない。

発してしまった言葉、誰かから流れて来た言葉をまたどこかに垂れ流して、
その言葉に、誰も責任を持たない。

簡単なコピペ
安易な拡散
ただの「つぶやき」
安易な削除


決して消せない、痕跡。

じわじわと、見えないかたちで残って行く傷。







大丈夫です。“ただちに”影響があるというものはございません。


言葉には、意味が在る。表の意味、裏の意図。
言霊とも言う。

「ただちに影響はないと思われる」ということは、
「いずれ影響が出て来るとも思われる」ということでもある。


そのように発するからには意図があり、
そのように発しないことにも意図がある。

言葉というのは、
誰かに投げかける段においては、ほんとうは、それなりの覚悟が要る。


歌う、という行為も、同じく。

今、多くの音楽に携わる人が、自分に出来ることを、と探した結果、やはり、と、
音楽を発信してくれている。


気楽な気持ちでのほほんと、歌っているわけじゃない。

「そんなものより金をくれ。食べ物送ってくれ。毛布をくれ。」
そう言われることを、百も承知で。

発するという行為には、それ相応の力を振り絞る必要がある。
と同時に、容赦ない傷を負うことも。


歌う ということは、
「つぶやく」よりも、ずっと、重い。





「死ね」なんて、
普通は、よう言えない。口に出して、誰かに面と向かって。軽はずみでは言えない。
その言葉自体の殺傷力は、恐ろしい。

でも、PCの箱に向かって、ケータイに向かって、ちょこちょこっと、「死ね」と打ち込むことは、
容易(たやす)い。
残念なほどに、たやすい。


面白可笑しく、揚げ足とったり、悪く騒ぎ立てるのは、見てる側の勝手だし
それが日常だったのなら、なおさらそうしたいのもわかるんだけど、

あまりにも 軽すぎる。

生きている人に向けるには、あまりにも軽率すぎる。


ちょこちょこ打ち込んでいるひとは、自分で勝手に独り言でも「つぶやいて」いるつもりだろうが。

発する前に、考えろ。
その言葉の重みを。

ちゃんと考えて欲しい。
その言葉の影響を。

一秒。立ち止まって、考えて欲しい。


打ち込んだ言葉は、字面通りに伝わってしまうということを。

そのウラにたとえ愛情やらなにやらが含まれていても、
字面に現さない「情」は、その匿名のボード上では、伝わらないということを。





昔はテレビッ子だったが、
何年も前に棄てて、テレビを見なくなって、良かった。と思っている。

久しぶりに、見ざるを得ない状況があったりして見ると、
ぞっとする。

あまりにも雑多。あまりにもナンセンス。なんというノイズ。
そして、あまりにも、力が強すぎる。

こうやって、知らず知らず洗脳されていくんだな、と、思う。

こわいな、と思う。





この前、打合せのあとに、ラーメン屋さんに入った。

そしたら、巨大なテレビが点いていて。

震災特番がやっていて。

祖母と孫が9日ぶりに救出された、と。
そして被災地の無残な映像と。
延々、繰り返していた。

それと、同じCMが、エンドレスにループ。エンドレスにループ。終ったと思ったら、
エンドレスにループ。


救出された孫が病院のベッドに就く。その傍らで、インタビュアーが神妙に問う。

「救出されたときのお気持ちは、いかがでしたか、、?」

「救助を待っているときは、どのようなお気持ちでしたか、、?」


吐き気がした。やめろ!と、発狂した声をあげそうになった。

「被災地では、今も、おにぎりひとつと、あめ玉ひとつで、頑張っています、、、」
「毛布も足りず、、」


そんなことを聞かされて、見させられて、

どうしたら今、平気な顔して、ラーメンをすすることができる?
いったいどうしたら、平然と、美味しそうに食べることが出来る?



それとこれとを切り離して、「被災地じゃないところにいる、被災者じゃない自分」は、経済活動を回すため、元気で居るために、食べなければ。というのも、理解出来る。


理解出来るけど、
理解出来ない。






テレビを通じて。

延々と繰り返される悲しみの報告。膨れ上がって行く不穏な情報。
なにかを隠そうとしている人たちと、疑念に苛む人たち。


それでも、

自分に今、出来ることをやるしかないと、肚をくくった人たち。

出来ることがわからず、無力感に苛む人たち。

募金?救援物資?節電?いくらぐらいやれば、意味がある?


いろいろと、わからないことに頭をつぶされながら、

でも
「この場所で、ここに充ちている空気を吸って、
 ここで手に入るものを食べて、生きて行くしか仕方無い。」
と、肚をくくった人たち。


不便や不公平にも、黙って、働く人たち。


どこまでが被災者だろう。




でも、
今回は、テレビに感謝している。
テレビの力で、どうか、ひとりでも多くの傷を負った人に、届くといいなと願う。


Coccoの、まっすぐに歌うのを見届けて、

それから、ネット上に溢れた 無闇矢鱈な「つぶやき」の暴走を見て、

複雑な気持ちになりながら、

『大丈夫であるように』のDVDを見た。

「うたうたいとして、あまりにも無力だけど、歌を歌うしかできないから、歌う。」
と、
葛藤し、自分を苛みながら、ヒリヒリと焦げながら生きている様を追った、Coccoのドキュメンタリー映画。
引っ張り出して、久しぶりに見た。


