前回に引き続き、今回までは、とにかく、「自分のために」書きます。
自分を大丈夫にするために。
自分のためだけに書く身勝手な文だけれど、伝わってほしいこともあるので、
正しくまっすぐに、想いは込めています。(それは、いつもと同じ気持ちで。)
よかったら、読んで下さい。
* * * * *
金曜日、ミュージックステーションを見た。
テレビは持ってないので、ケータイのワンセグで。
もちろん、
マイガッデス:Coccoさん目当てで。
AIちゃん(中学の同級生)も出てた。
Coccoは、一番最後に、
「ジュゴンの見える丘」を歌いました。
もういいよ 目を閉じていい
もういいよ 少しお休み
悲しみは要らない
優しい歌だけでいい
あなたに降り注ぐ全てが 正しい やさしい であれ
>>*
(著作権でほんとはあれかもしれないけど、歌詞を一部抜粋。)
*
自分の出番になるまで、後ろの席で、ほとんどずっと 目を閉じてうつむいていたので、
ネットでは「Cocco寝てる!」とか「不謹慎」とか騒がれて。
自分も一瞬寝てるように見えたし、それがどわっと騒がれている事態も面白くて、つい笑ってしまったのだけど、
よく考えろ。
考えたら、
あの状況で、寝てるわけがないわけで。
翌日、CoccoさんのHPに、メッセージが上げられた。
コピペはしないので、下記リンクからご覧下さい。
>>COCCO CHAnNEL
彼女自身が食らった痛みを堪えていて、
寝てるわけがないわけで。
*
ツイッターが、この震災の時にだいぶ役に立ったということで賛美されてる。
と同時に、不要なまでの煽りや誤りも、大量に垂れ流されて、拡散された。
有益なのも、無益なのも、善意も身勝手も真偽もぜんぶごちゃまぜで、
ほんとに大量に。
ほっとけばパニックになる事態だと思うけど。日本人の多くが幸い、冷静で、良かった。
一方で、冷静でいられず、起きたパニックもある。
発せられた情報、ことばは、飛散したまま、
見かけ上は、流れ去って行く。見えなくなって行く。
でも、
触れた人の 心の端々に、ひっかかる。
ひっかかって、傷をつける。
付けられた傷について、誰も責任を問えないだろう。
責任の所在はすでにわからない。
発してしまった言葉、誰かから流れて来た言葉をまたどこかに垂れ流して、
その言葉に、誰も責任を持たない。
簡単なコピペ
安易な拡散
ただの「つぶやき」
安易な削除
決して消せない、痕跡。
じわじわと、見えないかたちで残って行く傷。
*
大丈夫です。“ただちに”影響があるというものはございません。
言葉には、意味が在る。表の意味、裏の意図。
言霊とも言う。
「ただちに影響はないと思われる」ということは、
「いずれ影響が出て来るとも思われる」ということでもある。
そのように発するからには意図があり、
そのように発しないことにも意図がある。
言葉というのは、
誰かに投げかける段においては、ほんとうは、それなりの覚悟が要る。
歌う、という行為も、同じく。
今、多くの音楽に携わる人が、自分に出来ることを、と探した結果、やはり、と、
音楽を発信してくれている。
気楽な気持ちでのほほんと、歌っているわけじゃない。
「そんなものより金をくれ。食べ物送ってくれ。毛布をくれ。」
そう言われることを、百も承知で。
発するという行為には、それ相応の力を振り絞る必要がある。
と同時に、容赦ない傷を負うことも。
歌う ということは、
「つぶやく」よりも、ずっと、重い。
*
「死ね」なんて、
普通は、よう言えない。口に出して、誰かに面と向かって。軽はずみでは言えない。
その言葉自体の殺傷力は、恐ろしい。
でも、PCの箱に向かって、ケータイに向かって、ちょこちょこっと、「死ね」と打ち込むことは、
容易(たやす)い。
残念なほどに、たやすい。
面白可笑しく、揚げ足とったり、悪く騒ぎ立てるのは、見てる側の勝手だし
それが日常だったのなら、なおさらそうしたいのもわかるんだけど、
あまりにも 軽すぎる。
生きている人に向けるには、あまりにも軽率すぎる。
ちょこちょこ打ち込んでいるひとは、自分で勝手に独り言でも「つぶやいて」いるつもりだろうが。
発する前に、考えろ。
その言葉の重みを。
ちゃんと考えて欲しい。
その言葉の影響を。
一秒。立ち止まって、考えて欲しい。
打ち込んだ言葉は、字面通りに伝わってしまうということを。
そのウラにたとえ愛情やらなにやらが含まれていても、
字面に現さない「情」は、その匿名のボード上では、伝わらないということを。
*
昔はテレビッ子だったが、
何年も前に棄てて、テレビを見なくなって、良かった。と思っている。
久しぶりに、見ざるを得ない状況があったりして見ると、
