繁浩太郎の自動車と世の中ブログ(新)

モータージャーナリストとブランドコンサルタントの両方の眼で、自動車と社会をしっかりと見ていきます。

ゴーン後の日産自動車がやるべきこと

2018-11-26 11:07:38 | 日記

今報道では、ゴーンさんは容疑者と呼ばれる。ここでは「ゴーンさん」と書かせてもらう。

言うまでもなく、瀕死の日産を事業的に救ったのは、ルノーでありその株主のフランス政府で、その中心人物がゴーンさんだった。

勿論、当事者の日産の役員から従業員までも「日産ブランド」を守り発展させるために頑張って、事業性は回復した。

 

この日産が瀕死に陥ってしまった理由を当時は色々と言われたが、その理由を解決して立て直すというやり方ではなく、ゴーン流のやり方で日産は業績回復し、今に至っている。

 

私は、ここでまず、なぜ日産は20年ほど前に瀕死の状態になって、助けてもらえる先を探さねばならないような状況に陥ったのか?を考えたい。

このことから考えないと、今回の解決の道は間違ったものになるのではないか、あるいは以前と同じなのではないか、という心配がのこる。

もっというと、「また、元に戻るだけ」と思うのだ。

 

高度成長期には、トヨタと日産は両巨塔のように言われて、マツダやダイハツ、スバル、三菱、さらに私の在籍したホンダが続いていた。

 

当時、これらの企業は当然それぞれ経営理念はそれなりのものがあったとは思うが、商品創りに理念を強くもっていたのはホンダとトヨタだったと思う。

 

私は団塊の世代の少し下だが、世代的に高度成長期、モータリゼーションの中で、若い頃を過ごした。

あの頃の車はハッキリ言って、発売すればそれだけで高い確率でユーザーに受け入れてもらえた。

つまり、世の中の勢いもあってカーメーカーにマーケティングなんて必要なく、「こういうのが良いだろう」という創り手の思い込みで商品が作られた。

クルマだけでなく、他の商品もだいたい同様だったと思う。

 

そんな中で、当初、日産は技術は勿論、販売においてもトヨタを凌駕していた。

それが入れ替わったキッカケはピニファリーナデザインの「尻下がりブルーバード」だった。

63年9月に発売開始された二代目ブルーバードだ。

64年9月に発売開始された三代目コロナは「アローライン」と当時呼ばれ、スッキリとしながらリッチ感、頑丈さも表現されたデザインで、当時日本の高速道路時代の幕開けや高度成長期にふさわしいデザインになっていた。

ブルーバードはその「尻下がりデザイン」がユーザーに受けず苦戦した。

 

日本にいる日本の空気感(時代感覚)をもった創り手が造ったコロナと、まだまだクルマの先進国のヨーロッパのピニンファリーナにデザインを依頼して造ったブルーバードとの違いが出たと思える。

しかし、同時期にミケロッティのデザインのコンテッサ1300は日本人からしてもハイカラで綺麗なさすがヨーロッパのデザイナーと思わせるデザインで発売されている。

しかし、水冷RRリヤヘビーによる操安の問題などもあったせいか販売量は少なかった。

 

日産がヨーロッパのデザイナーにお願いするのもわかる。

しかし、モノ造り企業なら普通は自分達で造りたいものだ。他人に頼んで造ってもらうなんて・・・。

結果は(ニュートン力学のごとく自然な結果として)、トヨタの日本のユーザーに向き合って、想いをこめたデザインがより受け入れられた。

 

この、ブルーバード/コロナ以降、日産は継続的に国内販売二位の位置づけになり、誰の眼にもセカンドメーカーになってしまった。

トヨタは「販売のトヨタ」と言われるくらい、その後の数々のモデルを売りまくった。

その間、日産はプリンスと合併している。

私の中の記憶のプリンスは二代目グロリアやスカイラインの印象が強くオシャレ感のあるパッとしている特徴的なデザインというイメージだった。ハードも良かったが、日産に吸収されたというか良いものが無いことになってしまった。

 

その後、日産はマーケット提案型の「ローレル」を発売している。

(元々、プリンスの企画という話を聞いたこともある。)