青森の六ヶ所村の女から手紙が来たこと、
それがきっかけで 六ヶ所村のことを知ったこと。そこに訪れたこと。
それを、青森のライブ会場で語るくだりが出て来る。

実は自分も、そこに居合わせた。あの時、泣いた。


久しぶりに見たけど、
久しぶりに、涙が出た。

そういえば、泣いたの、いつぶりだったか。もう、全然わからない。







今までずいぶん長いこと、泣いてなかった。
泣いてなかったし、感情全般、押し殺してた。

自分を殺して。自分を顧みず。
仕事が忙しくあったおかげで、見て見ぬ振りも出来たけど。

ろくに寝ないし、ろくに食べない。抑えて耐えて、さらに、押し殺す。


自分を解放出来るのも、
自分を労(いたわ)れるのも、結局、自分しか居ないのに。

自分がしっかりしていないと、
他の誰かのことをなんとかしてあげようなんて意識になれない。

自分自身が 身も心も力を失っていては、
他の誰かを元気づけるなんて、そんな力、出やしない。


わかっているのに、
わかっていられない。






「呼吸をしよう。」
と、
ヨガの先生をやっている友人が、言った。
言った、というか、ブログに書いてくれた。


クリパルヨガティーチャーの知人のブログにも、書いてあった。
「feel yourself, feel the universe」


ヨガは、呼吸法なんだと、そういえば聞いた気がする。




こうした渦中では、意識的にシャットアウトしてるつもりでも、気にしないつもりでも、
一人でこもって生きているわけじゃないからやはり、浴びて。
ご丁寧に、影響を受けて。鬱屈した感じに陥る。
抑えていても、どろどろとなだれ込んで来る。


そんな泥沼に はまりながら、
時折 ちゃんと、
こういう、「救い」も現れる。


長くなった。すみません。でも、一度ちゃんと記しておきたかった。自分のために。
自分が起き上がるために。自分を解放してやるために。
そうでないと、先へ進めない。

五体満足で、生きているのだから。
頑張らねば!

なにより、

マイガッデス:Coccoさんが「がんばります。」って言って、
ほんとに頑張ってくれているのだから!


自分も、がんばります。

次回からは、「ふつうモード」に戻ります*


がんばらなきゃ!
花が待っている!







では最後に。

その友人のアドバイスを、コピペで、紹介したいと思います。

以下、転載。

*******************************


今はみんなが想像を超えた困難に、初めて遭遇して戸惑っているから、
ほとんどの誰もが多かれ少なかれ、緊張している状態が続いている。

そんな時は上半身に気が滞ってのぼせやすくなっているそうだ。
だから、呼吸を深くして落ち着こう。そして気が巡るようにしよう。

ここで一呼吸、リラックスしよう。
ちょっとした時にやってみてくださいな、首から上へと気が通ります。
ただ腕を組むだけ。その時肘を覆うようにすること。
そして手が当たっている部分の方に意識をおいて、
温かいなあと感じられるようにする。
片方を肘のもうすこし上に手を当てるバージョンもいいです。

手当て、というのは、悪いところがよくなるよう手を当てることからきている。
自分の治癒力が一番身近で、隣の人にもすぐにできる。

今、自分のいつもの毎日を大切にしよう。
どうしても心がすぐに揺れてしまうけれど、それでもいい。
体はなるべく動かしてほぐしておこう、俊敏であるように。
そしてなるべく笑顔でいよう、感謝の気持ちを一杯もって。

