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うどん食べ歩きブログ
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忘れてはいけないこと ー 長崎平和公園にて ー

2016年08月15日 | 戦争遺跡への旅

私のブログは毎月5のつく日が更新日となっています。

ですから、終戦記念日である8月15日とブログ更新日が重なります・・・。

私のブログは食べ歩きの旅をテーマにしていますが、

8月15日だけは「戦争」というものに、ほんの少しでも向き合って行きたいと思います。

今回の記事は、長崎県の平和公園から始まります。

平和公園には、高校の卒業記念旅行で訪ねて以来の訪問です。

随分と久しぶりの訪問になる訳ですが、あの頃と大きく変わったのは、

外国人の姿が多く見られるようになった事です。

ただ、厳かで、凛とはりつめた空気感は、あの頃のままでした。

私は丘の上にある平和祈念像へ、エスカレーターを使って向かいました。

 

エスカレーターを上がった先に泉が見えます。

「平和の泉」です。

 

水を求めて亡くなられた多くの被爆者の魂に、この泉の水は捧げられています。

目の前に石碑があり、石碑には被爆された少女の言葉が刻まれていました。

 

想像を絶する悲惨な状況の中、少女は苦しみに耐え、

必死に生きる努力をされていたと思うと、胸に込み上げるものがあります。

よく頑張られた・・・。

私は石碑に向かって合掌し、静かに祈りました。

 

長崎でも、広島でもそうですが、多くの児童が被爆されています。

1945年8月9日午前11時02分長崎県長崎市に原爆は投下されました。

殆どの児童が学校で勉強している最中での事です。

多くの児童が被爆し、その殆どが父親や母親に、二度と会うことが出来なかったのです。

 

私は空を見上げました。

どんよりと重たそうな雲が浮いていた・・・、その雲は、私の心の中にも浮いていた。

71年前の夏、私はまだ生まれていなかった。

私が生まれた時代は、「戦後」という言葉さえ死語になっていた。

「戦争」を忘れようと、世の大人達は必死に働いていた。

私は・・・何も知らずにいた・・・。

何も知らないでいる自分がとても恥ずかしく思えた・・・。

きのこ雲の下で、多くの子供達が犠牲になっていたのに・・・。

 

1945年8月9日、長崎で被爆して亡くなられた方は7万3千人余。

そのうちの70%が子供、女性、老人だったのです。

 

私は「長崎の鐘」の前に立った。

この鐘は、平和への祈りを込めて鐘の音が鳴るのだろうと私は思った。

でも↓↓こちらの碑文を読むと、そうでは無かった・・・。

 

原爆を、戦争を、絶対に許さない!!という被爆者の思いが、叫びが、この鐘の音だったのです。

被爆者の魂の叫びが、この鐘から世界中へ響き渡っているのです。

 

私はバックからペットボトルを出し、蓋を開け、お花にお水を注ぎました。

 

お花にお水を注いだあと、平和祈念像に向かいました。

そこで「平和祈念像建立のことば」というものを目にしました。

 

この「平和祈念像建立のことば」には裏面があり、

裏面には平和祈念像作者の言葉があります。

 

↓↓作者の言葉

あの悪夢のような戦争

身の毛のよだつ凄絶悲惨

肉親を人の子を

かえり見るさえ堪えがたい眞情

誰が平和を祈らずにいられよう

茲に全世界平和運動の先駆として

此平和祈念像が誕生した

山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美

全長三十二尺除

右手は原爆を示し左は平和を

顔は戦争犠牲者の冥福を祈る

是人種を超越した人間

時に佛時に神

長崎始まって最大の英断と情熱

今や人類最高の希望象徴

 

昭和三十年 春日 北村西望

 

作者の言葉には記載されていませんでしたが、

平和祈念像の横向きの足は、原爆投下直後の長崎を表し、

立てている足は、救った命を表しているそうです。

平和祈念像を前にして、ふと考えてしまいます。

「平和」って何だろう?

実は、江戸時代には「平和」は無かったのです。

いや、明確に言えば「平和」という言葉は無かったのです。

「平和」という言葉は明治時代に生まれた言葉なのです。

それまでは漢語の「和平」が使われていたのですが、

明治時代「peace」という英語が日本に入り、それを日本語で表現するのに、

戦争ありきの「和平」では適していなかった。

そこで「和平」を倒置して「平和」という言葉を造ったのです。

日本人が「平和」を知った歴史はかなり浅いのです。

そして現在、「平和」という言葉が今の日本に当てはまっているのか?

