NHKドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰が話題となっている。この松陰が江戸伝馬町獄舎に入牢したとき、一緒になったのが牢名主の沼崎吉五郎である。吉五郎は、松陰最後の指導書「留魂録」を門下生へ送付を牢内で託された人物である。「留魂録」とは、冒頭に、有名な松陰の辞世の句 「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし 大和魂」が記載された松陰最後の指導書である。
松陰は入牢の際、牢名主に贈る金銭(一両)の差し入れを、当時江戸にいた高杉晋作、飯田正伯に依頼している。松陰はこの牢名主吉五郎にかなり世話になっていたようである。吉五郎もまた松陰の人格とその識見に信服して、松陰の教えを受けるようになっていた。
吉五郎は、もともとは福島藩士能勢粂次郎の家来である。その後、江戸に出て、旗本の家来になった。しかしながら殺人の罪で伝馬町入牢となった武士である。一方、吉田松陰は幕府老中である間部詮勝の暗殺を計画をした疑いで捕えられていた。松陰は取り調べのなかで自分の処刑が近いこと覚悟し、処刑前日までにこの「留魂録」を書き上げた。安政6年(1959年)10月27日、伝馬町刑場において首斬り朝右衛門によって処刑された。
一方、沼崎吉五郎は、翌月11月に三宅島配流が決まった。三宅島流人帳には吉五郎について下記のように記載されている。
安政6年未年11月
御小姓組 土屋備前守組 能勢粂次郎家来 禅宗 沼崎吉五郎 27歳(三宅島坪田村割)
婦人殺害の御科
吉五郎は松陰から預かった「留魂録」を肌身離さず持って伝馬町の牢を出て、三宅島に配流された。その後、江戸が東京と改称された明治7年に放免となり、15年ぶり東京の土を踏んだ。その懐にはよれよれとなった「留魂録」がしっかりと抱かれていた。こうして隠し持つことが三宅島流人吉五郎の唯一の生き甲斐だったかもしれない。
吉五郎は三宅島から帰って2年後、当時の神奈川県令で、松陰の門下生である野村靖(野村和作)を訪ねた。野村は思いがけない師の遺言状を目にして驚いた。それはまさしく松陰の筆跡であった。野村はのちに内務大臣、逓信大臣を歴任している。この「留魂録」は野村の手によって、その後、萩市の松陰神社に納められた。吉五郎は野村を訪ねたとき「身の立つように配慮する」と言われ、金2両を手渡されたという。しかし、吉五郎は何も言わず、いずこともなく立ち去り、その後の消息は分かっていない。
その後、野村は吉五郎について「そもそも吉五郎は一無頼の徒のみ。しかれども流刑困窮の間に保持を失わずに先師の委託を全うするを得、誠に至誠人を感ぜしむにあらずや」と誉めている。しかし、15年も大事に肌身離さず保存していた吉五郎にとっては、報奨金2両は余りにも少ない金額ではなかろうか?
