木漏れ日を受けてアカソが懐かしく
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梅雨晴れの午後、高寺山登山道取り上げ峠の杉林の道を歩いて来ました。そしてふと木漏れ日を受けたアカソに遠い日の思いが甦ってきたのです。
昭和19年(1944)の夏休みでしばらくぶりに帰省したとき村の小学校(当時は国民学校といっていました)の子どもたちがこの草を採集して乾燥し学校に持ち寄り集めて供出(無償で国に差し出す)するといううことを聞きました。繊維不足を補うためということでした。
当時は太平洋戦争が末期に近く、狂ったようにおかしなことを国民は強制的にやらされていました。そしてもしそれに反する言動など少しでもあれば特高(特別高等警察)や憲兵に逮捕され非国民ということで秘密裏に拷問虐待されると聞かされていました。
銃後と言われるた当時の村では19歳から30歳台の男子はほとんど軍隊に招集され、村には老人と子どもと女性だけが残っていました。当然労働力は極端に不足していました。そんな状態のなかで松根油(しょうこんゆ)掘りという今考えると馬鹿らしい意味のない作業が村の人たちに強制されていました。
山の古い松の根を掘り起こし粘土で作った竈で焼いて採れるほんの少しの黒い油を集めて零戦の燃料にするというのです。こんなことして戦争に勝てる筈などないなどとちょっとでも口になどすれば必ず密告する狂信的愛国者がいて特高に知れ逮捕され拷問虐待されると信じられ村の老いた人たち黙々と松の根掘りをしていました。
また連合軍の上陸による本土決戦などと言うことが予想され家庭に残されているおばさんたち(若い娘達はみな軍需工場などで働いていました)は竹槍で敵と戦う訓練を「やあ~っ」とおかしなかなきり声を上げながらみんなでやらされていました。おばさん達の竹槍で自動小銃や強力な火炎放射機や戦車を持つアメリカ軍と戦うと言うんですからほんとに馬鹿らしいことでした。
私はアカソの採集供出はたぶんそれに類するばかげた行為だと心密かに思ってはいました。だってアカソの茎の皮にそんな立派な繊維があろうなどとは思えなかったからです。
18歳の私達は昭和20年(1945)1月学徒動員と言うことで横浜の軍需工場に召集派遣されました。そのとき渡された作業服は薄くごわごわした生地で作られていました。私はそのとき「ああこれはあの小学校の子どもたちが採集したアカソの繊維で作った作業服だ」と思いました。当時「なんきんぶくろ」と言われたゴミなどを詰める粗い繊維で作られた袋の生地に似ていたからです。私達はその緑色の作業服を着て昼夜二交代の苦しく厳しい軍需工場で3ヶ月間の労働に耐えていました。仕事は零戦に乗せる20mm機関砲を作る流れ作業でした。はじめて見る旋盤とかフライス盤とかの工作機械を使って仕事をするのです。
そんなことで杉林の木漏れ日を受けているアカソを見るとあの地獄のように苦しかった軍需工場での生活の思いが甦って来るのです。
着替えの下着など少ない私達は寄宿舎に暮らしながら全員がシラミという人間の血を吸って生きている白い小さな虫にとりつかれていました。全員が整列して訓示など受けてるとき前の人の襟を見ているとそのシラミが襟から出入りして這い回っているんです。もちろん自分の背中でももぞもぞシラミが動いているのが分かります。かゆいんです、でも体を動かせば怒鳴りつけられ悪くするとびんたで殴り倒されるんです。
私達は、休憩時、そして寄宿舎の帰るとすぐに下着をぬいでシラミを見つけつぶしました。でも下着の継ぎ目にはびっしりとはシラミの卵が産み付けられておりとってもとっても絶えることはなかったのです。
食事はと言えば、アルマイトの食器に軽く盛られた赤い色のご飯に澄んだ具の少ない味噌汁とわずかのおかずでした。私達は最初食堂で出されたその赤いご飯を見てさすが軍需工場、私達の入所を祝って赤飯を炊いてくれたんだと喜びました。ところがそれは米ではなくてこうりゃん(満州と言われた中国で採れたきびのようなもの)の飯でした。ほんとうにまずい食事でしたけど空腹ですから食べるしかありませんでした。毎日が空腹に耐えている生活でした。
