夏が訪れるたび思い出す物語があります。
物語の名は「火垂るの墓」。
多くの人が涙した物語です。
高畑勲監督の長編アニメ映画「火垂るの墓」の世界観を肌で感じたいと思い、
私は兵庫県の神戸市と西宮市を訪ねました。
「昭和20年9月21日夜。ぼくは死んだ」このセリフから物語が始まります。
主人公の清太(14歳)が、栄養失調により衰弱死した場所は、JR三ノ宮駅構内(中央口)。
敗戦直後、たくさんの戦災孤児が清太のように亡くなったのは事実です。
戦時中は空襲等のどさくさで、食べ物の調達が出来ましたが、敗戦後はそれが出来なくなりました。
また、清太のように、母親が貯金を残してくれていても、敗戦後は激しいインフレにより、
お金の価値が下がっていました。
物々交換が一般的になっていたのです。
ですから、清太の様な孤児は、食べ物が手に入らなくなり、栄養失調などで衰弱死する者が多かったのです。
駅の大きな柱にもたれ、両足を前に突き出して座っていた清太、
やがて命が尽きて、崩れる様にその場へ倒れこみます。
そこに居合わせた駅員が、清太のズボンのポケットから、ドロップスの缶を取り出します。
駅員は、それが価値がないと見るや、ドロップスの缶を駅の外へ投げ捨てました。
投げ捨てられたドロップスの缶が、地面に落ちた瞬間、白いものが飛び出ます。
その白いものは、清太の妹、節子の骨でした。
映画では、その直後に節子の霊が現れます。
その後、投げ捨てられたドロップスの缶を拾う清太の姿が映し出されます。
そこに映し出された清太は、この世を後にした清太の姿でした。
ふたりは霊となって、この世に戻って来ました。
野坂昭如氏の原作本とアニメ映画の違いは、この2人の霊が過去に遡り、
生きていた頃の、自分達の姿を客観的に覗いているところなのです。
原作にふたりの霊は出て来ません。
三ノ宮駅で現れた2人の霊は、過去へ遡ります。
やがて2人の霊は、母親の遺骨が納められた骨箱を持って、西宮へ向かう清太の姿を追います。
さて、このまま映画のストーリーを追っても仕方がないので、少しずつ本質へ迫りたいと思います。
「火垂るの墓」はあくまでフィクションですが、ただ、モデルとなったストーリーがあります。
それは原作者の野坂昭如氏自身が体験した事に基づいているのです。
野坂昭如著「ひとでなし」という自伝的小説を今回は参考にさせて頂きました。
この自伝的小説に描かれている事が、全て真実とは言い切れませんが、
「火垂るの墓」に繋がるところは、真実に近いと思われます。
野坂氏にも、映画と同じ様に妹がいました。
ただそれは、映画で描かれている兄妹とは大きく違っています。
野坂氏は生後すぐ養子に出されています。
養子先は生母の妹夫妻。
後に妹夫妻は、野坂家とは別の家筋から、野坂氏の義妹となる恵子を、養女として迎え入れました。
ふたりの兄妹は、全く血の繋がりのない兄妹だったのです。
野坂氏は14歳の頃、その恵子(1歳3か月)を連れて、
西宮市の満池谷町で暮らす、遠縁の未亡人宅を訪ねています。
映画と同じく、空襲で自宅が焼失したので、暫くの間、身を寄せる為です。
映画の中で清太と節子の霊が阪急の夙川駅を降り、夙川の堤防を歩くシーンがありますが、
野坂氏も恵子を背負い、同じルートで未亡人宅まで歩いて行ったと思われます。
映画の中で、兄妹は仲が良くて、会話をするシーンも多いですが、
野坂氏と恵子の場合、恵子があまりに幼すぎる為、会話など無く、恵子が横になっているか、
恵子を自分が背負っているか、それぐらいの記憶しか野坂氏には残っていなかったそうです。
野坂氏が恵子とふたりで、西宮の未亡人宅へ身を寄せたそのすべての始まりは、
昭和20年6月5日の神戸大空襲です。
昭和20年6月5日午前7時22分、474機のB29が神戸の空を埋めました。
東京大空襲の2倍近いといわれる、3080トンもの焼夷弾・破砕弾が神戸の町を襲ったのです。
攻撃は午前7時22分から8時47分の1時間25分に亘って行われました。
神戸への空襲で、特に大きな被害が出たのは、昭和20年3月17日、5月11日、6月5日の空襲です。
その3回の攻撃で神戸市域は壊滅状態となりました。
