“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

選挙法の矛盾と低投票

2013年07月12日 13時00分42秒 | 臼蔵の呟き

漫画のような話ですが、これが現実です。自民党政権のTPP交渉参加で大打撃を受ける農業団体が、街頭で反対運動、TPP交渉の本質について宣伝し、賛同を得る行動が選挙違反であると警告され、取りやめたとのはなしです。

安倍、自民党政権から見るとこんな都合がよく、国民を黙らせる選挙法は都合がよく作られています。小選挙区制度、選挙期間、選挙に当たっての宣伝などを規制し、出来る限り、自民党や元民主党に都合が悪い選挙活動は行わせない。その結果、選挙は争点がぼかされ、何が争点かも分からず、何党が何を選挙公約に掲げているかも分からず、投票をしなければならない。その延長線上に投票に行かない。どうせ、投票しても政治は変わらないとの諦めが蔓延しています。自民党にとってはとても都合がよいこと。民主的な政党、少数政党にとっては選挙がとても大変でとなっているはずです。

このような自民党政権、自民党型政治支配に屈することなく、悪法に沿いながらも彼らに鉄槌を浴びせることが何よりも重要です。それにしてもふざけた話です。

<選挙法の矛盾と低投票>

 参院選の公示後、政府の環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加に反対して街頭でビラ配りをしたJA北海道中央会などに札幌市選挙管理委員会が「公職選挙法に触れる可能性がある」と注意していたことが11日、分かった。同会は「公選法に反するとは知らなかった」と困惑し、投開票日まで活動を自粛することを決めた。

 同会は他の農業団体とともに6月から週1回、JR札幌駅周辺などでTPPが農業などに及ぼす悪影響を訴えるビラを配ってきた。

 市選管によると、公示後の5日もビラ配りを続けている事実を市職員が知り、市選管に伝えた。道選管も公選法に抵触する恐れがあるとの見解で一致。市選管は11日もビラ配りを続けた同会に対して、口頭で注意した。

 道選管によると、公選法では政党その他の政治活動を行う団体が、政治活動で公示日から投開票日までビラを配ったり拡声器を使うことなどを禁じている。立候補者らはこの限りではない。

 市選管の注意を受けて同会などは11日、関連する団体が12日から石狩管内で予定していたTPP反対の街宣運動の中止を決めた。

 市選管は「選挙期間中は違法の疑いがある行為にはさまざまな注意を行う。特別な対応ではない」と話す。一方、道選管は「法令の違法性を実際に認定するのは司法。捜査権も調査権もない」とし、原発反対運動など選挙期間中の表現活動に対する積極的な規制には慎重な姿勢をみせる。

 市選管の対応について、公選法に詳しい東京の梓沢和幸弁護士は「公選法は特定の政党、候補に直接、関連する団体に規制が掛かるが、農協はそのような団体ではなく問題ない。選挙期間中は政治への関心が高まる時期だけに、表現の自由としても保障されるべきだ」と話している。


グローバル化の意味

2013年07月12日 10時59分51秒 | 臼蔵の呟き

グローバル化とは何かについての内田樹教授の文書を掲載します。長文ですが、参議院選挙の争点に関係する分析がされています。教授が参議院選挙に向けて書いているわけではありません。今回の参議院選挙への関心の薄さ、私の周りの民主的な人たちがなかなか理解できないこと。経済のグローバル化とは何か。大手企業が租税回避をなぜ行うのか。大手企業は社会的責任をなぜ、自覚せず、果たそうとしないのか。などなどが意見として出されました。1つ1つはそうかと思える政治経済の現象ですが、それらが1つ1つ関連性を持って構造的に動いていることを理解することはとても大切なことと感じます。