ぞっとする。
あまりにも雑多。あまりにもナンセンス。なんというノイズ。
そして、あまりにも、力が強すぎる。
こうやって、知らず知らず洗脳されていくんだな、と、思う。
こわいな、と思う。
*
この前、打合せのあとに、ラーメン屋さんに入った。
そしたら、巨大なテレビが点いていて。
震災特番がやっていて。
祖母と孫が9日ぶりに救出された、と。
そして被災地の無残な映像と。
延々、繰り返していた。
それと、同じCMが、エンドレスにループ。エンドレスにループ。終ったと思ったら、
エンドレスにループ。
救出された孫が病院のベッドに就く。その傍らで、インタビュアーが神妙に問う。
「救出されたときのお気持ちは、いかがでしたか、、?」
「救助を待っているときは、どのようなお気持ちでしたか、、?」
吐き気がした。やめろ!と、発狂した声をあげそうになった。
「被災地では、今も、おにぎりひとつと、あめ玉ひとつで、頑張っています、、、」
「毛布も足りず、、」
そんなことを聞かされて、見させられて、
どうしたら今、平気な顔して、ラーメンをすすることができる?
いったいどうしたら、平然と、美味しそうに食べることが出来る?
それとこれとを切り離して、「被災地じゃないところにいる、被災者じゃない自分」は、経済活動を回すため、元気で居るために、食べなければ。というのも、理解出来る。
理解出来るけど、
理解出来ない。
*
テレビを通じて。
延々と繰り返される悲しみの報告。膨れ上がって行く不穏な情報。
なにかを隠そうとしている人たちと、疑念に苛む人たち。
それでも、
自分に今、出来ることをやるしかないと、肚をくくった人たち。
出来ることがわからず、無力感に苛む人たち。
募金?救援物資?節電?いくらぐらいやれば、意味がある?
いろいろと、わからないことに頭をつぶされながら、
でも
「この場所で、ここに充ちている空気を吸って、
ここで手に入るものを食べて、生きて行くしか仕方無い。」
と、肚をくくった人たち。
不便や不公平にも、黙って、働く人たち。
どこまでが被災者だろう。
*
でも、
今回は、テレビに感謝している。
テレビの力で、どうか、ひとりでも多くの傷を負った人に、届くといいなと願う。
Coccoの、まっすぐに歌うのを見届けて、
それから、ネット上に溢れた 無闇矢鱈な「つぶやき」の暴走を見て、
複雑な気持ちになりながら、
『大丈夫であるように』のDVDを見た。
「うたうたいとして、あまりにも無力だけど、歌を歌うしかできないから、歌う。」
と、
葛藤し、自分を苛みながら、ヒリヒリと焦げながら生きている様を追った、Coccoのドキュメンタリー映画。
引っ張り出して、久しぶりに見た。
青森の六ヶ所村の女から手紙が来たこと、
それがきっかけで 六ヶ所村のことを知ったこと。そこに訪れたこと。
それを、青森のライブ会場で語るくだりが出て来る。
実は自分も、そこに居合わせた。あの時、泣いた。
久しぶりに見たけど、
久しぶりに、涙が出た。
そういえば、泣いたの、いつぶりだったか。もう、全然わからない。
*
今までずいぶん長いこと、泣いてなかった。
泣いてなかったし、感情全般、押し殺してた。
自分を殺して。自分を顧みず。
仕事が忙しくあったおかげで、見て見ぬ振りも出来たけど。
ろくに寝ないし、ろくに食べない。抑えて耐えて、さらに、押し殺す。
自分を解放出来るのも、
自分を労(いたわ)れるのも、結局、自分しか居ないのに。
自分がしっかりしていないと、
他の誰かのことをなんとかしてあげようなんて意識になれない。
自分自身が 身も心も力を失っていては、
他の誰かを元気づけるなんて、そんな力、出やしない。
わかっているのに、
わかっていられない。
*
「呼吸をしよう。」
と、
ヨガの先生をやっている友人が、言った。
言った、というか、ブログに書いてくれた。
クリパルヨガティーチャーの知人のブログにも、書いてあった。
「feel yourself, feel the universe」
ヨガは、呼吸法なんだと、そういえば聞いた気がする。
こうした渦中では、意識的にシャットアウトしてるつもりでも、気にしないつもりでも、
一人でこもって生きているわけじゃないからやはり、浴びて。
ご丁寧に、影響を受けて。鬱屈した感じに陥る。
抑えていても、どろどろとなだれ込んで来る。
そんな泥沼に はまりながら、
時折 ちゃんと、
こういう、「救い」も現れる。
長くなった。すみません。でも、一度ちゃんと記しておきたかった。自分のために。
自分が起き上がるために。自分を解放してやるために。
そうでないと、先へ進めない。
五体満足で、生きているのだから。
頑張らねば!
