兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉

2017年02月03日 | 歴史
吉良仁吉は、村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた「義理と人情に生きた博徒」でもある。

(博徒名) 吉良仁吉  (本名)太田仁吉
(生没年) 天保10年(1839年)~慶応2年(1866年)  享年28歳
      勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死

三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身である。別名「御坊善」の博徒名を持つ父親・太田善兵衛・りきの長男として生まれた。

仁吉は、子供の頃、綿の実買いの手伝いをし、やがて知多郡半田村(現・愛知県半田市)の酢屋に奉公に出る。子供の頃から体格は大きいが、吃音であったらしく、人との付き合いは苦手であった。15歳の頃、半田の奉公先から帰った仁吉は、地元博徒の親分・寺津間之助の子分となる。父親「御坊善」の影響があったと思われる。

仁吉はどのような人物であったのか?
仁吉の姉・板倉いちの二男・倉蔵の証言が残っている。仁吉が死亡した時、僅か10歳だったが、母親・いちに連れられ、仁吉の遺体と対面している。仁吉は幼いころ疱瘡を患い、長じてもその痕が残るあばた顔で、身長6尺(1.8メートル)の大男であったという。

仁吉は、たまたま博徒仲間の争いで喧嘩相手を撲殺した。そのため、寺津間之助の兄弟分である清水次郎長のもとに博徒修行を兼ねて一時逃亡した。その後、安政7年(1860年)ごろ地元に戻った仁吉は、間之助のところで再度修業しながら吉良一家を構える。次に仁吉の名が出るのは、清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵襲撃事件の時である。この時、仁吉は子分3人を連れ、清水一家34人と襲撃に参加している。

仁吉が戦死したのは有名な「荒神山の喧嘩」である。喧嘩の発端は勢州桑名の博徒・穴太徳次郎(別名・安濃徳)が、次郎長・間之助と親しい勢州神戸町(現・三重県鈴鹿市)の博徒・神戸長吉の縄張りを奪ったことによる。縄張りを奪われた神戸長吉は寺津間之助に助けを求めた。当時、間之助は55歳高齢だったため、間之助の代わりに仁吉が助っ人となった。

たまたまそこに寺津間之助宅に厄介になっていた清水一家の大政が居り、長吉を助けようと立ち上がった。その頃、大政は、飯田の「なめくり初五郎」との喧嘩出入りで、相手が逃げ込んだとの理由で百姓の家を焼き払ってしまった。これを次郎長に咎められ、堅気衆に迷惑かけたと次郎長の勘気を被り、寺津一家に一時、難を避けて寄宿していた。

大政は、ここで何かひと働きして、手柄話を持たなければ、清水に帰れないと神戸長吉の助っ人を買って出た。大政一行には、桶屋の鬼吉、大瀬半五郎、法印大五郎、益川仙右エ門らの子分たちが同行していた。

荒神山一帯では、毎年4月上旬に神社、寺院のお祭りが続く。祭りには地元博徒が野天博打の賭場を開催するのが常である。この祭りの時期に清水一家は長吉一家の縄張り奪還抗争を開始する。

船で三河から伊勢に向った清水側部隊は、清水一家の大政以下9名、吉良一家は仁吉以下7名、神戸一家は長吉以下7名、総勢23名である。対する穴太徳側は、穴太徳次郎、角井門之助以下雲風亀吉子分20余名を加えた、総勢40余名である。戦闘参加人数は、穴太側100名以上、長吉側50名余りとの説もあるが、話が大きすぎる。

舞台となった高神山観音寺周辺には標高85メートルの高塚山がある。近くの加佐登神社裏に陣取った長吉側に対し、穴太徳側は高塚山頂上に陣取る。慶応2年4月8日朝、戦いの火蓋が切られた。

穴太徳側は猟師に鉄砲を持たせ、「先ず肥大の者を撃て」と、大政と仁吉を狙い撃ちさせたところ、仁吉が撃たれた。仁吉が木の根元にしゃがみ、槍を肩にかけ苦しんでいると、穴太徳側の角井門之助が仁吉を見つけ斬りかけた。仁吉が槍で防いでいると、そこに仁吉を探していた長吉の子分・久居才次郎が駆けつけ、槍を投げつけ門之助を斬り倒した。敵将門之助を討ち取られた穴太徳側は戦意を失い、総崩れ、逃走した。

重傷を負った仁吉は戸板で山下まで運ばれたが、鈴鹿郡上田村から石薬師に至る途中の畑で絶命した。享年28歳の若さである。この喧嘩で即死した者は、穴太徳側は角井門之助はじめ5人、一方、長吉側の即死者は、仁吉の子分船木幸太郎、清水一家の法印大五郎以下4人という。

但し、法印大五郎即死説は間違いと言われている。「東海遊侠伝」は天田五郎が次郎長から聞いた話を、20年後に記したもの。曖昧な記憶に基づくもので事実と違っても不思議はない。

長吉側の重傷者は、吉良仁吉以外に3名いる。清水一家の大瀬半五郎・清次郎、長吉一家の糸屋市五郎である。軽傷者は、清水一家が保太郎・勝太郎、吉良一家が松坂米太郎・伏見桃太郎・小山田丹蔵、長吉一家が四日市敬次郎・久居才次郎・神戸宇吉の合計9名である。

浪曲では、仁吉の妻は穴太徳の妹「きく」とされ、荒神山へ出かける直前に、仁吉は新妻であるにもかかわらず離縁して決意を固めたとしている。つまり「義理と人情」のため、命を落とす任侠道の世界と美化された由縁である。

しかし、仁吉の姉いちの子である板倉倉蔵は、「仁吉には真の女房というものはなかった」と、後日、語っている。喧嘩のために妻を離縁した話は講談師・神田伯山によるまったくの創作である。だが創作としても義理を通して、若くして逝った吉良仁吉の生き方に、人々の心に通じるものがあったのかもしれない。

仁吉の死後は太田勘蔵が吉良一家の跡目を継いだ。勘蔵は仁吉の従弟に当たり、仁吉より一つ若い。この勘蔵も明治13年2月3日、41歳で死亡した。勘蔵には子供がなく、勘蔵の妻おせんは男を作って出奔した。当時、政府は博徒の取り締まりを強化していたため、吉良一家も衰微、一家は自然消滅した。


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下の写真は吉良仁吉の墓。法名は「釋馨香」。源徳寺(愛知県西尾市吉良町)にある。
清水次郎長建立の説があるが、実際は広沢虎造の浪曲で有名になり、昭和になってから建立された。更に尾崎士郎の「吉良の男」でも有名になった。

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