朝青龍、引退…!ショック過ぎる…
もう横綱の相撲が見れないと思うと、寂しい。大相撲を観る大きな楽しみが一つ無くなってしまった。朝青龍vs白鵬の相撲をもっと見たかった。感情をむき出しにする態度は、僕は好きだった。
体力が落ちて、全力を出しつくしても優勝争いができなくなるまで相撲をとって欲しかった。太陽が沈むところまでを含めたドラマを見たかった、という感じがしている。
よく「世間を騒がせた」ことを謝る、という場面があるが、勝手に騒いだのは世間なのだ。ビジネスになるから騒ぐのであり、娯楽になるからそれに便乗するのだ。ただ「和を乱したこと」を謝るのではなく、具体的に何がいけなかったのか、をはっきりさせる必要があると思う。芯になるのは何なのか、それに付随するあいまいなものを取り払って見ないといけないと思う。
イメージが先行し過ぎることがある。人は少ない情報をもとにして、自分がそう思いたいようにイメージを作り上げる。たくさんある情報の中から自分の好みに合うものだけを摘まんでイメージを作ることもある。僕のように朝青龍と彼の相撲が好きな人も、嫌いな人も、ほぼ関心がない人も。
一人の人の人生の大きな転換点も、周囲のほとんどの人にとってはニュースの一つに過ぎず、娯楽の一つに過ぎないのかもしれない。
朝青龍が相撲以外でワイドショーのネタとしてテレビに登場する時、テキトーな批判を繰り返す人達を見て憤りを覚えたことがあった。「あんたは相撲をとっている朝青龍を毎場所見ているのか?」「そうやって手厳しく批判したことを明日覚えているか?」「品格を語るあんたは何様なのか?」「日頃のストレスを発散させるネタとして見てるだけだろう」と。人の人生がかかってるようなことに軽々しくワイワイ(それも一時だけ)騒ぐな、と言いたかった。(意見を言う人の中には相撲界に詳しくて相撲を誰よりも愛しているっていう人もたくさんいるんだろうけど)
でも、考えてみると自分が「朝青龍の相撲を観る」という行為も娯楽なのだ。見たい時は見るし、見たくない時は見ない。自分もワイドショー見て好き勝手言う人と同じなんじゃないかと思えてきた。力士という職業はテレビに映ることを生業としている以上、批判されたり騒がれたりするのもしょうがないのかもしれないとも、思える。
今回「朝青龍は引退して当然だった」と思った人の中で、普段相撲を観ているがどれだけいるんだろうか…? という思いがムズムズしてしょうがない。深く考えることなく「当然」と思い、しばらくすればコロッと忘れてるんじゃないだろうか。もしそうだったら、いくらテレビに出てくる大勢の中の一人に過ぎないとしても、一人の人間の一大決心に対してあまりにも薄情ではないだろうか。
たくさんの人の意識の中で「相撲」が、ステレオタイプな品格や伝統という殻だけの、実のない存在になってしまっているじゃないかと思えてならない。
大阪場所、久しぶりに見に行こうと思ってたのに…(泣
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