小さな積み重ねかもしれないけれど、真実を知って行動する勇気を持ちたい。


**********************************

以上、天才。


どうもありがとう。


小さな産まれたばかりの赤ちゃんを抱えているあなたと、
小さな産まれたばかりの赤ちゃんに、
「正しい やさしい」平穏が訪れますように。




それから、

これから産まれ来る命を抱えている友人と、
これから産まれ来る命に、
正しい やさしい 朝が訪れますように。









大丈夫

2011年03月26日 | 徒然 -tzure-zure-
頭が痛くなるほど。
状況は決して、楽観出来ない。

多くの人が今、淡々と普通に生きるために 無理矢理たぐろうとしている希望は か細い糸の一筋、
いっぺんに呑み込んで押し流すような絶望の海。

想うところは、色々と、あるけれど。

つい 書き始めると
汚い怒りを 喚き散らしそうだ。






東京は、一見 被災地ではないようで、
被災地です。

一見 淡々と
普通っぽく生活が廻っているようで

でももう、違います。

日々 押し寄せて膨らむばかりの 不穏と
哀しみと焦りと不安と罪悪感と
なにかを脅迫するように、煽る風。


淡々と、冷静な顔を繕って、

じわじわと暗く蝕まれていく裡を抱えている。


見えないところで。









されど、

今日もただ、淡々と。



働くのみ。







晴れても、寒い。

緊迫を解いてくれない、強張るような寒さが続いているけど、


モクレン、シキミ、ユキヤナギ。










白い花が 一斉に咲き出している。

春分を境に。

季節は丁寧に。




ほんとうに大事なことは、なかなか 目には見えない。


目にしても、見えない。





みなさん、大丈夫ですか。

自分はたぶん、ほんとは、あまり大丈夫じゃない。
けど、大丈夫。


あんなことがあって、まだまだ続いていて、終わりが見えない。
そんなにあっさり大丈夫になれるわけない。

でも、
大丈夫。って、言う。






ほかの誰かじゃない。

自分を守ってやれるのは、自分だけ。

自分を大丈夫にするのは、自分だけ。





地震の次の日に断線して壊れたイヤホンを、買い替えて。

音楽が復活した。




渋い桜色にした。

すごく音が良くて、気に入っています。





冷蔵庫の花

2011年03月22日 | 徒然 -tzure-zure-
辛し和えにしようかな。

と買って、そのままタイミングを失ってしまった
菜の花の葉っぱ。

冷蔵庫に入れてた。


昨日見たら、なんか、黄色いぽつぽつが目立ち始めてきたので、

「もしや、、咲くつもりか、、?」と、

急いでビニールを引っぺがして、鉢に投げ入れてみた。

根も無く、ザックリ切られて冷やされて、
どうなるのかなと、半信半疑。




そしたら、




咲きました。



雨の春分。

蛍光のイエローパワーで、いっぺんに明るくなった部屋。


咲いてくれたもんだから、ちょっともう、食べられないやな。






電車にて

2011年03月21日 | 徒然 -tzure-zure-
駅のキップ売場で、小銭をぶちまけてしまった。


駅のキップ券売機は今、節電のため、使える台数がすごく絞られている。
構内も、半分くらい暗い。

ふだん、通勤はチャリなので、電車にはあまり乗らない。

金曜は 新百合ケ丘でお茶のお稽古があるので、その折に週に一回、乗るか、
そのくらい。


で、

新百合ケ丘で、suicaをチャージしたあと、くるっと振り向きざま
財布から、小銭たちが一斉に、ぶち撒かれてしまった。

あっちへこっちへ、ある百円玉はくるくる廻りながら途方も無いほうまで。

あらら、あわわ、と、慌てて拾おうとしたら、

たまたま周りに居合わせた人たちが、一斉に拾い上げてくれた。
はい、はいよ、と。それぞれ拾ったコインを差し出してくれた。

その間、
ものの数秒の出来事だった。と思う。


思わぬ優しさに出遭って、ちょっとビックリしている自分が居た。

で、

ビックリしている自分に、ギョッとしてしまった。





打合せで、珍しく連日、電車に乗っている。

今日は 茨城のつくばに行った。
つくばエクスプレスは、平時の半分に運行量を減らし。30分に1本。
うら寒い駅の待合いブースに、あるべき電熱ヒーターは、節電のために撤去されていた。

冷たくて、ベンチに座っていられない。


引っ越したばかりの時に震災に遭うことになった若いお施主さん夫婦、無事でなにより。


帰り、
いつのまにか、意識を失っていた。

最近あんまり眠れていないので、電車に乗ると、いつのまにか、あっけなく落ちてしまうんだけど。

つくばエクスプレスの終点の秋葉原で、若い女子が、ちょんちょんと、起こしてくれた。






昨日は 埼玉の、深谷(ふかや)というところ。存外に、遠かった。湘南新宿ラインの快速が運休しただけで、ずいぶん違う。


初めて降りた深谷駅は、
東京駅のミニチュア版だった。



「こんなところで、なんで?」と、びっくり。

聞けば、東京駅に使われている「深谷レンガ」というレンガの、産地なんだそうな。


埼玉のこっちの方は、震災の直接的な被害は、あまり無かったみたい。

だけど、(地方では当たり前にそうであるように)ここも、
電車より車がメインの社会。

ガソリン不足、困っているらしい。


府中の我が社も、ガソリンが無いと仕事にならないので、毎日どこそこが入れられたとか、あそこは20分待てば入れられたとか、戦々恐々としている。






久しぶりに電車に乗ると、面白い。

普段は 遭遇しっこないような様々な人が、いっしょくたに、偶発的に、ひとつの箱の中に集う。

休日は、幼児が多くなるんだっけ。どの子もいちいちほんと、可愛らしい。
赤ちゃんが、自分のほうを、きょとんと、じーっと見てると、
何を見てるんだろうと、すごく気になる。背後の何か、かしら。


毎日はいろんな偶然が必然のように、必然が偶然のように起こっているけれど
いったいどういう巡り合わせなんだろう。と、不思議に思う。

変わった人、沢山見る。時間帯も、関係あるのかな。

みんなそれぞれ、
自分なりの「ふつう」で、過ごしている。

キョロキョロしてる人。
ぽかんと、口開けっ放しの人。
ものすごく眉間がしわだらけになっている人。

隣りのひとの読んでるものを、がっちり一緒に読み込んじゃっている人。

シートの端っこが空くや、飛びつくようにそこへ移動することに全生命エネルギーを賭けてます!みたいな中年の女の人。

鼻くそを足下にぽろぽろまき散らして、知らん顔するおじさん。

シートにくっついてたゴミをちょちょいと拾って、どうするのかと思ったら、そのまま下に落として、座ったおじさん。

漫画を読みながら、うふ、ふふと、満面に汗と喜びをたたえる、おそらくオタクの男の人。




みんな大概、気を抜いていて、
とても「素」で、
とても「ふつう」なので、
面白い。

みんなのそれぞれの「ふつう」が、いかにバラバラか、目の当たりにする。
それが、面白い。

見てないフリして、見てる。

人間観察していると、面白い。



そういうふうにして面白がって見ている 私も おそらく、
誰かから、見られているんだろう。


自分では気づかない何かを、チェックされながら。






ここ最近、連日、電車に乗る機会があって。

一日一日、ちょっとずつ、何かが変わっている感じがある。

毎回、

その中で、一番ほっこりしたのは、


四谷辺りで窓の外に見えた ムラサキハナナの紫色の花のじゅうたん

、ではなくて。




花を手にした、おじさん。

誰かにあげるのであろう、花を手に、眠る、おじさん。








大宮駅、

駅の改札構内は いわゆる「エキナカ」っていう、大賑わいのショッピングモールになっていて、
こんなご時世を忘れるほど賑わっていて。びっくりするほどだったけど。
なんとなく勢いにつられて、