松陰は「留魂録」を2部作成しており、もう1部は高杉晋作・久坂玄瑞・久保松太郎三名連名のあて先となっている。処刑の際、父、兄、伯父玉之助あてへの「永訣の書」(親思うこころに勝る親こころ けふの音づれ何ときくらん」の句で有名である。)と一緒に江戸の門下生である飯田正伯に長州送付を託していた。しかし、高杉晋作らの分は門下生間で読み回しているうちにいつの間にかに紛失してしまったと言われている。明治維新の立役者の門下生もいい加減なものである。
吉田松陰は明治になり、維新の功労者、尊王の指導者と、犯罪者から名誉を回復している。しかし実際の松陰は「誠実、真面目ではあるが、オッチョコチョイで、喜怒哀楽が激しく、情にもろい、おせっかいな熱情家でしか過ぎない」のが本当ではないだろうか?松陰の老中暗殺計画も幕府は当初全く知らなかった。しかし松陰は計画が知られていると勘違いし、取調べで自ら全部を自白したのだ。テロリストの慎重さが全くない。門下生久坂玄瑞の妻、文は、戦時中出征兵士の「銃後の妻」と重ね合わせ、美談調の物語として語られた。また松陰自身は殉国教育の実践者と讃えられた。安倍首相が郷土忠君愛国の英雄と言うも考えものである。
参考 2通の「留魂録」 ここをクリック
写真は「留魂録」
松陰は入牢の際、牢名主に贈る金銭(一両)の差し入れを、当時江戸にいた高杉晋作、飯田正伯に依頼している。松陰はこの牢名主吉五郎にかなり世話になっていたようである。吉五郎もまた松陰の人格とその識見に信服して、松陰の教えを受けるようになっていた。
吉五郎は、もともとは福島藩士能勢粂次郎の家来である。その後、江戸に出て、旗本の家来になった。しかしながら殺人の罪で伝馬町入牢となった武士である。一方、吉田松陰は幕府老中である間部詮勝の暗殺を計画をした疑いで捕えられていた。松陰は取り調べのなかで自分の処刑が近いこと覚悟し、処刑前日までにこの「留魂録」を書き上げた。安政6年(1959年)10月27日、伝馬町刑場において首斬り朝右衛門によって処刑された。
一方、沼崎吉五郎は、翌月11月に三宅島配流が決まった。三宅島流人帳には吉五郎について下記のように記載されている。
安政6年未年11月
御小姓組 土屋備前守組 能勢粂次郎家来 禅宗 沼崎吉五郎 27歳(三宅島坪田村割)
婦人殺害の御科
吉五郎は松陰から預かった「留魂録」を肌身離さず持って伝馬町の牢を出て、三宅島に配流された。その後、江戸が東京と改称された明治7年に放免となり、15年ぶり東京の土を踏んだ。その懐にはよれよれとなった「留魂録」がしっかりと抱かれていた。こうして隠し持つことが三宅島流人吉五郎の唯一の生き甲斐だったかもしれない。
吉五郎は三宅島から帰って2年後、当時の神奈川県令で、松陰の門下生である野村靖(野村和作)を訪ねた。野村は思いがけない師の遺言状を目にして驚いた。それはまさしく松陰の筆跡であった。野村はのちに内務大臣、逓信大臣を歴任している。この「留魂録」は野村の手によって、その後、萩市の松陰神社に納められた。吉五郎は野村を訪ねたとき「身の立つように配慮する」と言われ、金2両を手渡されたという。しかし、吉五郎は何も言わず、いずこともなく立ち去り、その後の消息は分かっていない。
その後、野村は吉五郎について「そもそも吉五郎は一無頼の徒のみ。しかれども流刑困窮の間に保持を失わずに先師の委託を全うするを得、誠に至誠人を感ぜしむにあらずや」と誉めている。しかし、15年も大事に肌身離さず保存していた吉五郎にとっては、報奨金2両は余りにも少ない金額ではなかろうか?
松陰は「留魂録」を2部作成しており、もう1部は高杉晋作・久坂玄瑞・久保松太郎三名連名のあて先となっている。処刑の際、父、兄、伯父玉之助あてへの「永訣の書」(親思うこころに勝る親こころ けふの音づれ何ときくらん」の句で有名である。)と一緒に江戸の門下生である飯田正伯に長州送付を託していた。しかし、高杉晋作らの分は門下生間で読み回しているうちにいつの間にかに紛失してしまったと言われている。明治維新の立役者の門下生もいい加減なものである。
吉田松陰は明治になり、維新の功労者、尊王の指導者と、犯罪者から名誉を回復している。しかし実際の松陰は「誠実、真面目ではあるが、オッチョコチョイで、喜怒哀楽が激しく、情にもろい、おせっかいな熱情家でしか過ぎない」のが本当ではないだろうか?松陰の老中暗殺計画も幕府は当初全く知らなかった。しかし松陰は計画が知られていると勘違いし、取調べで自ら全部を自白したのだ。テロリストの慎重さが全くない。門下生久坂玄瑞の妻、文は、戦時中出征兵士の「銃後の妻」と重ね合わせ、美談調の物語として語られた。また松陰自身は殉国教育の実践者と讃えられた。安倍首相が郷土忠君愛国の英雄と言うも考えものである。
参考 2通の「留魂録」 ここをクリック
写真は「留魂録」