その被害は、戦災家屋数14万1,983戸、罹災者53万858人、死者7,491人、
負傷者1万7,014人です。(「神戸 災害と戦災 資料館」より)
映画では、空襲警報が発令した時、心臓を患っている母親が一足先に防空壕へ向かい、
清太は4歳の節子を背負って、母親より後に自宅から避難しています。
野坂氏の場合、野坂氏は家族をおいて、たったひとりで自宅から逃げています。
度重なる空襲により、野坂氏の心に空襲の恐怖が刻み込まれてしまったからです。
映画では自宅のあった、
神戸市御影町上中・上西(現在は御影本町6丁目・8丁目)あたりから清太と節子は避難し、
阪神電車の高架下まで来たが、避難者が多くて身動きが取れない為、引き返して浜の方へ出ています。
↓↓石屋川下流。
浜に出たふたりは、石屋川沿いに御影公会堂方面を目指します。
堤防を上がって清太が目にしたのは、一面が焼け野原と化した町並みでした。
清太は母親との待ち合わせ場所、御影公会堂の裏手にある二本松に向かって石屋川沿いに歩きます。
余談ですが、
石屋川沿いにある石屋川公園では、火垂るの墓の石碑が立っています。
石碑のある周辺は、映画の舞台となっている事もあり、この石碑が立てられたものと思います。
この石碑の存在を知る事で、「火垂るの墓」を知らない世代が、
興味を持ってくれれば良いなと思います。
人々の記憶の中に、ずーっと残り続けてほしいと願います。
野坂氏は以下の様な言葉を残しています。
『火垂るの墓を書くことで、戦争を伝えられると思っていなかったし、それは今も同じ。
僕は未だに自分が小説家なのかどうか、あやふや。
たが、少しは戦争を知っている。
飢えも心得ている。
あんな馬鹿気たことを、繰り返してはいけない。
戦争の愚かしさを伝える義務がある。
あれこれあがいた結果、書く事が残った。』(野坂昭如)
野坂氏の思いが、多くの人の心に響くことを、私は祈っています。
下の画像は御影公会堂です。
戦争を乗り越え、震災を乗り越え、この町のシンボルとして、その姿を保ち続けています。
ただ、まったく無傷だったわけではなく、戦時中に被災しています。
その時、外壁だけが何とか建っている状態で、内部は焼失して殆ど何も残っていなかったそうです。
その御影公会堂を横目に、石屋川沿いの堤防を歩き、清太と節子は二本松へ辿り着きます。
この二本松ですが、実際のロケ地では見当たりませんでした。
ただ、御影公会堂裏手の公園入口にたつ二本の松が、モデルではないかと、私的に思っています。
自宅から逃げ出した野坂氏のその後ですが、ひとりで逃げ出したあと、焼夷弾の雨の中、
何度か命を落とすような場面に会いながらも、山裾の横穴壕へ身を隠します。
ちなみに、野坂氏が住んでいた場所は、神戸市灘区中郷町3丁目あたりです。
清太の自宅が海側に対して、野坂氏の自宅は阪神電車の線路を挟み山側だったのです。
横穴壕を出た野坂氏は、そのあと石屋川堤防に出て、しばらくその場で待機します。
母親の事を心配する清太と節子とは違い、野坂氏は家族から解放された安堵感に浸ります。
養子という立場からか、野坂氏は養父と養母に対して真面目ぶっているところがあったようです。
その頃の野坂氏は、真面目ぶっている事にいささか疲れてしまい、
家族から解放されたいという気持ちが強かったのです。
この空襲で野坂氏は、養父も養母も義妹も全員死んだものと思い、もう真面目ぶる必要はなくなったと、
石屋川の堤防でそう思っていたのです。
『昭和二十年六月五日の神戸大空襲でも、ぼくは逃げた。
焼夷弾が落下し、玄関の前に養父がいることは気がついていたけれど、
たった一言、両親を呼んだだけで、一目散に六甲山に走った。
あのうしろめたさは今もある。』(野坂昭如)
野坂氏は後に、そう語っています。
一方、映画の清太と節子ですが、
二本松で母親がすでに待っていると思っていたふたりですが、そこに母親の姿はありませんでした。
ふたりは二本松を離れ、御影国民学校(現:御影小学校)へ向かいます。
清太たちが住んでいる地区の人達が、皆、御影国民学校へ避難していたからです。
↓↓現在の御影小学校