トヨタは、これを見て「マーク2」を出して、実販売は「マーク2」の方が多く販売された。

この頃から、トヨタは王道戦略で「マーケット開拓」しなくても、後追いで「抜ける」「抜く」という戦略だったように思う。  (少し前の、ホンダストリームに対するウイッシュも。)

 

しかし、その後の「510ブルーバード」は、誰もが欲しくなる、また世界に通用する素晴らしいデザインで、普遍的な良いデザインといえた。

私には「突然変異」と思えた。

その後、ブルーバードはまた混迷のデザインが続き510をコピーした(セルフカバー?)「910ブルーバード」はヒットする。

このことからしても、日産はわかっていて510を開発したのではなく、やはり「突然変異」だったのではと思う。

 

考えてみると日産には世の中に受け入れられる、つまりヒットするクルマを作れる体質が元々なかったのではないかと思える。

多分、企業理念、企業風土として「お客様の喜ぶクルマ創り」がなかったのでは無いか。

ヒットというか販売台数を目指すクルマ創りだったのではないか。

モノ造りの原点というか目指すのは「お客さんの喜び」だと強く思う。

収益、事業性は結果だ。

ここのところが、日産はかなり早い時期から考え方が違ったように思う。

 

一方でトヨタは、「販売のトヨタ」と言われるくらい、ユーザーに「売る」「買ってもらう」という意識が強かったように思う。

それだけに、ユーザーの普段使わない領域の性能などは、控えめにしてユーザーの為になるコストを下げ提供してきたと思う。

事実、DOHCエンジンにしても、トヨタには当初2バルブのモノがあった。エンジン性能を追求したい技術者にとってDOHCエンジンで2バルブなんてありえないが、多くのユーザーは乗って運転してそんなに回転をあげないので、わからないということを知っていて、その分コストを下げながら同じDOHCとして売りやすくしたのだ。

高速性能についてもそうだった。当時のトヨタのクルマはせいぜい120km/h位まではよく走るが、速度違反領域では走りに伸びがなくなると言われていた。

 

これと正反対なのが、「技術立国?」のホンダだ。

性能は極限まで追求する。

ユーザーにわかろうがわかるまいが、技術者がわかることはやりきる。

V-TECと名付けた高速域と低速域のバルブタイミングを変えられるエンジンでは、幅広い回転域でトルクが得られるが、これは多くのユーザーでは使わない領域までやりきるという精神?のたまもので、性能だけでなく、

結果的に世界で技術のブランドも作った。

 

ホンダは、本田宗一郎というカリスマ天才技術者とその天才の能力を発揮させながら商品企画から企業経営までを担った藤沢武夫の両輪で大企業になった会社だ。

そこには、しっかりとしたモノ造りの理念があった。

これはホンダイズムといわれる。

(最近のホンダイズムは???だが・・・)

 

日産の話に戻ると、ゴーンさんは事業的に日産を助けたが、メーカー体質の根本である「モノ造りの姿勢」までは手をつけなかったのではないかと思う。

その後の商品をみればわかる。

 

はやまったEV戦略、行き過ぎたCM、NO1がなかった商品(最近はノートなどが販売台数NO.1)、そのブランド戦略も御本尊のない表層的なものにみえる・・・。

 

商品開発、モノ造りの理念が定まっていないようだ。

「なんで、なぜ、日産自動車はクルマを作るのか?」

この簡単な問の答えが、ユーザーに伝わらないモノ造り企業は辛いと思う。

 

今回のクーデターと言われる騒動は、日産側の様々な思いの結果と思うが、ホントに先まで考えられているのか?

私には、疑問だ。

ゴーン体制以前から、モノ造り企業経営を事業性だけで見てきた日産はホントに、この後メーカーとしてやっていけるのか?

日産の中に人材はいるのか? 人材はいても、出てこれない気がする。

「モノ造り企業経営」を実践してほしい。

若い頃、日産のクルマで成長させてもらった私からの願いだ。

 

追記、

ルノーのクルマは日本であまり評価もされず評判にもならないが、そのしなやかな走りは、世界一と私は思う。

ルノーはクルマというものを知っている。

このルノーと日産はホントに事業的なつながりだけだったのだとつくづく思うと、残念だ。


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