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京都にも空襲があった。 ー 西陣空襲と馬町空襲の被爆地を訪ねて。 ー

2024年08月15日 | 戦争遺跡への旅

京都市上京区智恵光院通下長者町の「辰巳公園」を訪ねました。

79年前、この地にはB29の爆音が響き渡り、多くの人々が被災しました。

「西陣空襲」です。

公園内には、その出来事を伝える石碑が立っています。

石碑には、以下の内容が記されています。

空爆被災を記録する碑

昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に敵機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじい土煙が上がった。
この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかったが、西陣警察署の記録によると

一、死傷者 ・即死 四十三人、重傷 十三人、軽傷 五十三人、計 百九人

二、被害家屋・全壊 七十一戸、半壊 ハ十四戸、一部損壊 百三十七戸、計 二百九十二戸

三、罹災者  ・八百五十人

であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われてきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけたものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるためこの碑を建立して後世への記録と留める。   

 平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会

現在の智恵光院通りには、当時を物語るような痕跡は見受けられませんでした。

公園から南へ進んだところに「山中油店」さんという200年近い歴史を持つ油専門店があります。

その老舗店の暖簾の下には、空襲の際に落とされた爆弾の破片が展示されています。

木碑には、以下の内容が記されていました。

西陣の空襲

昭和20年6月26日午前9時半頃B29の編隊(6~10機)が近畿地方に侵入し空襲警報が発された。
編隊は京都市上京区を北西から南東に進行中でそのうちの1機が上京区出水地域に50キロ爆弾あるいは250キロ爆弾7個を投下した。
この地域の被害が京都市ではもっとも大きく、北は上長者町通り、南は下立売通り、東は大宮通り、西は浄福寺通りの約400メートル四方の範囲で、死者50名を出した。
負傷者は正親、出水、待賢の各小学校の救護所に連ばれ、手当をうけた。
その数は66名といわれているが、救護にあたった医師は負傷者は300名以上であったと言っている。
6月30日には正親小学校で死者の合同葬儀が行われた。
被害家屋は全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸の計292戸で、被災者は850名に達した。

これは、この時の空爆の際、山中油店の家に落ちて来た爆弾の破片です。

この地には、以前勤めていた会社の取引先があり、幾度となく訪れていましたが、当時の私はこの地に空襲があったことを全く知りませんでした。

もっと早くに知っていれば、その歴史を深く理解し、訪れるたびに感じるものも違っていたことでしょう。

そのことが今となっては悔やまれます。

ですから、今回の訪問が終わりではなく、新たな出発点にしたいと思います。

そのことを胸に刻み、西陣を後にしました。

西陣を後にして、次に訪ねたのが東山区の馬町です。

馬町で、まず初めに「京都市立東山総合支援学校『育(はぐくみ)』支援センター」を訪ねました。

この支援センターの門を抜けたすぐのところに、馬町空襲の碑が立っています。

石碑には以下の内容が記されていました。

昭和二十年(一九四五年)一月十六日
午前十一時二十分項
米軍のB29一機が京都市上空に飛来し
東山区馬町一帯に爆弾を投下
死者四十余名 負傷者五十余名
全半壞家屋百四十三戸
当時の修道国民学校も大きな被害を受けた
この事実を後世に伝える

平成二十六年一月
修道自治連合会
馬町空襲を語り継ぐ会

私は「京都・馬町被害地図」を手に、被爆した箇所を訪ねました。

被害地図の画像等は著作権の問題から、ここに掲載することができませんが、読者の皆様には以下のサイトにアクセスしていただき、被害地図と照らし合わせて、この後の画像をご覧いただければと思います。

http://vinaccia.jp/umamachi/sakaguchi-shiryou02.html

下の画像は被害地図1の箇所付近にある『天理教馬町宣教所』がかつてあった場所です。

下の画像は、被害地図2の箇所付近を示しています。

下の画像は被害地図3の箇所付近にある『今西酒店』がかつてあった場所です。

下の画像は、被害地図4の箇所付近を示しています。

下の画像は被害地図6の箇所付近「京都女子大学K校舎」です。

下の画像は被害地図8の箇所付近にある「京都女子大学東山寮(旧京都幼稚園)」です。

下の画像は被害地図9の箇所付近にある「京都女子大小松寮(旧京都女子専門学校・第三小松寮)」です。

下の画像は、被害地図11の箇所付近を示しています。

以上です。

馬町空襲については以下のサイトをご覧いただければと思います。

「馬町空襲を語り継ぐ会」http://vinaccia.jp/umamachi/index.html

ところで皆様、お気づきでしょうか?

西陣空襲や馬町空襲において、被爆地には軍事施設がなく、そこは民間人が普通に生活を営んでいた場所だったということを。

当時の米軍は「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」という理由から、無差別に爆撃を行ったとされています。

京都府内では空襲がなかったという印象が強いですが、判明しているだけでも41回の空襲があったとされています。

死者は302名、負傷者は563名にのぼります。

特に被害が大きかった空襲は以下の通りです。

1945年1月16日 馬町空襲 

1945年6月26日 西陣空襲 

1945年7月29日、30日 舞鶴空襲 

また、京都は原爆投下の候補地だったという事実もあります。

陸軍長官ヘンリー・スティムソンが反対した事により、京都での原爆投下が免れました。

当時、ヘンリー・スティムソンは以下のことを記しています。

「大統領の温かい支援を受けて、私は京都をターゲットリストから外しました。
京都は重要な軍事拠点と考えられていましたが、日本の古都であり、日本の芸術と文化の聖地でもありました。
私たちは京都を残さなければならないと判断しました。
広島、長崎を含む4都市(広島・長崎・新潟・小倉)を対象とすることを承認した。」

一説には、京都がヘンリー・スティムソンのハネムーン地であったため、その思い出を大切にしたいという理由から反対したのではないかとも言われています。

しかし、日本人にとっては京都以外の都市も同様に大切な場所であることに変わりはありません。

広島・長崎への原爆投下やその被害については、決して許さず、忘れることはありません。

現在の京都は多くの観光客で賑わい、平和な時を過ごしています。

しかし、この平和な日常は、多くの尊い命の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは忘れてはなりません。

過去の悲劇を胸に刻み、平和の大切さを今後も忘れずに、未来を築いていく責任が私たちにはあります。

先の大戦で尊い命を捧げられた戦没者の御霊に対し、謹んで哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の方々には心よりお悔やみ申し上げます。

放浪うどん人 tati


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