2週間ほど前に、スタッフのノリチャンから一冊の本を手渡されました。
「読んでみませんか?」
タイトルは、『日本の深層~縄文・蝦夷文化を探る』
ボクは、勉強が苦手で、学生時代はほとんどの教科を一夜漬けでしのいできました。
記憶力はよかったようで、それなりの成績はとっていたのですが・・・・・身についていない。
40歳を過ぎたころから、その知識の無さに直面し、50の声を聴く頃になってやたら本を読みだしたというわけです。
ファンタジーや児童文学には、オトナの知恵がちりばめられています。
ボクの後半の人生は、こういった子どもの頃に本来触れておいた方がよい物語によって支えられているのです。
最近はあまり専門書は読んでいませんでした。
梅原猛と言う、日本を代表する哲学者、思想家の本も読んだ事はありませんでした。
でも、この本に出会ったのです。
内容ももちろんですが、
「自身の思想や過去や未来を洞察することの無益と益を知り、そのことを踏まえたうえで確信をもって人に伝えていく」
というその態度に感銘を受けました。
そして、またまたボクは日和見的に思うのです。
あ~哲学もいいなぁ・・・・と。
さて、本題です。
この本の主題は、「日本人とは?」
そもそも日本人の起源を探していくと、学術的的には、弥生人を祖としているようなのですが、この著作では、縄文人がその祖であることを言いきっているのです。
ボクにとっては、弥生だろうが、縄文だろうが大した違いはなかったのですが、実はこれが大違いなのです。
東北を「文明の果つるところ」と称されてきた事に、異論を呈し縄文の豊かな文化や生き方を称賛しているのです。
かつて蝦夷地と呼ばれ、その蝦夷はアイヌと同一視されていた。
アイヌは「日本人にあらず」と言う考え方は、民俗学者の柳田國男や言語学者金田一京介によって広められたようなのですが、これを大胆な仮説と共に論破していくのです。
「・・・・・私の東北論は、そのような価値基準を逆転させる意味をもっている。日本には古くから縄文文化というものが栄えていた。縄文文化は世界で最も古い土器をもつ狩猟採集文化である。この日本列島に世界的にみてまったく珍しい高度に発達した狩猟採集文化が栄えた。そして、その文明の中心地が東北である。縄文文化において東日本の人口は日本の人口の十分の九を占めた。5千年から4千年前の縄文中期、3千年から2千年前の縄文晩期、この時代の東北文化は素晴らしい。何千年もの間、東北は日本の文化的中心地であった。・・・・」
これを読むと、神々の事、天と地の事、人間として表現する事、自然との関わり方・・・・ボクの興味は一気に膨れ上がってきます。
今まで、なんとなく受け入れてきたことが、実は縄文の生き方に照らし合わせてみるとしっくりくることが、後から後から見えてくるのです。
そして、弥生の農耕文化はあっという間に日本に広まったようですが、その弥生文化の根底に縄文の思想や生き方をもっているのが東北の地と言うことなのです。
全世界の先住民族と同じように、大自然を尊び、畏れ、自らを自然の一員であることを自覚しながら生きていた。
蝦夷やアイヌの民が、ボクたちの血に流れているのであれば、この大震災によってボクたちの間違いを正し、古い知恵をよりどころに、新しい生き方を探していくときなのかもしれません。
その源になりうるのが、東北のチカラそのものであることを示されているような気がしてなりません。
「読んでみませんか?」
タイトルは、『日本の深層~縄文・蝦夷文化を探る』
ボクは、勉強が苦手で、学生時代はほとんどの教科を一夜漬けでしのいできました。
記憶力はよかったようで、それなりの成績はとっていたのですが・・・・・身についていない。
40歳を過ぎたころから、その知識の無さに直面し、50の声を聴く頃になってやたら本を読みだしたというわけです。
ファンタジーや児童文学には、オトナの知恵がちりばめられています。
ボクの後半の人生は、こういった子どもの頃に本来触れておいた方がよい物語によって支えられているのです。
最近はあまり専門書は読んでいませんでした。
梅原猛と言う、日本を代表する哲学者、思想家の本も読んだ事はありませんでした。
でも、この本に出会ったのです。
内容ももちろんですが、
「自身の思想や過去や未来を洞察することの無益と益を知り、そのことを踏まえたうえで確信をもって人に伝えていく」
というその態度に感銘を受けました。
そして、またまたボクは日和見的に思うのです。
あ~哲学もいいなぁ・・・・と。
さて、本題です。
この本の主題は、「日本人とは?」
そもそも日本人の起源を探していくと、学術的的には、弥生人を祖としているようなのですが、この著作では、縄文人がその祖であることを言いきっているのです。
ボクにとっては、弥生だろうが、縄文だろうが大した違いはなかったのですが、実はこれが大違いなのです。
東北を「文明の果つるところ」と称されてきた事に、異論を呈し縄文の豊かな文化や生き方を称賛しているのです。
かつて蝦夷地と呼ばれ、その蝦夷はアイヌと同一視されていた。
アイヌは「日本人にあらず」と言う考え方は、民俗学者の柳田國男や言語学者金田一京介によって広められたようなのですが、これを大胆な仮説と共に論破していくのです。
「・・・・・私の東北論は、そのような価値基準を逆転させる意味をもっている。日本には古くから縄文文化というものが栄えていた。縄文文化は世界で最も古い土器をもつ狩猟採集文化である。この日本列島に世界的にみてまったく珍しい高度に発達した狩猟採集文化が栄えた。そして、その文明の中心地が東北である。縄文文化において東日本の人口は日本の人口の十分の九を占めた。5千年から4千年前の縄文中期、3千年から2千年前の縄文晩期、この時代の東北文化は素晴らしい。何千年もの間、東北は日本の文化的中心地であった。・・・・」
これを読むと、神々の事、天と地の事、人間として表現する事、自然との関わり方・・・・ボクの興味は一気に膨れ上がってきます。
今まで、なんとなく受け入れてきたことが、実は縄文の生き方に照らし合わせてみるとしっくりくることが、後から後から見えてくるのです。
そして、弥生の農耕文化はあっという間に日本に広まったようですが、その弥生文化の根底に縄文の思想や生き方をもっているのが東北の地と言うことなのです。
全世界の先住民族と同じように、大自然を尊び、畏れ、自らを自然の一員であることを自覚しながら生きていた。
蝦夷やアイヌの民が、ボクたちの血に流れているのであれば、この大震災によってボクたちの間違いを正し、古い知恵をよりどころに、新しい生き方を探していくときなのかもしれません。
その源になりうるのが、東北のチカラそのものであることを示されているような気がしてなりません。
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