この御影国民学校で清太は瀕死状態の母親と再会します。
余談ですが、映画で描かれている小学校のモデルは御影小学校ではなく、
一説には成徳小学校ではないかと言われています。
石屋川で待機していた野坂氏が、その後向かったのは、自らの出身校である成徳小学校だったからです。
↓↓成徳小学校
御影国民学校へ辿り着いた清太は、知り合いのおばさんから、母親が空襲の被害を受けた事を知ります。
節子をその知り合いに任せて、ひとり、母親と再会します。
母親は、全身を包帯でぐるぐる巻きにされ瀕死の状態でした。
清太は深い悲しみに包まれます。
実は野坂氏の養母も、清太の母親と同じような状態でした。
野坂氏は成徳小学校で養母と義妹の恵子と再会します。
映画では、清太と再会した母親は、その後すぐに亡くなりますが、野坂氏の養母は、映画と違い助かります。
癌で亡くなる1969年(昭和44年)まで生きていました。
これも余談ですが、映画のシーンで母親と面会する前、母親の指輪を受け取るシーンがありますが、
野坂氏も、養母から直接「失くさないように」とサファイヤの指輪を受け取っています。
さて、御影国民学校をあとにした清太と節子ですが、この記事の冒頭で記載した通り、
西宮市満池谷町に住む親戚のおばさんの家へ身を寄せます。
野坂氏も同じく西宮市満地谷町の未亡人宅へ、義妹の恵子とふたりで身を寄せる事になります。
満池谷町での野坂氏の暮らしぶりは、空襲の恐怖から逃れられた安堵感から、
まるで幼少に戻ったかのように、未亡人宅ではゴロゴロと過ごす毎日だったようです。
映画の中の清太も、おそらく野坂氏と同じような気持ちだったものと思います。
あと映画の中で、節子が寝ている時に泣き出して、清太が節子をおぶり、外であやすシーンがありますが、
野坂氏も夜泣きする恵子を背負って、外であやしたそうです。
また映画では、空襲警報が発令すると、清太は節子を背負って坂道を駆け上がり、
満池谷貯水池の防空壕へ避難するシーンもありますが、
野坂氏も映画と同じく、空襲警報が発令すると恵子を背負って防空壕へ避難したそうです。
少し生活が落ち着いた頃、親戚のおばさん宅へ身を寄せた清太と節子は、息抜きの為に、
おばさん宅のある満地谷町から御前浜(香櫨園浜)へ向かう為、夙川の堤防を歩きます。
下の画像は夙川の堤防です。
阪神電鉄香櫨園駅から西宮回生病院の間で撮影した画像です。
実際に私も歩いてみましたが、40分ほどで満池谷町から御前浜に行けます。
こちらの御前浜は1907年(明治40年)に香櫨園浜海水浴場として開設されていました。
戦後の高度経済成長期、周囲の工場から排水される汚水などで海が汚れた為、
1965年(昭和40年)に海水浴場は閉鎖されました。
現在は御前浜公園として地元の方達のくつろぎの場となっています。
野坂氏も西宮の未亡人宅で身を寄せている間、幾度かこの浜を訪れています。
浜のすぐ近くに西宮回生病院があったからです。
西宮回生病院では、野坂氏の養母が入院し、祖母が看病をされていました。
祖母は養父の母親で、大阪の守口市に住んでいました。
野坂氏は後々、その守口市で祖母と養母と一緒に暮らすことになります。
回生病院へは、未亡人宅の三女で、当時16歳だった律子も一緒に訪れています。
病院で養母に面会した後、祖母が看病の合い間に、恵子の面倒を見てくれる時があり、
そんな時、野坂氏は律子とふたりで浜を散歩しています。
映画の中で、砂浜で遊んでいる時に、節子が舟と舟の間に放置された死体を発見しますが、
野坂氏も映画と同じく、この浜で死体を実際に見ています。
さて、未亡人宅の三女、律子のことですが、
未亡人には5人の兄妹がいて、長女は嫁ぎ、長男は兵隊で家を離れ。
次女、四女は勤労動員などで、あまり自宅にはいなかったようです。
日がな一日ぼんやりと過ごしていたようです。
そこへ野坂兄妹が転がり込んで来た訳ですから、 律子にとっては良い話し相手が出来た訳です。
また、野坂氏自身も律子の魅力に惹かれ、恋心を抱きます。
やがて頭の中は、律子のことでいっぱいになります。
野坂氏と未亡人の間柄ですが、これが少しややこしく、
