享保5年(1720年)5月、京都二条城御金蔵から2百両が盗まれた。翌年には、大坂城の御金蔵から金が盗まれた。この2件は番方同心の犯行であった。しかし、厳重警備が予想される江戸城の御金蔵に忍び込む者はいなかった。
御家人崩れ浪人藤岡藤十郎と、野州犬塚村無宿富蔵が、江戸城の奥深く忍び込み、御金蔵から4千両を盗み出す前代未聞の犯行に成功した。時期はペリー来航で幕府が慌てふためいていた安政2年である。
無宿富蔵は以前に盗みを働き、敲き刑の上入れ墨をされていた。富蔵は、その入れ墨を消して、御天守番頭の近藤義八郎の中間奉公をしたのち、御手先組屋敷の木戸番をして、牛込払方町に住んでいた。
一方の藤十郎は、御家人時代に近藤義八郎家の家臣と懇意にしていた時期がある。その頃、富蔵と知り合った。二人は偶然再会すると、富蔵が御金蔵に忍び込ることを提案した。藤十郎は成功するとは思わなかったが、金に困っていたため、これを了承した。
富蔵は、当時、警備が緩み切っていた江戸城へ、お城の矢来門を乗り越え、石垣伝いに都合6回ほど忍び込んだ経験があった。富蔵は、何ケ所の御門の警備状況、警備の交代時間を調べ、御金蔵の錠前の写しを取って帰った。その写しで藤十郎が、合い鍵を作った。更に田安家の下士に金を貸して、田安家の門鑑(通行証)を手に入れた。
計画通りに江戸城に忍び込んだ富蔵が、御金蔵から2千両箱2箱を盗み出すと、縄で吊り降ろし、北詰橋石垣下で待つ藤十郎がこれを受け取った。二人は重さ24~25キロもある2千両箱を、襦袢に包んで担ぎ、明け方に田安門を出た。
4千両(約7億2千万円)は藤十郎宅床下の瓶に入れて埋め、藤十郎は、富蔵の分け前を、生活が派手にならないように小出しに渡し、合計2,265両を分け前分と渡したという。
御金蔵が破られたことを、役人が知ったのは事件から3ケ月後であった。幕府最大の汚点となるため、捜査は極秘裏に進めた。手掛かりは、使用跡のない天保小判、一分金、二分金を持っている者、さらに急に金遣いが荒くなった者である。
町奉行所は、江戸市中の両替商に、盗まれた貨幣の特徴を教え、そのような貨幣を両替に来た者は直ちに報告するように通達した。合い鍵作り職人をリストアップして調査するも、手掛かりはつかめなかった。
藤十郎は、御用商人になる願望があり、御小人株(武家で雑務する者の権利)を買って、御三卿の田安家に入ると、真面目な仕事ぶりから小人目付に抜擢された。1年後には田安家を辞し、信濃屋治兵衛を名乗り、日本橋上槙町に材木店を開いた。甲州から材木を仕入れ、作事方に商売を試みるも、にわか商人に注文はなかった。
事件から2年後、南町奉行所同心、村井傳太夫が使う岡っ引きの陣十郎が、商売をしていない信濃屋治兵衛を怪しみ、調査を開始した。
一方の富蔵は、加賀に逃亡し潜伏していた。金沢で下女にピカピカの小判を与え、下女がその小判を使ったことにより、足が付き、捕縛されていた。
岡っ引き陣十郎の調査から疑いは強まり、同心の村井傳太夫から与力の今泉覚左衛門に報告が上がり、召捕りが決まった。
事件から2年後の安政4年2月、信濃屋に捕り方が踏み込むと治兵衛は抵抗もせず、捕縛された。5月には信濃屋治兵衛こと藤岡藤十郎は、富蔵ともに引き廻しのうえ、小塚原で磔となった。事件の詳細は表沙汰にならなかったが、江戸城御門の役人27名が罰せられたという。
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義賊・鼠小僧次郎吉という人
写真は盗賊たちが千両箱を運び出した江戸城北詰門の石垣である。
御家人崩れ浪人藤岡藤十郎と、野州犬塚村無宿富蔵が、江戸城の奥深く忍び込み、御金蔵から4千両を盗み出す前代未聞の犯行に成功した。時期はペリー来航で幕府が慌てふためいていた安政2年である。
無宿富蔵は以前に盗みを働き、敲き刑の上入れ墨をされていた。富蔵は、その入れ墨を消して、御天守番頭の近藤義八郎の中間奉公をしたのち、御手先組屋敷の木戸番をして、牛込払方町に住んでいた。
一方の藤十郎は、御家人時代に近藤義八郎家の家臣と懇意にしていた時期がある。その頃、富蔵と知り合った。二人は偶然再会すると、富蔵が御金蔵に忍び込ることを提案した。藤十郎は成功するとは思わなかったが、金に困っていたため、これを了承した。
富蔵は、当時、警備が緩み切っていた江戸城へ、お城の矢来門を乗り越え、石垣伝いに都合6回ほど忍び込んだ経験があった。富蔵は、何ケ所の御門の警備状況、警備の交代時間を調べ、御金蔵の錠前の写しを取って帰った。その写しで藤十郎が、合い鍵を作った。更に田安家の下士に金を貸して、田安家の門鑑(通行証)を手に入れた。
計画通りに江戸城に忍び込んだ富蔵が、御金蔵から2千両箱2箱を盗み出すと、縄で吊り降ろし、北詰橋石垣下で待つ藤十郎がこれを受け取った。二人は重さ24~25キロもある2千両箱を、襦袢に包んで担ぎ、明け方に田安門を出た。
4千両(約7億2千万円)は藤十郎宅床下の瓶に入れて埋め、藤十郎は、富蔵の分け前を、生活が派手にならないように小出しに渡し、合計2,265両を分け前分と渡したという。
御金蔵が破られたことを、役人が知ったのは事件から3ケ月後であった。幕府最大の汚点となるため、捜査は極秘裏に進めた。手掛かりは、使用跡のない天保小判、一分金、二分金を持っている者、さらに急に金遣いが荒くなった者である。
町奉行所は、江戸市中の両替商に、盗まれた貨幣の特徴を教え、そのような貨幣を両替に来た者は直ちに報告するように通達した。合い鍵作り職人をリストアップして調査するも、手掛かりはつかめなかった。
藤十郎は、御用商人になる願望があり、御小人株(武家で雑務する者の権利)を買って、御三卿の田安家に入ると、真面目な仕事ぶりから小人目付に抜擢された。1年後には田安家を辞し、信濃屋治兵衛を名乗り、日本橋上槙町に材木店を開いた。甲州から材木を仕入れ、作事方に商売を試みるも、にわか商人に注文はなかった。
事件から2年後、南町奉行所同心、村井傳太夫が使う岡っ引きの陣十郎が、商売をしていない信濃屋治兵衛を怪しみ、調査を開始した。
一方の富蔵は、加賀に逃亡し潜伏していた。金沢で下女にピカピカの小判を与え、下女がその小判を使ったことにより、足が付き、捕縛されていた。
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