あ、そうだ、昨日誕生日だった友達に今度あげよう、と、プレゼントを買ったり、

あと、やっぱりお腹がすいていたので、
「アボカドサーモンサラダ丼」、っていうのと、

さらに



5種類のおこわが入った行楽弁当を買ってしまった。
基本的に「全種類コンプリートしたがり」なので、ちょっとずつ全種類おこわが入っているのは、とても私のツボを押さえた、良い商品だと思う。

さくらのおこわも入ってる。

アボカドの方は、会社に戻ってから、遅いランチに。

おこわ行楽弁当のほうは、家に持って帰って、夕飯にした。

ごま塩をふりかけすぎて、せっかくのおこわ、どれもこれも塩味ばっかりになってしまった。






スーパームーン

2011年03月21日 | 徒然 -tzure-zure-


3月20日の3時10分、

地球に最接近した月。
19年ぶりに。





エクストリーム・スーパームーン。

というのだとか。






風が強い。
はぎれ雲が流れる。

流されてゆく。




隠れては、現れて。






現れては、かき消されて。

すべては同じ速さで。





どの瞬間も 美しい。

どの瞬間が一番かなんて、選べない。











流れのままに









隠れたら 待って

現れたら 目を覚ますように






音も無い 光のさざ波


闇に光る波に、目が醒める





風の流れかたも
月の光りかたも
終わりは無いので、

「クライマックス」は自分が決めるしかない

そして
「終わり」も、自分が決めるしかない





今だ





次かな




あの雲のしっぽが切れたら






でも さっきだったかな






やっぱり
今かな。





満ちる月の道が満ちるのは


今だ。





今。



今、

どこからか、


目に見えないところから、

沈丁花の香りが流れてくる。



どこかで咲(わら)っている。






ひとつでも多く

2011年03月17日 | 徒然 -tzure-zure-
メールや電話、
心配、どうもありがとう。嬉しいです。




いろいろ うまくいかないこともあるけれど。
お元気そうで、なにより。


その割に、
返事もろくすっぽ、おろそかにしてて、すみません。




余震や停電、不穏な風、浮かないニュースで、やはり不安になったりもしつつ、
頭が痛くなったりもしつつ、

とりあえずこつこつ、朝から宵の際まで、
仕事しています。

「今ここで こんなことしてる場合なんだろうか」
と ふと想いながらも、

今は結局、自分はそれしか出来ないし、
そうするしかない気がするし。





庭の図面を描いています。

こんな時でも、
どんな時でも、

お客さんは待っています。




最近 立て続けにやっているのは、植栽(植物植え込み)がメイン。

 自分が一番好きで、
 一番、特にやりたいのは、
 植栽。

こつこつと、色々やってきて、次第にはっきりしてきたのは、
そのこと。

植栽のことを調べたり想い描いたり、そしてまた、実際植え込んだりしているときが、
一番、楽しい、というか、無心になれる。





そして今、ありがたいことに、
それがメインで動くことが多いので、
黙々と。

頭をひねりながら。同時進行で学習しながら。
多分楽しんで、やっています。


ひとつでも多く、花を覚えたい。



目の前のことを、とにかくこつこつやっていれば、

自ずと、
自分のやりたいこと、一番好きなことのほうへ、流れは通じて行くんだろうな。








ツルニチニチソウ(ビンカ・マジョール)

花がひとつ咲いた。
一番、日当りの良いところから。



続けざまに咲いてゆこうとする者たち。
つぼみは槍のように、つんつんとしている。



ワイヤープランツの中にまぎれて。




静かに動き出す、新しい芽。



ラムズイヤー(羊の耳)