なにより、
マイガッデス:Coccoさんが「がんばります。」って言って、
ほんとに頑張ってくれているのだから!
自分も、がんばります。
次回からは、「ふつうモード」に戻ります*
がんばらなきゃ!
花が待っている!
*
では最後に。
その友人のアドバイスを、コピペで、紹介したいと思います。
以下、転載。
*******************************
今はみんなが想像を超えた困難に、初めて遭遇して戸惑っているから、
ほとんどの誰もが多かれ少なかれ、緊張している状態が続いている。
そんな時は上半身に気が滞ってのぼせやすくなっているそうだ。
だから、呼吸を深くして落ち着こう。そして気が巡るようにしよう。
ここで一呼吸、リラックスしよう。
ちょっとした時にやってみてくださいな、首から上へと気が通ります。
ただ腕を組むだけ。その時肘を覆うようにすること。
そして手が当たっている部分の方に意識をおいて、
温かいなあと感じられるようにする。
片方を肘のもうすこし上に手を当てるバージョンもいいです。
手当て、というのは、悪いところがよくなるよう手を当てることからきている。
自分の治癒力が一番身近で、隣の人にもすぐにできる。
今、自分のいつもの毎日を大切にしよう。
どうしても心がすぐに揺れてしまうけれど、それでもいい。
体はなるべく動かしてほぐしておこう、俊敏であるように。
そしてなるべく笑顔でいよう、感謝の気持ちを一杯もって。
小さな積み重ねかもしれないけれど、真実を知って行動する勇気を持ちたい。
**********************************
以上、天才。
どうもありがとう。
小さな産まれたばかりの赤ちゃんを抱えているあなたと、
小さな産まれたばかりの赤ちゃんに、
「正しい やさしい」平穏が訪れますように。
それから、
これから産まれ来る命を抱えている友人と、
これから産まれ来る命に、
正しい やさしい 朝が訪れますように。
*
自分を大丈夫にするために。
自分のためだけに書く身勝手な文だけれど、伝わってほしいこともあるので、
正しくまっすぐに、想いは込めています。(それは、いつもと同じ気持ちで。)
よかったら、読んで下さい。
* * * * *
金曜日、ミュージックステーションを見た。
テレビは持ってないので、ケータイのワンセグで。
もちろん、
マイガッデス:Coccoさん目当てで。
AIちゃん(中学の同級生)も出てた。
Coccoは、一番最後に、
「ジュゴンの見える丘」を歌いました。
もういいよ 目を閉じていい
もういいよ 少しお休み
悲しみは要らない
優しい歌だけでいい
あなたに降り注ぐ全てが 正しい やさしい であれ
>>*
(著作権でほんとはあれかもしれないけど、歌詞を一部抜粋。)
*
自分の出番になるまで、後ろの席で、ほとんどずっと 目を閉じてうつむいていたので、
ネットでは「Cocco寝てる!」とか「不謹慎」とか騒がれて。
自分も一瞬寝てるように見えたし、それがどわっと騒がれている事態も面白くて、つい笑ってしまったのだけど、
よく考えろ。
考えたら、
あの状況で、寝てるわけがないわけで。
翌日、CoccoさんのHPに、メッセージが上げられた。
コピペはしないので、下記リンクからご覧下さい。
>>COCCO CHAnNEL
彼女自身が食らった痛みを堪えていて、
寝てるわけがないわけで。
*
ツイッターが、この震災の時にだいぶ役に立ったということで賛美されてる。
と同時に、不要なまでの煽りや誤りも、大量に垂れ流されて、拡散された。
有益なのも、無益なのも、善意も身勝手も真偽もぜんぶごちゃまぜで、
ほんとに大量に。
ほっとけばパニックになる事態だと思うけど。日本人の多くが幸い、冷静で、良かった。
一方で、冷静でいられず、起きたパニックもある。
発せられた情報、ことばは、飛散したまま、
見かけ上は、流れ去って行く。見えなくなって行く。
でも、
触れた人の 心の端々に、ひっかかる。
ひっかかって、傷をつける。
付けられた傷について、誰も責任を問えないだろう。
責任の所在はすでにわからない。
発してしまった言葉、誰かから流れて来た言葉をまたどこかに垂れ流して、