私は当てはまっていないと思います・・・。

自衛隊や、世界に軍隊が存在している限り「平和」は無いのです。

真の平和は自衛隊が無くなり、世界から軍隊が無くなって初めて「平和」になると思っています。

いや、平和になる可能性があると思います。

個人レベルで言うと、

考え方が違うからと言って、生き方が違うからと言って、他人を疎外するような行為が無くならない限り、

決して「平和」は訪れないのです。

「平和」という言葉は虚構なのかもしれません・・・・。

だけど、それでもなお「平和」という言葉を信じたいのです。

だから私は、戦死された方達の言葉に耳を傾けるのです。

戦死された方の言葉の中に、真の平和とは何か?その答えがあるような気がするのです。

原爆と向き合うこと、戦争と向き合うこと、現在の日本人に最も大事なことだと思います。

こちらの平和公園ですが、元々は「長崎刑務所浦上刑務支所」だったのです。

原爆で上の画像のような状態になったのです。

平和公園では多くの外国人を見かけましたが、日本人の姿は殆ど見かけませんでした・・・。

その事が、とてつもなく寂しく思えました・・・。

平和公園をあとにして、すぐ近くにある爆心地公園へ向かいました。

1945年8月9日の空気を、もっと感じたかったのです。

爆心地公園に入ってすぐのところに一対の灯籠を見かけました。

変な場所に建っているな~と思っていたのですが、

元々は、この場所から1.5キロ離れた場所にあったそうです。

聖徳寺というお寺にあった灯籠で、原爆により建物はすべて崩壊したのですが、

この灯籠だけは無傷で残ったそうです。

戦後、原爆の慰霊塔として、お寺が長崎市に寄贈したとのこと。

爆心地公園には、この灯籠以外にも原爆遺構が現存しています。

↓↓こちらの旧浦上天主堂の遺壁がそうです。

この遺壁は旧浦上天主堂の南側にあった壁面です。

原爆が炸裂し、見る影を失った当時の浦上天主堂の写真がありました。

壁面を見上げると、ザベリオと使徒の象が空に向かって何かを祈っているようでした。

また、壁面の下には、どなたかが花束を添えていました。

その花束を見ていると、まだまだ悲しみが続いていて、苦しんでいる人がいる・・・、

そんふうに思えました。

この爆心地公園には「下の川」という川が流れています。

その川のすぐ側に被爆当時の地層が保存されていました。

この地層から原爆により壊された瓦や、熔けたガラス、焼けた土などを見る事が出来ます。

この地層の目の前に川が流れているのですが、原爆が投下された直後、

たくさんの被爆者が水を求めて、この川へ来たそうです。

そして多くの人が力尽きてお亡くなりになりました・・・。

↓↓こちらは爆心地です。

黒御影石で造られた石柱のモニュメントがありますが、この真上で原爆が炸裂したのです。

71年前の8月9日午前11時02分、この石柱の上空で、空が黒に染まり、光が人間を溶かし、

地上は廃墟となったのです。

原爆は怖い、戦争は怖い・・・。

私は常に怯え続けています・・・現在が平和だなんて思っていません。

先にも言ったように、世界中から軍隊が無くならない限り「平和」なんて無いのです。

だから私は怯え続けます・・・。

戦争を知らない、経験をしたことのない私ですが、戦争の歴史を学ぶことによって、

戦争への恐怖心が私の心に宿っています。

原爆は怖い、戦争は怖い、この恐怖を、大人は子供たちに伝えて行かなくてならないのです。

人を殺すことは怖い、人に殺されるのは怖い、その恐怖を、真向から子供に伝えなければならないのです。

なぜ怖いのか? なぜ命は大切なのかを・・・。

これまで子供たちに隠していた戦争の歴史を、恐怖を、あからさまに伝えるべきなのです。

人間の手から武器を手放させる手段は、もうそれしか無いと私は思います・・・。

爆心地公園から浦上天主堂へ向かいました。

原爆により破壊された浦上教会ですが、1959年に再建されました。

この教会の脇に、原爆の傷跡が残っています。

上の画像は旧浦上天主堂の鐘楼です。

原爆により教会は破壊されました。

その時に、この鐘楼は、この位置まで崩れ落ちて来たのです。

原爆遺構として、現在も、被爆した当時のままで保存されています。

爆心地に近かった浦上天主堂は、風速200mに近い爆風と、強い熱線により破壊されました。

爆風の恐ろしさは、ただ風が強いだけではなく、家の瓦や、道端の小石、そしてガラスなどを、

もの凄い勢いで吹き飛ばし、それは銃弾のごとく、人の体に突き刺さったのです。

強い熱線は、人の皮膚を焼き尽くし、内臓にも熱障害を与えました・・・。

熱線による、爆心地付近の地表温度は3000~4000度です。

1500度で鉄が熔ける事を考えると、想像を絶する熱さだったと・・・。

放射線は人の細胞を破壊し、造血機能も破壊し、内臓をボロボロにしました。

熱線や放射線を浴びた殆どの被爆者が、即死あるいは数日後に亡くなられています。

放射線に至っては、現在も尚、被爆された人達を苦しめています。

私は浦上教会の中へ入りました。(教会内の撮影は禁じられています。)

 

 私はカトリック信者ではないですが、ただ祈らずにはいられませんでした。

十字架に向け、私は祈りを捧げました。

戦争によって、二度とこの教会が崩されることのないように・・・。

この日本に、みたび原子爆弾が落とされることのないように・・・。

 

平成28年原爆死没者名簿奉安者数  172,230人 (平成28年7月31日現在)

平成27年8月1日から平成28年7月31日の1年間で、3,487人の尊い命が奪われました・・・。

 

原爆で、戦争でお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 


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