緊急事態の延長は思いのほか疲れます。
例えば、パチンコ屋さんの営業全面自粛がたった1日で何十店も営業再開何てのは・・疲れます。
色々問題が絡んでいるらしくて、暫らくは知事の皆さんも対応に苦慮されるんじゃ~・・
体だけは充分に気を付けて下さいましな・・
さて、やっと早朝の草津温泉の町中を、裸足で下駄を履いたパンツ一丁の裸っ子達が走り始めたのです。
4年生の男15人は1列になって、掛け声も高らかに「イチ・ニッ・イチ・ニッ・・」と威勢よく・・
時間にして凡そ20分程でしたでしょうか・・
今と違って当時の草津町は、あの有名な湯畑の周囲に七、八軒の温泉旅館がかたまっていて・・
静かな鄙びた湯治温泉と言った処ったなのでしょうか・・
とても、大きなホテルや保養所が点在する今の大きな草津温泉町とは全然違います。
それに川島屋は湯畑からは離れた、山手の方に建っていたので・・
それでも、グルリ走った2km位の砂利道通りの途中には、誰でも入れる小さな無料の共同浴場が有って、地元の人達も良く利用していたのです。
勿論、男女混浴ですが子供達には関係も無いわけですから・・
町内を駆けまわって、最後にこのお風呂に入って、体を温めて、そこから四~五分の川島屋迄帰るコースが朝の日課になっていたのです。
やがて過ごし易い夏が過ぎ秋が来ても、下駄穿いてパンツ1丁の裸で走る15人の駆けっこは続いていたのです。
冬になると草津の町は毎日の様に降り続く雪に覆われて、更に雪の積もった道路は凍ってカチンカチンになっていて・・
地元の人は勿論のこと、こんな戦時中でもスキーに来る人も多く、近くのゲレンデは結構スキーヤーで賑わっていましたし、上級生受け持ちの女先生などは、草津町中心の道路に迄、スキー板を履いたままで湯畑方面へ下っていく姿も見られました。
地元の子供達と違って、私達にはスキーとは縁が無かったのです。
精々オモチャのようなソリ(橇り)に皆で乗るくらいでした。
それに私達都会っ子には、雪に埋もれた冬の生活は生まれて初めての経験なのです。
寒い冬は昼間も炬燵に入って、窓の外で地元の子が雪の中を平気で転がり遊ぶ姿を呆気に取られて只、見つめるばかりの毎日です。
でも、日課である早朝の駆け足だけは続いていたのです。
今思うと寒かったのでしょうが、今でも、あかぎれで手の指が痛かった記憶は有るのですが、霜焼けに悩まされる事は無かったのは体質に依って違うと言う事でしょうか・・
真冬の或る朝の事、雪が舞っている道路にいつもの様に飛び出した私達でしたが、先頭の誰かがいつものコースとは逆方向へ走り出して・・
皆も後に続きます。
通りへ出ると直ぐに、例の共同浴場が目の前に・・
誰かが「先に風呂へ入ってから、いつものように走れば良いんじゃないか~・・」
寒かったのでしょう、何と無く納得したように、皆、無言で共同浴場の中へ・・
下駄を脱いで・・
パンツ1枚ですから脱衣も簡単です。
湯気で煙る薄暗い湯船のヌルヌルした木の縁から浴槽へと、一人二人と入り始めた私達です。
私を含めて5人程が湯船に浸かって・・ヤレヤレです。
ヒョイっと前を見て思わず私「ギョッ!・・何で??」
目の前にHN先生の顔が・・面ずらはニヤニヤしていますが、メガネを付けて無いHN先生の鋭く、とげのある冷たい視線は、熱い浴槽の中で、私の背中をゾクッとさせて・・思わず立ちすくむ、じゃ~無くて・・何と言ったらいいか・・
「お前達、何処を通って来たんだ?・・」
「ハイッ・・・あのバスの車庫の前を通って・・」
「それから?」
「エ~・・と???・・」黙って俯くにも、お湯の中では・・私は顔面蒼白だったに違いありせん。
子供心にバツが悪いとは、この事かと思いながら・・暫らく沈黙が続いて・・
やおら湯船から立ち上がった私達は体を拭く間もなく、パンツを穿いて、下駄を履いて再び、共同浴場から雪の舞う外へ飛び出して行ったのです。
町内、いつもの距離を走って川島屋へ戻った私達に、HN先生は何も言いませんでした。
考えてみれば、私達がいつものコースで走っている間に、先生はノウノウと湯船に浸かっていて、私達が共同浴場に着くころは旅館に戻ってい居て、何食わぬ顔で私達を出迎えていたのでしょうから・・
私達はその後も毎朝何時ものコースを走り、いつもの様に共同浴場のお風呂に浸かって、HN先生と一緒に朝食を食べて・・
長い冬も終わる頃、訳は解りませんが親身で親切な川島屋旅館から全員湯畑近くの山本館に移りました。
と同時にHN先生とも別れて15人の駆け足習慣も終わったのです。
すり減った、あの下駄は?山本館まで持って行った記憶は有りません。
大分、後になって地元の人達の間では「あ~あの川島屋の元気な生徒達か~・・」と評判になっていたとも聞きましたが・・
それを聞いて何故か特別な感情に捉われたとも思いませんでしたが・・
草津温泉の賽の河原でHN先生とお裁縫のY先生、そして15人の男子生徒です。
親を離れて、知らない土地で例え僅か1年余りでも暮して・・
子供の心は何処か凍てついていたような気がします。
此処迄お付き合いいただいて感謝しています。
申し訳有りませんが文章をチェックして居ません。
更に続く・・余り気が進みませんが・・
疎開先では皆で囲む鍋料理は只の1回も食べられなかった・・ゴチソウサマ