フランネル草(リクニス・コロナリア)の、スカーレット。


宿根草たち。
今はまだ花も無くて、小さくて、地味だけど。


もっと地味なのは



ドイツスズランの芽。



秋に咲く、リンドウの芽まで。


焦らなくとも、ちゃんと来る。
来たるべき季節を、静かに待っている。













なんでもない春の陽気に

2011年03月14日 | 徒然 -tzure-zure-
一歩、
外に出ると。
あたたかい。


暑いくらいに、あたたかい。
そして、
まぶしい。



ほんとに、
何事も無いかのように、
のほほんとした、春の陽気。


こみあげる、梅の香り。

水を帯びた、スイセンの香り。


ミモザのふわふわの色。





地震の余波が。

首都圏で、本格的に始まってきました。

もちろん
被災地の東北とは比べ物にならない 平穏さだけれど、

電気の問題、物資の問題、流通の問題。
ガソリンスタンドは軒並み閉鎖中でした。
電車も高速道路も、難しい。

停電するとか、やっぱりしないとか。やっぱりするとか?
首都圏は、だいぶ混乱しています。


混乱に乗じて、動揺しないように。

冷静に。クールビューティーに。





そんな中ですが、

昨日:日曜日、お茶事がありました。


「茶飯釜」(ちゃはんがま)という。

お茶湯を沸かす釜でごはんを炊き、それを頂く。というのが含まれる、
珍しいお茶事でした。

前日:土曜日は、さすがに中止になったそうです。
日曜も、来られなくなってしまった方もいる中。


丹念な炉で、

鉄のお釜で、

上等の炭で。





「粗飯(そはん)を差し上げたいと存じます。」


頂くのはご飯だけじゃありません。

お椀もの、
桜もち(ちゃんと葉っぱ付き)に包まれた、つみれのおすまし。
塩漬けの桜の花がひとつ、浮かべてありました。

酒の肴には、
海のもの:ぷりぷりの帆立。
山のもの:珍しい、つぼみ菜。


「お流れ頂戴致します。」
亭主と客、杯に、酌み交わします。


具沢山の、田舎汁。

そして、お米。しっとりふっくらした、あたたかいご飯。

おこげ。


そして、お菓子。モクレンを模した美しいお菓子でした。

どれもこれも、美味しかった。



その後、あいにく仕事だったので、肝心のお濃茶は頂けず、即席のお薄茶だけ、急いで頂いて、中座してしまったのですが。。


こんな時だけど。

こんな時だから、

意味があった。そんな気がします。

こんな時に、たまたま、こういう境遇に居る自分だからこそ、
気づけること、
出来ることが、

何か。





一番に想ったのは、
「平穏無事」ということの、有り難さ。

なんでもないただの一日ということの、有り難さ。

美味しいものを、あたたかく、ふつうに食べられること。
その有り難さ。

電気を使わずに、炭火で炊いたお米の、美味しいこと。


その日、その場所に、赴けたこと。立ち会えたこと。




それら全部の、有り難さ。





早く。

何事も無い、

のほほんとした春の陽気のような日が、みんなに、早く、訪れますように。

こんな
あたたかな平穏な日が、みんなにあたりまえに満ち溢れる時が、

早く、訪れますように。






ところで今日は、お弁当、久しぶりに持ってきました。



大変、粗飯(そはん)ではございますが。







長い一日のあと

2011年03月12日 | 徒然 -tzure-zure-
一日経って、今、
どうやらだいぶ呆然と、感覚が痺れていたところに、じわじわと、やっと、事態を理解し始めて来る。

そして、
複雑な気持ちで居る。

今やはり、地震のことで心身いっぱいらしい。なので、あえてそのことについて書かないのは、なんか違うと思うので、書き残しておくことにする。



結果的に
渋滞にはまって、部屋が散らかった程度で、ほとんど無事だった自分。

当日は たまたま朝からほとんど飲まず食わずだったけど、
翌日は ちゃんとご飯を作り食べることができた。

それに対し、
無事もへったくれもない被災地の悲惨、映像、情報、
津波、原発。


14時47分からの、「呆然」。それをどこか引きずったまま、
どこか無感覚になってた気がする。

外面的には 気丈に、淡々と冷静に普段通りに振る舞ってみえたのだろうか、
内面的にはどうやら心身、「麻痺」に近かった。

想像していた「大地震」のイメージと違ったこと。
こつこつ歩いて帰らんとする人の群れ。
パニックも暴動も無く、
東京の町は、人々は、至って普段通り、冷静に見えた。

とにかく淡々と、目を開けて、徹夜ながら、運転もしたりしたけど、

一日経って、

やっとほどけて来て、

やっと見た 福島の津波の痕の無残な映像、

そこでやっと押し寄せて来た、ぞわっという、恐怖。

鳥肌。

麻痺が解けたみたいに
やっと噴き出して来た、
胸を絞める、泣きそうな窒息感。

それと、
何も出来ない、何もしていない、
ふつうに平穏な次の日を迎えてしまった、痛みを正しく分かち合えていない、
後ろめたさのような、
自分は冷血なのだろうか?という不安と罪悪感のような、

それと、
「祈る」という気持ち。


妙な感覚。


余震。






長い一日だった。

夕方、日が落ちる前にお台場を脱出して、
歩いて帰らんと群れ為す人たちを眺めながら、長く重い渋滞の渦中、

芝浦から東京タワー、遅々としてやっと六本木、

「今日中には、帰り着くかな。」
なんていう考えが、全く甘かったことが次第にはっきりして来て、

夜が青く明け始めた6時、
やっと家に帰り着けました。


ほっとして開けた部屋は、一目にして唖然、
しっちゃかめっちゃかに崩壊してたけど、
ひっくり返って飛び出してたアジアンタムだけとりあえず、鉢に戻して、
あとはもう、そのまま。こたつに潜り込んで。すぐに落ちた。