その言葉に、誰も責任を持たない。
簡単なコピペ
安易な拡散
ただの「つぶやき」
安易な削除
決して消せない、痕跡。
じわじわと、見えないかたちで残って行く傷。
*
大丈夫です。“ただちに”影響があるというものはございません。
言葉には、意味が在る。表の意味、裏の意図。
言霊とも言う。
「ただちに影響はないと思われる」ということは、
「いずれ影響が出て来るとも思われる」ということでもある。
そのように発するからには意図があり、
そのように発しないことにも意図がある。
言葉というのは、
誰かに投げかける段においては、ほんとうは、それなりの覚悟が要る。
歌う、という行為も、同じく。
今、多くの音楽に携わる人が、自分に出来ることを、と探した結果、やはり、と、
音楽を発信してくれている。
気楽な気持ちでのほほんと、歌っているわけじゃない。
「そんなものより金をくれ。食べ物送ってくれ。毛布をくれ。」
そう言われることを、百も承知で。
発するという行為には、それ相応の力を振り絞る必要がある。
と同時に、容赦ない傷を負うことも。
歌う ということは、
「つぶやく」よりも、ずっと、重い。
*
「死ね」なんて、
普通は、よう言えない。口に出して、誰かに面と向かって。軽はずみでは言えない。
その言葉自体の殺傷力は、恐ろしい。
でも、PCの箱に向かって、ケータイに向かって、ちょこちょこっと、「死ね」と打ち込むことは、
容易(たやす)い。
残念なほどに、たやすい。
面白可笑しく、揚げ足とったり、悪く騒ぎ立てるのは、見てる側の勝手だし
それが日常だったのなら、なおさらそうしたいのもわかるんだけど、
あまりにも 軽すぎる。
生きている人に向けるには、あまりにも軽率すぎる。
ちょこちょこ打ち込んでいるひとは、自分で勝手に独り言でも「つぶやいて」いるつもりだろうが。
発する前に、考えろ。
その言葉の重みを。
ちゃんと考えて欲しい。
その言葉の影響を。
一秒。立ち止まって、考えて欲しい。
打ち込んだ言葉は、字面通りに伝わってしまうということを。
そのウラにたとえ愛情やらなにやらが含まれていても、
字面に現さない「情」は、その匿名のボード上では、伝わらないということを。
*
昔はテレビッ子だったが、
何年も前に棄てて、テレビを見なくなって、良かった。と思っている。
久しぶりに、見ざるを得ない状況があったりして見ると、
ぞっとする。
あまりにも雑多。あまりにもナンセンス。なんというノイズ。
そして、あまりにも、力が強すぎる。
こうやって、知らず知らず洗脳されていくんだな、と、思う。
こわいな、と思う。
*
この前、打合せのあとに、ラーメン屋さんに入った。
そしたら、巨大なテレビが点いていて。
震災特番がやっていて。
祖母と孫が9日ぶりに救出された、と。
そして被災地の無残な映像と。
延々、繰り返していた。
それと、同じCMが、エンドレスにループ。エンドレスにループ。終ったと思ったら、
エンドレスにループ。
救出された孫が病院のベッドに就く。その傍らで、インタビュアーが神妙に問う。
「救出されたときのお気持ちは、いかがでしたか、、?」
「救助を待っているときは、どのようなお気持ちでしたか、、?」
吐き気がした。やめろ!と、発狂した声をあげそうになった。
「被災地では、今も、おにぎりひとつと、あめ玉ひとつで、頑張っています、、、」
「毛布も足りず、、」
そんなことを聞かされて、見させられて、
どうしたら今、平気な顔して、ラーメンをすすることができる?
いったいどうしたら、平然と、美味しそうに食べることが出来る?
それとこれとを切り離して、「被災地じゃないところにいる、被災者じゃない自分」は、経済活動を回すため、元気で居るために、食べなければ。というのも、理解出来る。
理解出来るけど、
理解出来ない。
*
テレビを通じて。
延々と繰り返される悲しみの報告。膨れ上がって行く不穏な情報。
なにかを隠そうとしている人たちと、疑念に苛む人たち。
それでも、
自分に今、出来ることをやるしかないと、肚をくくった人たち。
出来ることがわからず、無力感に苛む人たち。
募金?救援物資?節電?いくらぐらいやれば、意味がある?