養父のいとこの嫁の母親が、未亡人になるのです。
映画の親戚のおばさんも、同じ設定だと思われます。
その親戚のおばさんですが、映画では意地悪な感じに思える人もいたかも知れません。
でも、当時の時代背景を鑑みると、おばさんの行為はごく一般的な対応だったと私は思います。
食糧事情が最悪な状況の中、親戚と言ってもかなりの遠縁で、他人当然の兄妹を養うのは、
相当な苦労があったと思います。
野坂氏自身も、あまりの飢えに、恵子の食べる分まで自分の口の中に入れています。
誰もが、生きていくのに必死な時代でした。
親戚のおばさんと、清太たちが食料を分け、清太が自炊しはじめるエピソードがありますが、
野坂氏も同じ体験をしています。
野坂氏の場合は、未亡人宅に顔を出した祖母に、食い物が底をついたと話をすると、
祖母が未亡人に聞こえるように「食い意地の張ったお家だね!」と言ったのがきっかけで、
以後、映画と同じように食料が分けられ、野坂氏が自炊しなければいけなくなったのです。
映画では、おばさん宅にいたたまれず、清太と節子は満池谷貯水池の横穴壕で暮らし始めますが、
野坂氏にも同じような状況が訪れます。
未亡人宅を離れる時が来ます。
映画で清太と節子がオルガンを弾いていておばさんに怒られるシーンがありましたが、
野坂氏も同じような経験をしています。
オルガンを一緒に弾いていたのは、義妹の恵子ではなく律子でした。
オルガンを弾いているふたりをみた未亡人が、
「時節を心得ない、本土決戦を目前として、中学生がのんびりとしているはけしからん!」
そう言って野坂氏に、養母が入院している病院へ移るようすすめます。
実際、病院には空き部屋があったので、養母の付き添いを名目に頼ることは出来たのですが、
野坂氏はあえて満池谷町から離れませんでした。
野坂氏はどうしても律子と離れたくなかったのです。
下の画像に階段がありますが、戦時中はこの付近にコンクリート壕があったそうです。
野坂氏と義妹の恵子は、その壕のひとつで暮らし始めます。
その時に鍋などを調達してくれたのが律子です。
映画の清太と節子の壕での暮らしは、空襲攻撃を受けている最中の町で空き巣に入ったり、
畑の食物を盗んだりして食いつなぎ、日々を過ごします。
満池谷貯水池(ニテコ池)にも当時は壕があったようですが、野坂氏はその壕で暮らしてはいません。
現在の貯水池に横穴壕の面影はありませんでした。
映画では、貯水池の壕で暮らし始めた時、清太が節子を喜ばす為に、
蚊帳の中へ蛍を放つシーンがありますが、野坂氏も実際に同じ事をしています。
ただ、義妹の恵子を喜ばせる為ではなく、律子を喜ばせる為です。
未亡人宅では、律子と恵子と野坂氏の三人は同じ部屋で、同じ蚊帳の中で寝ていたのです。
壕で暮らし始めた清太と節子、そして野坂氏と恵子ですが、
その暮らしは長く続きませんでした。
やがて終戦を迎えます・・・。
映画「火垂るの墓」では、他人の会話を通して、清太は敗戦を知り涙します。
そして妹の節子は栄養失調により衰弱死・・・。
清太と節子が過ごしたニテコ池のほとりに、大きな邸宅があります。
金持ちと思しき若い娘たちが賑やかに、その邸宅へ入って行きます。
邸宅から「埴生の宿」(Home sweet home)が流れ、ニテコ池に響き渡ります。
清太は、防空壕で過ごした節子との日々を回想します。
そして自らの手で節子を荼毘にふせ、遺骨をドロップスの缶に納めます。
満地谷町で50日間ほど過ごした野坂氏は、その後、養母の同級生を頼って恵子と共に、
ふたりで福井県へ向かいます。
野坂氏は福井県で終戦を迎えました。
身を寄せた福井県でも食糧事情は酷く、義妹の恵子は、節子と同じように衰弱死したのです。
清太が節子を火葬したように、野坂氏もまた、たったひとりで恵子を火葬しました。
そしてドロップスの缶ではなく、胃腸薬「アイフ」の缶に恵子の遺骨を納めたのです。
『幼い妹を連れ見知らぬ土地である。
何もない。
死が遠ざかるとたんに差が生まれる。
ぼくのようによそ者はどこへ行けばよいのか、突然終わった戦争に安堵はしたが、
新たに湧いた不安感、飢えに苛まれながら、いいようのない絶望の中にいた。
