今日は子供の日、緊急事態延長が5月末まで延長されました。
小学校も休業が続いて子供達のお父さんお母さんも嘸かしご苦労が多いと思います。
私にも子供の頃の記憶が急激に蘇って来ました。
太平洋戦争(当時私達は大東亜戦争と教えられました)が始まって・・
始めの内は大本営のラジオ放送も日本軍の進撃振りを威勢よく伝えていたのですが・・
発表とは裏腹に米軍の空襲とかが伝えられ、高田馬場駅周辺の商店街とかが強制疎開で建物が壊されて町の様相が変わっていったのです。
私達が1年生で入学した時には校名も小学校から国民学校と替えられて・・
戸塚第三国民学校となっていました。
戦局も深まり相変わらず未だ大本営発表は大袈裟な帝国陸海軍の大戦果ばかりで・・
勝ち戦に憧れた私達は皆でハヤリの軍歌、落下傘、海行かば、を歌ったり、戦地の兵隊さんに慰問袋を送る手伝いをしたり、もんぺ姿のお母さんたちと近所の出征兵士を駅迄見送ったりと・・
国民学校低学年の学校生活ですが1年生の初めの頃は、私の2組には、いたずらっ子が居て、下駄箱から私の運動靴が消えていたりして、ベソを掻いて女のO先生に泣きついたのを記憶しているのです。
4年生になった春(だったと思うのですが)に集団疎開で群馬県草津町に・・
兄は5年生で、私より1年先に草津町の下宿?文久堂に同じ学年の6人と疎開生活をしていました。
私達は男のHN先生、保母のKさん(20才位の)とクラスの男子15人は草津町の町はずれに近い川島屋旅館で疎開生活を始めたのです。
集団疎開生活は勉強生活でも有ったのですが・・
先生は一人、教室も無く、勿論机も有りませんし、
東京から疎開と同時に家から送って貰った手作り木箱の上蓋が机の代わり・・
15人の木箱は、全て同じ縦横高さ40cm程の箱(きっと学校で決められた寸法で作らされた?)を開けるとそこに教科書、帳面、筆箱と他には、硯とか・・記憶に有るのは好きな国語の教科書位?・・箱の外側には夫々の子供らしい柄の紙が貼って有ります親心。
川島屋で勉強した記憶は殆どありません。
日記?・・ウーン記憶にないな~・・いや日記書いてた・・思い出した・・お昼は、夕食は・・そう云えばお天気も・・食べ盛りは、勉強より食べ物に飢えていたのかも?・・
それでも旅館のご主人、ご家族の暖かいもてなしで川島屋で15人の疎開生活の初め1年目はソレはソレは楽しい毎日だったのです。
月に一度は小粒の栗の入ったお汁粉がオヤツに・・冬の或る晩は飼っていたウサギの肉が振舞われたり・・三度三度白いご飯も毎日食べられたし・・草津の山へ蕨を採りに行って沢山採れた蕨は朝のお味噌汁にと・・次々思い出されるのは食べ物の事ばかりで・・
わざわざ東京から親父が面会に来てくれた時は嬉しかったが変に硬くなって正座で向き合ったりして・・
母親だと又別だったでしょうが・・東京から母親が草津迄来ることは出来なかったのでしょう。
さて、そんな或る日のこと、先生と、もう一人知らない男の人に引率されて私達15人はその日初めて草津町の郊外の道を歩いていました。
やがて2時間位歩いて或る建物の前に・・
私達に「待っとれ・・」
先生と二人は建物の中へ・・
暫らくすると、先生は私達を建物の入り口まで呼んで・・
一人一人に木の下駄を1足づつ手渡ししてくれたのです。
後年解ったのですが、楽生園?ってハンセン症患者の施設だったようです。
今は全く無い当時の偏見では有りますが、施設の周りの森はひっそりとして柔らかな陽射しに囲まれた洋風の建物が印象に残っています。
やがて、その下駄を履いて、毎朝、川島屋から草津の温泉街を一周する駆け足運動が始まったのです。
そうそう、川島屋には内湯の設備は無かったので・・
お風呂は、同じクラスの友達が宿泊している湯畑近くの山本屋旅館(今でも営業している草津温泉の老舗です)迄、行って貰い湯しなければなりませんでした。
私は子供の時、お風呂は余り好きでは有りませんでした・・特に草津のお湯は硫黄成分の為に手ぬぐい(確かタオルでは無かった)が直ぐボロボロになって仕舞って・
当時の記憶では、湯船の底から糸くずみたいな濁りが沸いて来て、私には何故か不気味にさえ感じられたのです。
全ては、過去の話で・・
今では温泉も綺麗に濾過されて、大人になって訪れた草津のお湯は歌の文句じゃないけれど・・
「お湯の中にも花が咲く」は硫黄の湯の華ですが、薬効あらたかで治せないのは恋の病位とか
さて、下駄の話が中途半端になって申し訳ございません。
取り敢えず、ここまでお読みいただいたなら大感謝です。
我が家でウキウキしてゆったりとして・・これは病みつきになりそうな感じです・・
但しワインはフランスです。ゴチソウサマ