あるとき5人の同室の友人達が車座になって話し合っていました。そのときたれかのポケットから一粒の炒り豆がころげおちました。家を出るとき貰った大豆の炒り豆が一粒上着のどこかに残っていて偶然に転げ落ちたんでしょうね。5人の目はぎらぎらと光ってその一粒の大豆の一点に集中してしまいました。異様な緊張でした。たれもがその豆をとって食べたいのです。でもしっかり者の誰かの発案でじゃんけんで勝ち残ったものがその豆を食べることになって一件は平和に落着したのです。
工場の雰囲気は表面は勝たなければならぬ「撃ちてし止まん」と国を思う工員や学徒達ががんばって働いているように見えましたが、内実はよどんで退廃的でした。
昼夜二交代の作業はつらく暖房などない工場の中は厳しい寒さでした。そのとき軍隊に招集されないで残っていた熟年の工員さん達はどこからか貴重な工作機械用の潤滑油を持ってきてバケツに拾ってきた木片をいれそれに油をそそいで火をつけて休憩時に暖をとりました。もちろん学徒達も喜んで火の周りに集まりました。しかしその油も切れてやがて暖房なしの厳しい寒さになりました。
零戦の機銃には弾丸を詰める弾倉がありました。その中には弾丸を押し出す金属のバネがありました。それがどこからか持ち出されて切り取られて密かに包丁などに加工されてることはみんなが知ってるいる秘密でした。決して密告などはなくて公然の秘密でした。もちろん学徒達も飛行機の部品のジュラルミンの板を見つけスプーンなどに加工して喜んでいました。
だいたい零戦の20mm機関砲などの精密なものがなんの基本的な訓練もしてない学徒に作れる筈もありません、私達が工場の入る前は月産300丁と言われていた生産は私達が工場を去るときは弾丸の出る機銃は月産数丁と言われていました。材料の払底も原因だったんでしょうけども。そんな軍事の機密事項も秘やかにささやかれ私達は知っていました。
私達の働いていた軍需工場は横浜磯子区と言われる海沿いの山手にありました。3月に入ると毎晩のようにB29とよばれるアメリカ軍の爆撃機が何十機も梯団を組んで富士山を目指してやってきて方向転換し私達の頭上を通って首都や横浜方面の爆撃に向かっていました。小さな山ひとつ越えた向かいの海岸には「追浜」と言われる海軍の軍事基地があってそこからの探照灯で照らし出されたB29の編隊は美しくさえありました。打ち出される高射砲弾はあらぬ方向で弾幕を張って炸裂しB29にはなんの被害もありませんでした。ただ恐ろしいのはその高射砲弾の破片が激しい音を立てて夕立のように落下することでした。私達は山の中腹に掘られた工場移転用に掘られたトンネルに避難して首都や横浜市が爆撃で焼かれ空が真っ赤になっていくのを眺めていました。3月になった頃はもう私達は正常な心は失っていました。
私などは18歳でしたけど、19歳になると軍隊に招集されることになっていました。毎日1度は全員が整列して「海ゆかば水つく屍(かばね)山ゆかば草むすかばね大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ(かえりみはせじ)」と歌わされていました。つまり大君のために戦争にいって死んでも悔いはありませんという歌なんです。
18歳の私は夜床に入ると毎晩のように「死ってなんなんだろう、死ねばどうなるんだろう、あと1年後か2年後は戦いに行って死ななければならない」と狂うような怖い思いに苦しんでいました。海軍に入れば海軍精神注入棒という棍棒で尻を殴られる、陸軍に入れば内務班という所で新兵は皮のスリッパで殴られて上官の命令には絶対服従する兵士にされるとも聞いていました。18歳の未来には恐怖と真っ暗な死しか見えない人生でした。
それに激しい空腹、寒さ、シラミ、厳しい二交代の労働で疲れ果て正常な精神はなくなっていました。呆然となんの感懐もなく、いや美しいとさえ思って首都や横浜市の燃える赤い空をぼんやりと眺めていました。何万人もの人たちがあの炎の中で焼け死んでいることなどに思いは全くいたらなかったのです。私の心は生きているのに死んでいたのです。
そう言う厳しい3ヶ月間の軍需工場の生活の中で私には強烈な3人の方への思いでがあるんです。