戦争が終わって二日目、配給があった。
乾パンに金平糖、毛布が一枚。
まだ一歳四ヶ月の妹は、食べることが出来ない。
工夫して与えてみたものの、日に日に衰えていった。
八月二十一日、戦争が終わって一週間目、骨と皮になった妹を火葬した。
妹の体のまわりに、大豆の殻と、あぜ豆の殻を積み焼いた。
燃料不足とはいえ、あまりにとげとげしくかわいそうだった。
妹のことはあまり思いださないようにしている。
いかな理由であれ、子供をあんな風に葬るのはよくない。』(野坂昭如)
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戦後、野坂氏は「アメリカひじき・火垂るの墓」で直木賞を受賞します。
野坂氏は「火垂るの墓」を書きあげた後、一度も読み返した事がなかったようです。
また、アニメ映画「火垂るの墓」も、本編を一度も観賞していないそうです。
「火垂るの墓」は、義妹の恵子に対して贖罪のつもりで書きあげた作品だとも言われています。
『ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、
今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持ちが強く、小説の中の清太に、
その想いを託したのだ。
ぼくはあんなにやさしくはなかった・・・。』(野坂昭如)
14歳の野坂少年は、がむしゃらに生きて、そして恋に一途で、育ち盛りだからいつもお腹を減らしていて、
思春期で、しかも反抗期だから、家族を煩わしく思ったりした・・・。
ただそれは、思春期ではありがちなこと・・・。
悲しいのは、戦争に思春期であることを許されなかったこと・・・。
それが戦争なのです。
映画「火垂るの墓」は、清太と節子のふたりの霊が、神戸の町を眺めているところで終わります。
高畑勲監督は次のように話しています。
「清太と節子の幽霊を登場させているんですが、このふたりの幽霊は、
気の毒なことに、この体験を繰り返すしかないわけです・・・。」
そして野坂氏は、自身の小説「死児を育てる」の中で以下の事を書かれています。
『タイムマシーンがあったら、ここにあるクッキーやあめやゴーフルや、
あの土蔵で最後は泣くこともできずに寝たっきりだった文子に届けてやりたいと、
涙を流し、だがごま化せない。私の罪は消えない。』
この一説は恵子を想って書かれたものです。
『戦争はあらゆる人の人生を狂わせた。
八月十五日が終戦といわれるが、それぞれの戦争はそうたやすく終わるものじゃない。』(野坂昭如)
今回の記事を作成するにあたり、参考にした作品(映画)、文献は以下の通りです。
・高畑勲監督 長編アニメ映画「火垂るの墓」
・野坂昭如著「火垂るの墓・アメリカひじき」
・野坂昭如著「ひとでなし」
・野坂昭如著「シャボン玉 日本」
2年掛かりで、ようやくこの記事を完成させる事が出来ました。
アニメ映画「火垂るの墓」を、戦争を知らない多くの皆様に、少しでも身近に感じていただければと思い、
ロケ地を回ったりしました。
また、原作者の野坂昭如氏が体験した事を、皆様に伝える事で、「火垂るの墓」の中にある真実を、
少しでもお伝えできればと、そのように思いました。
編集前の記事に比べると、今回はより「火垂るの墓」の世界観が理解しやすいものになったと思っています。
とはいえ、第三者の目から見ると、まだまだ至らない記事かもしれません。
今回の記事を読んで「まだ理解出来ない。」という方がいらっしゃれば、コメントをお願いします。
皆様からの御意見を真摯に受け止めて、更なる努力をして行きたいと思います。
戦争を知らない、体験したことのない私では、限界があるかもしれませんが、
戦争の怖さを、愚かさを、今後も伝えていく所存です。
この記事を読んで頂く事で、映画「火垂るの墓」を鑑賞するきっかけになったり、原作(小説)を読んで頂けたり、ロケ地を訪ねたり、
戦争のことを、少しでも知ろうという気持ちが芽生えてくれれば、とても嬉しいです。
普段はうどんや旅の記事を中心にブログを運営していますが、