長い一日だった。




よりにもよって、この日だったのか、と思う。

お台場で首都高を降りて、目指すはビッグサイト。

事務所が出展していた「建築建材展」の、最終日。ブースの撤去作業のため、
ひとり、後乗りで、軽トラで駆けつけたのだった。
三時到着目標。

撤去のために集結する車、車、もうずいぶん混んでて、なかなか進まない。あー車線まちがえた、これはなかなか入り込むのが難しそうだな。しまったな、間に合うかなあ。

先に着いてる同僚に電話。「次の交差点曲がれば、もう着きます、はい。じゃあ後で」
って言って、切った。


 しかし、
 ずいぶん、風 強いなあ


と思ってた。ら、

凪ぐ気配 無く、だんだん、
激しくなって、
ぐらんぐらんと、
一方向にゴウゴウと押す風とは明らかに異質な、ひっつかんで両側から縦に横にゆさぶるような揺らぎ、


 あれ?これ、、


そしたら、まわりの車に乗っている人が、ことごとく車を放棄して、中央分離帯に飛び出して行って、


 あ、これ、


やっと事態を呑み込んだ。


 あ、これ、地震だ。

って。


どこかに掴まってないと立っていられないほどに、揺れていた。掴まったものも、揺れていた。

頭のすぐ上で、
さっきまで居た首都高速の高架が「えっ」っていうほど しなりながら揺れていて、
すぐ後ろで、
黒い煙が もうもうと立ち始めた。

なんというか。
とにかく、吃驚して。
恐怖とかでもなく、
冷静とも違う、

なんというべきか。
ただ、目の前の事態に、
唖然と。

呆然と、して。


電話かける。全然、通じない。
ほんの何秒か前までしゃべってたのに!困った、全然使えない。

ラジオ、
「震度7が宮城、」と言う。
東京は5強と言う。東京でこの大きさなら、震源地は一体どういうことに。

ケータイのワンセグをつけたら、
日本地図のほとんど右半身全ての縁どりが、チカチカ赤く点滅してるのを、すぐに認めた。
津波だ。


、、ゴゴ、、グ、ググ。
また!揺れ出した。余震だ、余震だけど、けっこうでかい。

揺さぶられて、酔いそう。
サイドブレーキを引く。エンジンを切る。



だけど、
頭のどこかが、一向に、ぽかーんとしてた。

目の前で、今まさにここで、確かに自分の身に起きているのに、
やけに 現実感の無い感じ、

やけに 他人事のような、妙に複雑な、複雑すぎて、無感情的な「淡白」にそっくり返ったような気持ちで、
とにかく、

ぽかーんとしてた。


 ああー、空、晴れてる。


またどす黒い煙が、水色の空にいっそう立ち上がるのが見える。


ちょうど今朝から思い立って、
「今日目撃して『あ、良いな』と心が反応したこと」を書き留める。」という作業をやり始めたところだった。

「朝陽まぶしい、今日も晴れみたいだ、うれしい。」1ポイント。
「富士山、きれいに見えた。」1ポイント。
「多磨墓地の信号のとこの、香りがすごい溢れてる紅い梅、今日もすごいほとばしってたな。佳い香り、今日も嗅げた。」1ポイント。
「パン屋で買ったトマトでこねたパン、超うまいじゃない!」1ポイント。


そんなふうに、心に書き留めていた矢先。


空が黒くなって、
少し短い雨が降った。



車の動きは 完全にストップされた。

電話は、通じない。
今どこどこで、足止めされてて、すみません遅れそうですけど大丈夫ですかと、同僚に伝えることが出来ない。

消防車、
救急車、警察の車が。
混み入ったまま止まってしまった車のぬけがらの群れを、かき分けて行く。

サイレンの音、凄く苦手だ。
不穏感や緊迫感を異様に煽るから。




閉展時間に少し遅れて、やっとブースに駆けつけて。
もうあらかた、片付け終わってた。とにかく淡々と、掃除とか、やることをやる。


物凄い、風が、強い。地震と関係あるのかしら。


ラジオ、ワンセグ。

高速全部封鎖、
レインボーブリッジも封鎖されてて、まだ帰れないらしい、
電車も全部ダメ、

呆然としたままながら、事態が刻々と深刻なほうへ流れているのを、なんとか追って行く。

どうやら、大変なことになっているらしい、と。


昼、たこやきだけしか食べなかったことを後悔した。


* * *


翌朝、9時に、あまりの乾燥と白い光の熱に、眼がさめる。
からからに干涸びている感じ。
ペットボトルのお茶を飲む。

また眠る。

12時にまた起きて、電話。今日は会社来なくて良いと。
おもむろに、部屋の片付けを始める。

結果的に、大した被害は無かった。CDと本の棚が崩れて、
ドライフラワー系の飾り物が、おおげさに粉々に飛び散ってたくらい。

そのまま一日、家で過ごす。

たまに余震。

夜ご飯、もうUFOかなんか、焼きそば食べたいと思って買い物へ。
でもスーパーに行ったら、結局、しっかり色々買って、
しっかり作った。久しぶりに。

梅高菜じゃこきのこの十六穀ご飯(+付け合わせにショウガ昆布)
松茸のお吸い物(あの、インスタントの粉のヤツ)+小町麸(大量)
鮭と野菜のバジルソース炒め
昆布と豆を煮たもの(大家さんからもらった)
ポテトサラダ(大家さんからもらった)


がっつり食べた。





何か、誰かを心配して、
その悲惨な状況を心から理解しようと想うけれど、
同調しようと、自分を似たような極限に追いつめるのは、違う。
違うけど、うっかりやってしまいそうになる。なんでだろう。プロファイリングみたい。


