兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

コレラ防疫に殉じた明治の巡査夫妻

2019年04月25日 | 歴史
幕末から明治にかけて日本でコレラが大流行した。江戸時代、コレラは3回大流行した。日本でコレラ患者が最初に発生したのは1822年(文政5年)である。

2回目は1858年(安政5年)5月長崎のアメリカ軍艦ミシシッピ号乗務員が感染して、西日本から江戸まで各地で大流行となった。7月、江戸では棺桶製造が間に合わないほどの死者が出た。

3回目は1862年(文久2年)はしかの流行とも重なり2回目以上の死者が出た。明治になっても、1879年(明治12年)と1886年(明治19年)の2回、それぞれ10万人の死亡者が出る大流行となった。

この大流行で、愛知県渥美郡にもコレラ感染者が発生、防疫業務従事して、殉職した若き巡査・江崎邦助がいた。江崎巡査は三重県志摩答志島の出身で、1883年(明治16年)4月、22歳で愛知県警察に採用、3年後、1886年(明治19年)愛知県額田郡桑谷村出身の平岩じうと結婚した。

結婚してすぐに豊橋警察署田原分署(現・田原警察署)に赴任した。当時、警察官巡査の初任給は約6円余り、現在の価値で16万円程度、薄給の代名詞と言われていた。

1886年(明治19年)6月15日、分署管轄内の渥美郡堀切村でコレラ患者が発生した。江崎巡査は直ちに現地に赴いた。防疫対策として速やかな患者の隔離、近隣の消毒作業、住民の健康診断が必要であった。しかし当時、「警察は、コレラ患者を生きたまま棺桶に入れて焼き殺す」との流言があり、住民の抵抗は激しかった。江崎巡査は住民説得に精魂を傾け、やっと住民の理解を得て、防疫作業を完了することができた。

1週間後の6月22日、江崎巡査は分署へ詳細報告のために堀切村を出発した。しかし当日の午前11時頃、渥美郡赤羽根村若見地区に差し掛かったとき、激しい吐き気を起こし、歩行も困難となった。丁度付近にいた人力車(車夫は豊橋市三浦町在籍・大林仁作氏)に乗り、帰署を急いだ。渥美郡加治村にたどり着いた時、苦痛で車上にも乗っていられない状態となった。江崎巡査は県道から60mほど離れた林の中に入り、大林車夫に田原分署と田原役場に急報させた。

午後になって、警察分署員、役場吏員、妻のじうが到着した。午後7時頃、医師・鈴木文孝氏らも到着、診断の結果、真性コレラと判明した。医師たちは田原へ巡査を移送して、治療看護にあたろうとした。江崎巡査は、「自分はとても助かる見込みはありません。田原へ行っても、家屋が密集、すぐ住民に伝染し、大変なことになります。住民も混乱するでしょう。私は民衆保護、公共福祉にあたる警察官です。職務に倒れることは覚悟の上です。」と田原への移送を承知せず、同僚に防疫業務報告書送達を依頼した。

当時付近に人家はなく、人々はやむなく近くの掘立小屋に江崎巡査を運び込み、妻・じうは人々を説得して帰らせた。妻・じうがひとり夫の看病を続けた。しかし翌日23日午後2時、妻の介護の甲斐なく、江崎巡査は不帰の人となった。25歳の若さであった。

さらに翌々日25日、看護の妻・じうもコレラに感染して発症、小屋の中で倒れてしまった。じうも夫の遺志を守り、自宅に帰らず、小屋の中で激しく苦しんだ末、翌日26日午後5時、夫・邦助を追うように19歳の生涯を閉じた。まだ少女の面影が残る若さであった。同年7月24日、蔵王山麓で江崎夫妻の葬儀が神式で営まれ、多くの警察官、住民が参列したという。


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写真は江崎巡査が死亡した小屋近くの江崎邦助巡査夫妻殉職の地(田原市加治稲場地区)に建てられた碑。




写真は蔵王霊園にある江崎邦助・じう夫妻の墓。
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