大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳年長、忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。
父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供のころより、火の玉小僧とあだ名され、身長偉大、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取締出役の道案内をする佐十郎の子分になった。
(博徒名)大前田英五郎 (本名)田島英五郎
(生没年)寛政5年(1793年)~明治7年(1874年) 享年82歳 病死
英五郎が15歳のとき、武州仁手村の清五郎という博徒が父の縄張りで、賭場を開いた。英五郎は、父の子分の栄次とともに清五郎の賭場に出かけて、そこにいた者を、清五郎と人違いして殺してしまった。そのため、英五郎と栄次は、伊豆から尾張名古屋まで逃亡し、尾張付近を転々としていた。
尾張の賭場で、尾張領の庄屋に対して賭場の貸し50両の貸金があった。英五郎と栄次は庄屋に貸金の取り立て、談判に行ったが、その庄屋が目明しをしており、目明しを笠にきて返さない。目明しが一両を包んで出したところ、目明しの妻が「ふだん、賭場の借りは払わないと言って、今回払うのは、臆病ではありませんか」と言って夫を叱りつけた。栄次は怒って、妻を斬った。英五郎はその夫を斬って、そのまま箱根近くまで逃亡した。
尾張藩の探索は急で二人は進退きわまった。この時、尾張藩から江戸屋敷へ送る銀箱が、箱根峠で強盗に奪われた。これを聞いた英五郎は、栄次とともに強盗の所在を探し、この強盗を斬って、名古屋に届けさせた。尾張藩では、前日の罪を免除して、若干の賞を与えた。それ以来、英五郎は犯罪を犯すと、尾張に逃げ込んで捕縛を免れた。
英五郎は賭博の罪で、佐渡の銀山人足に送られたことがある。その時、人足仲間と佐渡の島破りを計画した。櫓、舵もない船で海に漕ぎ出し、両手で水をかき、なんとか対岸にたどりついた。その後、下野国に流浪し、その地で博徒の親分をしており、のちに上州に帰った。
上州に戻った当時、派手に縄張りを拡大していたのが国定忠治である。忠治が中風で動けなくなったと聞いたとき、英五郎は手紙で「中風は不治の病で、医者も薬も益がない。」と暗に自殺を勧めた。しかし、忠治は死ぬ気になれなかったという。
旅から旅へ、半生を他国で送った英五郎は、諸国の博徒を支配下に置き、収入は寺銭よりも、博徒からの上げ銭が主に集まってくるように稼業を営んでいた。現在の「フランチャイズ本部方式」である。明治7年2月、大前田で病没した。享年82歳、博徒としては珍しく、長寿を保った男である。
「あらうれし、行きさきしれぬ死出の旅」
前橋市大胡町雷電山にある大前田英五郎の墓の側面に刻まれた辞世の句である。警吏に追われて、一生を終った博徒の辞世らしい。
戒名は「歓広院徳寿栄翁居士」である。大胡町の墓は子分たちが建てたと言う。
作家・山田風太郎は著書「人間臨終図巻」で大前田英五郎を下記のように記述する。
「若いころ、2,3人たたっ斬ったことはあるものの、生涯の大半、長どすを封印し、大きな喧嘩も、女沙汰もなく、やくざは盆の垢をなめてゆく日陰者だとして大きな肩を縮めて生き、しかも国定忠治、清水次郎長さえも頭を下げた。
上州の大親分・大前田英五郎は75歳になった明治元年、引退して故郷の上州大胡で、鶏を飼い、橋の掃除をしながら、隠居生活を送る。明治7年正月、引いた風邪がもとで、2月16日、「天下の和合人」と呼ばれた大侠客らしく、畳の上で大往生をとげた」と。
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ヒーロー博徒・国定忠治という人
博徒・国定忠治の最期
写真は大前田英五郎の墓。周囲には英五郎の兄の要吉、父母の墓もある。前橋市大前田町の畑の中の墓地にある。こちらの辞世の句は
