(上の写真は中居屋重兵衛・妻のみや子の墓)
今年の3月中旬、万座温泉に群馬の旧友と宿泊した。その途中で、旧友に上州中居村(現群馬県嬬恋村)出身の中居屋重兵衛のお墓に案内された。中居屋重兵衛は幕末、佐久間象山等多くの志士との交流があったことが知られている。
中居屋重兵衛は幕末の横浜開港時、外国と生糸等の販売で大成功し、当時、越後屋(三井屋)と並ぶ豪商となった。その後、大老井伊直弼暗殺、桜田門外の変の際、水戸藩士に拳銃を手渡したと言われている人物である。
中居屋重兵衛(幼名 黒岩撰之助)は謎が多い人物である。横浜で生糸で大儲けしたのち、幕府の禁制を犯した罪で江戸を逃れ、その後、謎の死を遂げている。謎が多いのは本家、黒岩家の資料が火災によりほとんど消失したためである。
群馬出身の評論家松本健一氏は中居屋重兵衛関連資料である小林茂信著「中居屋重兵衛とらい」を問題視して「真贋 中居屋重兵衛のまぼろし」を出版した。この本で松本氏は中居屋重兵衛の資料である中山文庫の偽作を主張した。そのため、さらに中居屋重兵衛は謎の多い人物とされた。
しかし、幕末に江戸日本橋の商人から横浜開港で豪商となった事実は変わりはない。また開国時の風雲児の商人であることには間違いはない。外国との商売で儲けた商人が開国した幕府に逆らい、なぜ尊王側の水戸藩を支援したのだろうか?
それは中居屋重兵衛が冒険的商人、後発の商人であったためであろう。田中角栄の商社・丸紅によるロッキード社に対するピーナッツ汚職を思い出す。丸紅など後発の商社はある程度、危険な商売をしなくては、三井、住友など先発大手の商社に追いつくことはできない。
幕末においても、越後屋は尊王攘夷の浪士から店頭に「天誅」の張り紙がされていた。中居屋重兵衛はそのリスク分散の意味もあって、水戸藩側を支援したと考えることはできないだろうか?
支援した水戸藩士による暗殺事件は成功した。しかし、反対に生糸取引による禁制を犯した罪で追われる身になった。最後は江戸に戻るも病死とも獄死とも言われる謎の死を遂げたのである。
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