<内田教授の考察>

今、私たちの時代はグローバリズムの時代です。世界は急速にフラット化し、国民国家のもろもろの「障壁」(国境線、通貨、言語、食文化、生活習慣などなど)が融解し、商品、資本、人間、情報があらゆる「ボーダー」を通り越して、超高速で自由自在に行き来しています。このままグローバル化が進行すれば、遠からず国民国家という旧来の政治単位そのものが「グローバル化への抵抗勢力」として解体されることになるでしょう。
国民国家解体の動きはもうだいぶ前から始まっていました。
医療・教育・行政・司法に対する「改革」の動きがそれです。これらの制度は「国民の生身の生活を守る」ためのものです。怪我をしたり、病気をしたり、老いたり、幼かったり、無知であったり、自分の力では自分を守ることができないほど貧しかったり、非力であったりする人をデフォルトとして、そのような人たちが自尊感情を持ち、文化的で快適な生活を営めるように気づかうための制度です。ですから、これらの制度は「弱者ベース」で設計されています。当然、それで「儲かる」ということは本質的にありえません。基本「持ち出し」です。効率的であることもないし、生産性も高くない。 
でも、この20年ほどの「構造改革・規制緩和」の流れというのは、こういう国民国家が「弱者」のために担保してきた諸制度を「無駄づかい」で非効率的だと誹るものでした。できるだけ民営化して、それで金が儲かるシステムに設計し直せという要求がなされました。その要求に応えられない制度は「市場のニーズ」がないのであるから、淘汰されるべきだ、と。 
社会制度の適否の判断は「市場に委ねるべきだ」というこの考え方には、政治家も財界人もメディアも賛同しました。社会制度を「弱者ベース」から「強者ベース」に書き替える動きに多くの国民が喜々として同意署名したのです。 
それがとりあえず日本における「グローバル化」の実質だったと思います。社会的弱者たちを守ってきた「ローカルな障壁」を突き崩し、すべてを「市場」に委ねようとする。 
その結果、医療がまず危機に陥り、続いて教育が崩れ、司法と行政が不可逆的な劣化過程に入りました。現在もそれは進行中です。この大規模な社会制度の再編を通じて、「健常者のための医療、強者のための教育、権力者に仕えるための司法と行政」以外のものは淘汰されつつあります。
驚くべきことは、この「勝ったものが総取りする」というルール変更に、(それによってますます収奪されるだけの)弱者たちが熱狂的な賛同の拍手を送っていることです。国民自身が国民国家の解体に同意している。市民たち自身が市民社会の空洞化に賛同している。弱者たち自身が「弱者を守る制度」の非効率性と低生産性をなじっている。倒錯的な風景です。「みんな」がそう言っているので(実際には自分の自由や幸福や生存を脅かすようなものであっても)ずるずると賛同してしまう考え方というものがあります。マルクスはそれを「支配的なイデオロギー」と呼びました。グローバリズムは現代における「支配的なイデオロギー」です。
人々はそれが自分たちの等身大の生活にどういう影響を及ぼすのかを想像しないままに、「資本、商品、人間、情報があらゆるローカルな障壁を乗り越えて、超高速で全世界を飛び交う状態」こそが、人類がめざすべき究極の理想だと信じ込んでいます。どうしてそんなことが信じられるのか、僕にはよくわかりません。 
高速機動性が最高の人間的価値だとみなされるような世界においては、機動性の低い人間は最下層に分類されることになります。
この土地でしか暮らせない、この国の言葉しか話せない、伝統的な儀礼や祭祀を守っていないと不安になる、ローカルな「ソウル・フード」を食べていないと生きた心地がしない……そういったタイプの「地に根づいた」人たちは、グローバル社会では最底辺の労働者・最も非活動的な消費者、つまり「最弱者」として格付けされます。能力判定の基準が「機動性」だからです。
グローバル化というのは「そういうこと」です。自家用ジェット機で世界中を行き来し、世界中に家があり、世界中にビジネスネットワークがあるので「自分の祖国が地上から消えても、自分の祖国の言語や宗教や食文化や生活習慣が失われても、私は別に困らない」と言い切れる人間たちが「最強」に格付けされるということなのです。 
もちろんそんな非人間的なまでにタフな人間は現実にはまず存在しません。でも、それが「高速機動性人格」の無限消失点であり、グローバル社会における格付けの原基であることに変わりはありません。あるグローバル企業の経営者が望ましい「グローバル人材」の条件として「英語が話せて、外国人とタフなビジネスネゴシエーションができて、外国の生活習慣にすぐ慣れて、辞令一本で翌日海外に飛べる人間」という定義を下したことがありました。まことに簡にして要を得た定義だと思います。これは言い換えると、その人がいなくなると困る人がまわりに1人もいない人間ということです。
「グローバル人材」であるためには、その人を頼りにしている親族を持ってはならないし、その人を欠かすことのできないメンバーに含んでいる共同体や組織に属してもならない。つまり、その人が明日いなくなっても誰も困らないような人間になるべく自己陶冶の努力をしたものが、グローバル企業の歓迎する「グローバル人材」たりうるわけです。 
これは「地に根づいた」生き方のちょうど正反対のものです。「地に根づいた人」とは、その人を頼る親族たちがおり、その人を不可欠のメンバーとして機能している地域の共同体や組織があるせいで、「私はこの人たちを置き去りにして、この場所を離れることができない」と思っている人間のことです。
そういう人間はグローバリズムの世界では「望ましくない人間」であり、それゆえ社会の下層に格付けされることになる。  
繰り返し言いますけれど、どうして日本人たちがこんな自分たちに圧倒的に不利なルール変更にうれしげに賛同したのか、「支配的なイデオロギー」の発揮する魔術的な効果ということ以外に私には理由が思いつきません。 
その「支配的なイデオロギー」はどういう歴史的条件の下で形成されたのか、どういうふうに構造化されているのか、どう機能しているのか、その破壊的な効果をおしとどめる手立てはあるのか、あるとすれば何か……といった一連の問題意識がこのシンポジウムには伏流しています。 


仙台大空襲

2013年07月12日 06時00分59秒 | 蜂助の呟き

こんにちは、蜂助です。

いつもは「花」なのですが、今日は、わが家の庭と玄関先の植物の様子を公開しちゃいます。

まだ梅雨は明けませんが、百花繚乱という感じです。

7月12日、今日は何の日かと思って調べたら、ラジオ本放送の日とかローリング・ストーンズ記念日とかだそうです。ちなみに昨日は、セブンイレブンの日(?)、世界人口デーなどでした。 おとといの七月十日、忘れていけない日を忘れていました。納豆の日もそうですが、これではありません。

1945年7月10日未明、太平洋戦争末期に行われたアメリカ軍による仙台大空襲が行なわれた日です。当時の仙台は軍都と言われ、狙われても不思議ではありません。しかし、ここで見落としてはいけないのは仙台市苦竹にあった陸軍造兵廠や榴岡の第二師団歩兵第四連隊兵舎は仙台駅から東側に数キロしか離れていないのに空襲を受けなかったという事実です。仙台空襲だけではありませんが、戦争末期のアメリカ軍による空襲は一般住民を狙った大量殺戮だという事実です。無差別攻撃そのものです。死者2755名、被災人口57321人、被災家屋11933戸と記録されています。

日本軍の侵略を許すことはできませんが、戦争というのは大量殺戮につながることをあらためて実感する朝です。

今日も、仙台市は梅雨まっただ中です。