困っている誰かに、何かを、と考え動こうとする前に、
まず自分、
まず自分本体の心身を、しっかり、立てなきゃ。


幸い運良く無事だった自分が、ちゃんと元気で、立っていなければ。

そして、
溢れる情報の渦中、何が正しいか、何が自分のやるべきことか、
冷静に見据えなきゃ。

テレビは、不要なまでに恐怖を煽りすぎる。


友人が紹介していた「僕と核」というホームページを見る。

http://www.e22.com/atom/


まず、冷静に、知ること。


それから。




地震

2011年03月11日 | 徒然 -tzure-zure-
皆さん大丈夫でしょうか。


自分は無事です。


仕事の出先、お台場で、運転中に、地震に遭いました。


いま帰り道、
電車も高速も使えないせいか、下道は、超渋滞中。歩いて帰る人たちも。


とにかく、なかなか進めない。

8時現在、芝公園のあたり。


すぐそばには東京タワーが、とても綺麗だけど。

2011年03月09日 | 徒然 -tzure-zure-
所用で、八王子の、田舎のほうへ行きました。



とても、田舎で。

素晴らしい。



嗚呼、



梅。


ちゃんと香りが、充ちて届く。






嗚呼、農村。





嗚呼、コケ。コケ、たまらん。



ちいさな里山に囲まれた、ちいさな谷あい。

リメンバー秋田。





やっぱり、田舎と都会と、半々くらいで暮らしたいなー。







前日の雪がまだ、残っていました。





静かに、
「楽しいなあ。」という気持ちになって



ちょっと お散歩へ。













スミレだ。




あ、マンサクだ。


あ、



ウグイスカグラだ。



あー



空。


あ、





穴。





お、




誘い道。

当然のように、
引き込まれるように。







竹のトンネルの道。




なんという。


なんという 清冽。







仰げば透かして光。


奥に吸い込む光。






あー。


包み込む空間の影響力って、凄い。

平地に臨んでいる時とは、気分ががらりと変わる。




竹のまっすぐで、しなやかな、
繊細で、強い垂直性。

上へと引っ張る力。



あれになんとなく似てる、
ああ、ヨーロッパの、旧い大聖堂の、中へ、足を踏み入れた時のような。

厳かで、石に滲みる影の深さのように鎮まり返りながら、
上へ上へ、
高いところの白く澄んだ光の方へ、意識がすううっと、持ち上げられて行く感じ、、



、、ええと、、


ああ、


「森厳」。森厳だ。


ひとつ、そんなことばを憶い出す。





なんだか、シュッと、する。

さらっと、浚(さら)われる。

あれよあれよと、洗われる。





竹、どこか、瞑想的な空間で使えたらいいだろうな、と思いつつ。


(って、そういえば、隈研吾が表参道のお寺で使ってたな、うむわかる、使った気持ちが、って、後で思いついて、加筆、ついでにちょこちょこっと、修正。)




みぞれ雪明けの、次の日のことでした。











指にふれる香り

2011年03月08日 | 徒然 -tzure-zure-
どっと花が来ました。



どっと、っていっても、そこまで「どっ」じゃないけど。




ケースいっぱいに、いろんなのが満ちてる。

この状態だけで、もう、楽園のよう。



ちっちゃなスイセン(ミニスイセン)‘ティタティタ’。




お客様の庭に植え込むために仕入れた花。




そうこうしているうちに咲いちゃったりした、クロッカスとか。




「桜でまり」という名の、コデマリのふ入り。小さい。

この春、店先でいたく気に入って、予定外だったけど、ちょこちょこ仕入れて。



花屋(というか、ホームセンターの花売り場)にて、

物色しながらぐるぐるまわっていると、

新しい花、知らない花、
懐かしい花、
たくさん溢れてて、

「なにここ、天国?」

って、

“ほわ~ん*”な気分に。




朝、様子見ついでに、ちょちょっと触ると。

指先に、タイムとか、ローズマリーとか、
スイセンとか。

いろんな初々しい香りが、水滴と一緒にくっ付いて。






お庭に植え込むまでの、少しの間。

巣立っていくまでの、つかの間。


事務所の前庭は、可愛らしく華やかになります。

そして、風のような、良い香り。。。







つかのまの、贅沢。




retreat for return

2011年03月06日 | 旅録 -travelogue-
短い旅でした。




そして

とんぼのように帰って来た 東京

家へ

自転車をキイキイ泣かせながら登る
坂道の、

川を越える橋のあたりで、



沈丁花の香りがよぎった。





たった数日で。
何かが大きく変わるわけ、無いだろ。



って、
高をくくっていた その わずかな数日のうちに、

あっけなく春は、歩みを進めていました。


季節がそういうものだということを、とっくに知っているはずなのに、
たいがい忘れて、
たいがい吃驚して、
たいがい何度も巡った、たいがいに同じことにまた、感じ入る。


たいがいにしろ。
そんな自分の馬鹿を小さく哂(わら)う。






ほんとに短い旅だった。

旅に出るまでは「あー、俺も無期限活動休止して、人間活動に専念したーい」なんて。


実際にとれたのは、ほんの数日の休暇。

それでも、

一旦 

「今、背負っている重さ」を
無理矢理振り落として、

一旦

‘解き放つ’には、

ほんの数日。それで十分だった。(結果から言うと。)




道行きに 雪が降り出したこと、



眠るうちに 雪が積もったこと、

朝目覚めたら 雪がきれいだったこと、



昼 雪がぽたぽた融けて、じっくり消えていったこと







その一連の全てに立ち会えたことが、今回の旅の特別なところだった気がする。
そのことが、もしかしたら。大きかったのかな。


雪どけの庭は、きらきらして、ほんとにただただ、
きれいだった。










一旦 目下の懸案を放棄し
重荷を かなぐり落とし
かかずらい事を 剥ぎ落としたところで

目の前に立ち現れたのは、というと。




いろんなモノを 脱ぎ捨てた自分というものが

いったいぜんたい、

「ナニモノでも無い。」

ということだった。


 I am nothing.