そういう事が出来るのは、多くの犠牲があっての事と思っています。
当たり前のように「平和」があるとは思っていません。
だからこれからも、8月15日は戦争を語っていきたいと思います。
先の大戦で、犠牲になられた多くの尊い命に対してご冥福をお祈りするとともに、
現在も苦しみの中にいる皆様の御心労いかばかりかと胸が痛みます。
そしてご遺族の皆様、皆様にお見舞い申し上げます。
放浪うどん人tati
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コメントありがとうございました。
ルビィさんも機会がありましたら、ロケ地巡りをしてみて下さい。
アニメの画像と現地の風景を比べながら、ロケ地を探索するのは楽しいですよ。(^^)
ところが高畑は映画を万人の為のものとなるように演出した。殺害者としての自覚をすべての人につきつけた。トルストイが感じたのと同じ苦悩をすべての人に。
高畑が偉大なのは、それを理論的把握にとどまらせることなく、殺害されながらも恨みもせずに殺害者を見つめ返す無垢な瞳として与えたところにある。
こんなふうに私は思うのです。
コメントありがとうございます。
おふたりのコメントを読んで、この記事を書いて良かったと思っています。
私の気づいていない感情が、まだまだ世の中にはある。
そのように思いました。
聖地巡礼やってみたいなと思いました。
嬉しいコメントを有難うございます。
今後の励みになります。(^^)
私は大阪人で大学は大手前大学に通っていました。(現在は石川県在住)
当時の恋人(現在妻)をバイクに乗せて青春を謳歌していた自分にとってこの写真の多くの場所は思い出の場所です。バイクがトラブルで立ち往生した御影公会堂、大学に二人で通った夙川の河川道などなど、10年前の事が今でも鮮明に青春の香りを伴って思い出せます。ですが、これを知るとその青春を謳歌できなかった世代がある事を再認識しました。
私の世代は戦争経験者が少なく、私の祖母がそうでしたが私が小学生の時、夏休みの自由研究に戦争について書く事にしたときです。祖母に当時の事を初めて聞きましたが、その時は普段、柔和な顔している祖母が悲哀でもなく怒りでもないとても複雑な表情で語ってくれた事を思い出します。二年前にこの世を去り大往生でしたが今思えばもう少し聞いておきたかったと思いました。ですが、あの表情を祖母にさせたくないという感情も当時の私にはあったからなのかも知れませんが当時のそれを最後に戦争の話題は自然と聞かなくなっていました。
平和は異常な状態と聞いたことがあります。動物の本能として闘争はごく自然なものだというものらしいですが、だからこそ人類は努力してこの素晴らしい異常状態を保たなくてはいけません。しかし、私は後世に戦争の怖さ、絶望、無力、理不尽、といった負の遺産を伝えられるか不安でなりません。この希薄の連鎖がまた戦争を引き起こすのではと塵芥な一個人ですが思ってしまうのです。しかし、こうして多角的に情報を紹介して頂ける方がいる事を知れて少し安堵を覚えます。
長々とお目汚しをしてご容赦下さい、とても充実した記事、ありがとうございました。
胸を打つコメントありがとうございます。
私も、祖父母や両親から詳しい戦争体験を聞くことが出来ず、もっと話をしておけば良かったと、後悔しているひとりです。
戦争未体験の私に出来る事は、先の大戦で亡くなられた人達の、声なき声に耳を傾ける事だと思っています。
知らない人生を知る事で、平和というものが見えて来るのではないかと思っています。
おそらく、このように生前の戦争中の時空間の中に閉じ込められている幽霊体は、現実に存在しているのだと思う。今のそのような霊体がいるのである。おそらくそんな幽霊体を目撃した人は数多くいるのだろう。
この映画は、そんな生前の時空間に閉じ込められている幽体の存在を知らせると同時に、彼らをその時間の縛りから解放させてやるためには、どのようなことが必要なのかということを見る人に訴えかけているのである。
そんな幽霊が日本には数多く存在しているということなのだろう。そしてそんな幽霊体を作ったのが、戦争なのであるということなのだ。