いろいろと、わからないことに頭をつぶされながら、
でも
「この場所で、ここに充ちている空気を吸って、
ここで手に入るものを食べて、生きて行くしか仕方無い。」
と、肚をくくった人たち。
不便や不公平にも、黙って、働く人たち。
どこまでが被災者だろう。
*
でも、
今回は、テレビに感謝している。
テレビの力で、どうか、ひとりでも多くの傷を負った人に、届くといいなと願う。
Coccoの、まっすぐに歌うのを見届けて、
それから、ネット上に溢れた 無闇矢鱈な「つぶやき」の暴走を見て、
複雑な気持ちになりながら、
『大丈夫であるように』のDVDを見た。
「うたうたいとして、あまりにも無力だけど、歌を歌うしかできないから、歌う。」
と、
葛藤し、自分を苛みながら、ヒリヒリと焦げながら生きている様を追った、Coccoのドキュメンタリー映画。
引っ張り出して、久しぶりに見た。
青森の六ヶ所村の女から手紙が来たこと、
それがきっかけで 六ヶ所村のことを知ったこと。そこに訪れたこと。
それを、青森のライブ会場で語るくだりが出て来る。
実は自分も、そこに居合わせた。あの時、泣いた。
久しぶりに見たけど、
久しぶりに、涙が出た。
そういえば、泣いたの、いつぶりだったか。もう、全然わからない。
*
今までずいぶん長いこと、泣いてなかった。
泣いてなかったし、感情全般、押し殺してた。
自分を殺して。自分を顧みず。
仕事が忙しくあったおかげで、見て見ぬ振りも出来たけど。
ろくに寝ないし、ろくに食べない。抑えて耐えて、さらに、押し殺す。
自分を解放出来るのも、
自分を労(いたわ)れるのも、結局、自分しか居ないのに。
自分がしっかりしていないと、
他の誰かのことをなんとかしてあげようなんて意識になれない。
自分自身が 身も心も力を失っていては、
他の誰かを元気づけるなんて、そんな力、出やしない。
わかっているのに、
わかっていられない。
*
「呼吸をしよう。」
と、
ヨガの先生をやっている友人が、言った。
言った、というか、ブログに書いてくれた。
クリパルヨガティーチャーの知人のブログにも、書いてあった。
「feel yourself, feel the universe」
ヨガは、呼吸法なんだと、そういえば聞いた気がする。
こうした渦中では、意識的にシャットアウトしてるつもりでも、気にしないつもりでも、
一人でこもって生きているわけじゃないからやはり、浴びて。
ご丁寧に、影響を受けて。鬱屈した感じに陥る。
抑えていても、どろどろとなだれ込んで来る。
そんな泥沼に はまりながら、
時折 ちゃんと、
こういう、「救い」も現れる。
長くなった。すみません。でも、一度ちゃんと記しておきたかった。自分のために。
自分が起き上がるために。自分を解放してやるために。
そうでないと、先へ進めない。
五体満足で、生きているのだから。
頑張らねば!
なにより、
マイガッデス:Coccoさんが「がんばります。」って言って、
ほんとに頑張ってくれているのだから!
自分も、がんばります。
次回からは、「ふつうモード」に戻ります*
がんばらなきゃ!
花が待っている!
*
では最後に。
その友人のアドバイスを、コピペで、紹介したいと思います。
以下、転載。
*******************************
今はみんなが想像を超えた困難に、初めて遭遇して戸惑っているから、
ほとんどの誰もが多かれ少なかれ、緊張している状態が続いている。
そんな時は上半身に気が滞ってのぼせやすくなっているそうだ。
だから、呼吸を深くして落ち着こう。そして気が巡るようにしよう。
ここで一呼吸、リラックスしよう。
ちょっとした時にやってみてくださいな、首から上へと気が通ります。
ただ腕を組むだけ。その時肘を覆うようにすること。
そして手が当たっている部分の方に意識をおいて、
温かいなあと感じられるようにする。
片方を肘のもうすこし上に手を当てるバージョンもいいです。
手当て、というのは、悪いところがよくなるよう手を当てることからきている。
自分の治癒力が一番身近で、隣の人にもすぐにできる。
今、自分のいつもの毎日を大切にしよう。
どうしても心がすぐに揺れてしまうけれど、それでもいい。
体はなるべく動かしてほぐしておこう、俊敏であるように。
そしてなるべく笑顔でいよう、感謝の気持ちを一杯もって。
小さな積み重ねかもしれないけれど、真実を知って行動する勇気を持ちたい。
**********************************
以上、天才。
どうもありがとう。
小さな産まれたばかりの赤ちゃんを抱えているあなたと、
小さな産まれたばかりの赤ちゃんに、
「正しい やさしい」平穏が訪れますように。
それから、
これから産まれ来る命を抱えている友人と、
これから産まれ来る命に、
正しい やさしい 朝が訪れますように。
*