なんという、ちいささ。

、、いや、ちいさいどころじゃない、

無い。
なにものでも、無い。

、、なんにも無い!



何も背負っていない自分というものは、世界にとっての、なんと、
あまりにも、


 無意味。






単に「癒し」とか簡単な「リセット」程度のものを求めていた
小さな旅に、それは想定外の、まさかの、
重い、ショック療法だった。






忙しいということは、本当にある意味、幸せです。
でもある意味では、やはり、「何か」を見失っていく危険な道程でもある。



「何か」。
自分の中にあるはずの、「何か」。
あるいは、自分の中になど無い、「何か」。

日常の流れでじわじわかすんでゆく、

「何か」って、

なにか?







荷物を背負ってヒイヒイ言って目を回していたお陰で、
目を向けずに済ませられていた

在る現実

無い事実



自分の内面に隠していた真実と、
うそ

とりあえずこしらえていた逃げ道
幻想



見ているつもりの世界。

見てみぬふりをしている世界。





いちばんすぐそこにあるはずの、
いちばん見えているとおもっているはずの、
「自分」という、世界。








黙々と、雪のとけゆく光りの中、
こけのじゅうたんの中、
小さな雑草の芽 ひとつひとつに向かい合っていたら、

ずるずるずる、、と、

静かにでろんと垂れ流れてきた、思念にもならないようなものの中に紛れて、

見えてきてしまった

その、「何か」。

否が応にも、直面する羽目になったのは、

「仮に何も背負わなくなった自分というものが、何なのか」

というものだった。

で、

答えが、


「なんでも無い。」だった。

英語で言えば、‘nothing’.



I am nothing.






それはそれは、
意識か無意識か、自分が押し殺して、押し隠していただけに、
晒されるとなれば、ショックな現実。

真っ青に、愕然となって、
一気に‘落下’するに十分な、ショック療法。


重荷を捨てるために来たはずが。

自分への ちょっとしたご褒美のつもりが。

かえって、もっと深く刺さる重いトゲを、胸にぎりりと埋め込まされて、傷を引きずって帰ることになるとは。。。


、、なんて。






よりにもよって、
帰り道は、晴れがましくて。
(旅からの帰り道は、だいたいそうなる。晴れがましすぎて、なんだか哀しい。)


春の初め。
まだひんやり冷える風。でもマフラー要らないほどの、ゆるんだ風。



東京への帰りの電車は、速いようで長く

どっぷりと落ちた気持ちは 暗澹、

泥の中から無理矢理 目をこらして、空のほうを見上げているよう。

でもその空も、どよんと曇って見えて。
ちゃんと晴れているのに。


晴れがましい午後の光りに、
眼の中の水の成分まで、奪い取られてゆくよう。




ある点では楽天的なくせに、
ある点では異常に悲観的で、

だいたいにおいて 極端に深刻に哀しく考えすぎたりするきらいのある自分は、
やっぱりこのとき、極端に深刻に哀しく考えすぎていて、
要するに、

almost going to die

な感情に呑まれていて、


途方に暮れていた。

「こんなことで、いったいどうやって、生きていけよう。」

て。





going to die.


それは、
考えてみれば、ここ1ヶ月くらい、ほんとはずっとあって、
でも、ずっと、押し殺していた感情だった。


いや、ほんと言うと、1ヶ月どころじゃない。もっと長いこと。
というか、ずっと。


見てみぬ振りをして。

時々露呈するたびに、悶えて、
いつしか忘れられて。

昇華できてるつもりになって。

でも、出来てなくて。


それが、どろりと、出て来てしまったわけだ。








そういうわけで、
打ちひしがれながら 自分の部屋に戻ったら、





いわゆる「やっぱり自分の家が一番だな~」現象ってやつなのか、

あっという間に スイッチが入ったのか、



、あれ、

でも、数日前とはどうも、気分が違ってるみたい、

ずいぶんと、、、あー、なんだ?



すっきりしてる。






すっきり、してるや。




このあれやこれやの一連の感情の浮き沈む流れを頭の中で論理的に整理するより先に

「あー、終わった。良かった。」


って、想っていた。


ああそうだ、

旅は、何かを終わらせてくれるし、何かを始めさせてくれる。

つまり、
「ゼロ」にしてくれる、節目になってくれる。

ああ、そうだそうだ。そうだった。








やっと、終われたみたい。


また馬鹿みたいに、同じ石につまずくんだろうけど。
とりあえず、ひとつの区切り。とりあえずひとつは、終わったみたい。


そんな気がする。


ひとつ、

終わって、

やっと、

じわじわと、






景色が クリアになっていく。







そして、



旅の中の、ちいさな喜びたちを、想い出し始める。






桜の香り。スイセンの香り。

雪から浮かび上がる、春の花の濡れて光る色。






ミズゴケの香り。苔の香り。

温泉のやわらかさ。湯けむりのやわらかさ。


11時間も眠ったこと。

少しだけ呑んだ日本酒の甘さ。


朝6時の山に射す色。






歌うような雪の音色。





そして、なにより、


「旅館のご馳走が、美味しかった。。。」と、いうこと。




思い出すのは、
うっとりとかみ締めるのは、たいがい、「美味しかった、、」っていう想い。








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