「安らかにゆくさきしれぬ死出の旅」と少し違っている。しかし戒名は同じである。
父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供のころより、火の玉小僧とあだ名され、身長偉大、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取締出役の道案内をする佐十郎の子分になった。
(博徒名)大前田英五郎 (本名)田島英五郎
(生没年)寛政5年(1793年)~明治7年(1874年) 享年82歳 病死
英五郎が15歳のとき、武州仁手村の清五郎という博徒が父の縄張りで、賭場を開いた。英五郎は、父の子分の栄次とともに清五郎の賭場に出かけて、そこにいた者を、清五郎と人違いして殺してしまった。そのため、英五郎と栄次は、伊豆から尾張名古屋まで逃亡し、尾張付近を転々としていた。
尾張の賭場で、尾張領の庄屋に対して賭場の貸し50両の貸金があった。英五郎と栄次は庄屋に貸金の取り立て、談判に行ったが、その庄屋が目明しをしており、目明しを笠にきて返さない。目明しが一両を包んで出したところ、目明しの妻が「ふだん、賭場の借りは払わないと言って、今回払うのは、臆病ではありませんか」と言って夫を叱りつけた。栄次は怒って、妻を斬った。英五郎はその夫を斬って、そのまま箱根近くまで逃亡した。
尾張藩の探索は急で二人は進退きわまった。この時、尾張藩から江戸屋敷へ送る銀箱が、箱根峠で強盗に奪われた。これを聞いた英五郎は、栄次とともに強盗の所在を探し、この強盗を斬って、名古屋に届けさせた。尾張藩では、前日の罪を免除して、若干の賞を与えた。それ以来、英五郎は犯罪を犯すと、尾張に逃げ込んで捕縛を免れた。
英五郎は賭博の罪で、佐渡の銀山人足に送られたことがある。その時、人足仲間と佐渡の島破りを計画した。櫓、舵もない船で海に漕ぎ出し、両手で水をかき、なんとか対岸にたどりついた。その後、下野国に流浪し、その地で博徒の親分をしており、のちに上州に帰った。
上州に戻った当時、派手に縄張りを拡大していたのが国定忠治である。忠治が中風で動けなくなったと聞いたとき、英五郎は手紙で「中風は不治の病で、医者も薬も益がない。」と暗に自殺を勧めた。しかし、忠治は死ぬ気になれなかったという。
旅から旅へ、半生を他国で送った英五郎は、諸国の博徒を支配下に置き、収入は寺銭よりも、博徒からの上げ銭が主に集まってくるように稼業を営んでいた。現在の「フランチャイズ本部方式」である。明治7年2月、大前田で病没した。享年82歳、博徒としては珍しく、長寿を保った男である。
「あらうれし、行きさきしれぬ死出の旅」
前橋市大胡町雷電山にある大前田英五郎の墓の側面に刻まれた辞世の句である。警吏に追われて、一生を終った博徒の辞世らしい。
戒名は「歓広院徳寿栄翁居士」である。大胡町の墓は子分たちが建てたと言う。
作家・山田風太郎は著書「人間臨終図巻」で大前田英五郎を下記のように記述する。
「若いころ、2,3人たたっ斬ったことはあるものの、生涯の大半、長どすを封印し、大きな喧嘩も、女沙汰もなく、やくざは盆の垢をなめてゆく日陰者だとして大きな肩を縮めて生き、しかも国定忠治、清水次郎長さえも頭を下げた。
上州の大親分・大前田英五郎は75歳になった明治元年、引退して故郷の上州大胡で、鶏を飼い、橋の掃除をしながら、隠居生活を送る。明治7年正月、引いた風邪がもとで、2月16日、「天下の和合人」と呼ばれた大侠客らしく、畳の上で大往生をとげた」と。
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博徒・国定忠治の最期
写真は大前田英五郎の墓。周囲には英五郎の兄の要吉、父母の墓もある。前橋市大前田町の畑の中の墓地にある。こちらの辞世の句は
「安らかにゆくさきしれぬ死出の旅」と少し違っている。しかし戒名は同じである。