楽しい思い出も沢山有った川島屋旅館の疎開生活ですが・・
その間、太平洋戦争の戦況が如何なっていたかも、全く知りませんでしたが・・
「知りません」と言うより「知らされていない」と言う方が正しかったのかもしれません。
テレビは勿論、新聞やラジオも無い、太平洋戦争の話も殆ど聞こえて来ない毎日でしたから・・
じわじわと草津町の疎開生活は、日常の生活の上でも日に日に厳しさが忍び寄ってきていたのは確かな事です。
山本館の大広間には男女30人程の児童が寝ています。
真夜中、窓際で仰向けになって、暗闇の天井を見上げている私の耳に・・
毎晩、窓の外で「リンケ~ン・・」・・・夜の静寂を破る太い大人の声が響いて・・
リンケンの意味が「臨検」だと理解出来たのは、余程、後の事で・・
憲兵達の夜回りだってのでしょうか・・
当時、草津町の旅館には戦地で傷ついた傷病兵さんが負傷療養の為に滞在していたのでしょう・・
尤も兵隊さんの姿は、昼間の内は町中でも殆ど見かけませんでしたが・・
一晩考えた挙句・・
此処迄・・で今回の草津町の話は終了させて戴きます。
山本館に移ってから暫らくして、湯畑の反対側の遠州屋旅館に移った私は・・
やがて栄養失調となり、別室に一人床に臥せったままで、食べる物も余り受け付けなくなっていました。
そして季節は春から夏へ向かっての半年間・・
時々は良い事も少しは有りましたが・・
今、記憶に残っているのは、暗い苦しい悲しい事ばかりのような気がしています。
今の時点で、この後の疎開生活を語る勇気は今の私には有りません。
当然、今は亡くなっている筈の当時の先生方や大人達の戦時中の振る舞い、又、ここ数年の内にも、私より先に亡くなって仕舞った、苦楽を共にした疎開友達の何人かを傷つける事にならないか、更に私個人が、ひ弱な一児童として、この間の行動に卑怯な事も、疚しい事も無かったとは言い切れないのです。
テレビは勿論、ラジオも無い、太平洋戦争の話も聞こえない草津の疎開生活でしたが・・
近づいて来る敗戦の気配も知らずに日々重苦しい空気に包まれていったこの半年を・・
どう話したら良いのか迷って、やり切れない気持ちになる私です。
でも私は下手な小説家でも、上手に文を綴る物書きでも無くて本当に良かったと思っています。
70代近くなった疎開友達が再び懐かしい川島屋旅館を訪れました。
亡くなられた当時のご主人と奥様のご仏壇にお線香を上げさせて戴いて、お二人に感謝と心よりのお礼を申し上げました。
この集団疎開生活と新コロナウイルス感染の自粛生活とを比較する事は出来ませんが・・
新型コロナウイルス感染自粛で学校へ行けない子供達
今こそ、親に思いっきり甘えて下さい・・
自宅待機で今、お家にいるお父さんやお母さん達
今こそ、子供達と一緒になって家の中でも外でも良いから、徹底的に付き合って上げて下さい。
何十年か経って、この経験と試練は、きっと貴方方の貴重な財産になっている筈です。
上級生から譲り受けた貴重な古い教科書の入った、あの木箱の机で自習勉強をした私達ですが・・
集団疎開の経験が立派な修身?道徳?社会勉強?人間形成?・・
それ以上の教育を受けていたのだと私は思いたいのです。
当然ゴチソウサマは有りません。