そのお一人は工場の技手(ぎてとよばれていました)と言われる現場の指導運営の責任者の方でした。とても心の優しい方でした。私に与えられた工作機械は古いもので扱いが難しくその上不器用な私です。いつも大事な製品にオシャカ(不良品)を出していましたけど技手の方はいつも優しくそれを受け入れ親切に指導して下さいました今でもその方のことを思うと心温まり懐かしくなるんです。戦時の厳しい時代でしたオシャカなど出したら厳しい叱責が待っているのが普通だったんです。私は一度も技手さんには叱られたことはありませんでした。
あるとき私達の戦意を高めるために陸軍から若い中尉の方がお出でになって日本の現状は非常に厳しい状況になっている。若い学徒はしっかりと国のため郷土のため愛する家族のためにしっかりと戦わなければならないと檄を飛ばされました。わたしもそれなりに感動して聞いていました。話が終わって緊張が解けほっとして中尉の方が壇を降りられたとき昨晩の疲れでうっかりとあくびを口の中でかみしめてしまったのです。誰にも気づかない小さな所作でしたけど中尉の方はそれを見逃しませんでした。全員の学徒がまだ整列している前で私は呼び出されげんこつで激しく顔を殴打されました。殴打されてるうちに私は気を失って目を閉じてよろけました。そしたら殴打の嵐は止みました。そっと目を開けるとまた殴打の嵐がやって来ました。私は失神した振りをして目を閉じてよろけました。中尉は殴打をやめて去っていきました。私の口の中が切れて血でいっぱいになっていました。はき出した血で真っ赤になった石を拾い私はポケットにいれ大事に持ち続けましたこの悔しさと怒りは生涯わすれないぞと思ったからです。
でも、今の私にはその中尉さんの心がよく理解出来ます。国の厳しい現状をうれいて若者にしっかりと国のために尽くす心を持って欲しいと真剣に誠意をもって呼びかけられたのです。私もその中尉の訓示にそれなりの感動をして聞いていましたから。その誠意をあくびで踏みにじられた怒りで当時の若い将校が殴らないではいられなかった気持ちはよく理解出来ます。今の私はその若い中尉さんの真剣な態度に今はむしろ敬意さえ感じております。
当時の私は全く異常でした。心の弱い私でした。当時の世相に反逆する心の持ち主の不良学徒でした。あるとき私は風邪を引いて発熱し工場を休んで独り寄宿舎で寝ておりました。少し熱が下がっていくらか元気がでた時とんでもない不逞の心を起こしたのです。 どうせ一二年のうちに死なねばならぬなら今のうちに近くの鎌倉そして新田義貞が剣を海に投じて海の水を引かせたという七里が浜それに江ノ島を見ておこうと電車に乗って出かけたのです。でもそれはたいへんな暴挙でした。今思うと本当に恐ろしくなります。もしその行為が発見されれば非国民として特高警察か憲兵に逮捕され厳しい拷問を受けた上に当然に学校は退学になり軍隊に志願させられて不良学徒として厳しい訓練を受けて死地に追いやられる行為だったのです。
私は昼食もとれませんでしたから本当に空腹ではありましたけど久方ぶりの自由を美しい江ノ島で楽しんでいました。所がなんと私が尊敬している先生とばったりとお会いしてしまったのです。その先生は私達が学徒動員で軍需工場に行くことになった前の数時間の講義で江戸文学の井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉について熱意を持って教えて下さった先生です。私は与えられた工場の制服を着ていましたから当然自分の学校の生徒が仕事を怠けて江ノ島くんだりで楽しんでいることを気づかれたと思うんです。でも先生はさりげなく私とすれ違うことをさけて別な道にいかれました。
寮に帰った私はいつ私の不逞な不良行為がばれて呼び出しか来るかと畏れおののいておりました。でも呼び出しはありませんでした。先生は私の不良行為を知っていてそれを絶対の秘密にしていて下さったのです。私はそれ以後模範学徒としてこの工場を去るときまで立派に勤めました。もしあのとき私を不良学徒として取り上げられれば今の私はなかったと思うのです。私は助けて頂いた心の深く大きい先生に感謝しないではいられません。
山の道でふと目にしたアカソから18歳の遠い昔の思いが甦りました。あの頃は本当に苦しく精神的にも悩みの多い時代でしたけど本当ははすばらしい方に恵まれていたんだと今はしみじみ思うのです。その中でもこの三人の方の思い出はつい昨日のことのように甦るのです。つい夢中で自分の心にあった駄文を夢中で書いてしまいました。馬鹿な私をさらけ出してしまいました。本当にお恥ずかしいです、ご免なさい。