「三毛別ヒグマ事件」をご存知だろうか?北海道の開拓村で起きた日本最悪のヒグマによる村民襲撃事件である。この事件の実態を描いたのが元北海道庁林務官木村盛武の本「慟哭の谷」である。作家吉村昭はこの事件を小説化して「羆嵐」を発表した。
「三毛別ヒグマ事件」は大正4年(1915年)12月9日から12月14日にかけて北海道苫前村でヒグマが次々と民家を襲い、開拓民7名(うち1名は胎児)が死亡、3名が重傷を負った事件である。
大正4年12月9日朝、越冬穴を見つけられなかった「穴持たず」のヒグマによって、三毛別川上流にある太田家が襲われ、内妻阿部マユ(34歳)と6歳の少年幹雄が殺された。夫の太田三郎は、寄宿人の長松要吉とともに朝早くから木材の伐採に出かけ、留守であった。昼近く、要吉が用事で家に戻ると、居間の窓が破られ、くすぶる薪が転がり、囲炉裏までヒグマの足跡があり、柄が折れた血染めのマサカリが落ちていた。
家には幹雄の遺体のみ残り、マユの遺体はなく、居間の窓枠にはマユのものと思われる頭髪が絡みついていた。ヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って居間の窓から屋外に出たと思われる。この状況から、最初に幹雄がヒグマに襲われ、マユは逃げながらマサカリを持って、必死に抵抗したことを表している。
翌日の早朝、村人たちはヒグマの足跡を追って、マユの遺体捜索に向かった。マユの家から150mほど森の中に入ったところでヒグマを見つけた。すぐに発砲したが鉄砲は一発も当たらず、ヒグマは逃走した。
村人たちがヒグマのいた所を捜索すると、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があった。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ブドウ色の脚絆が絡まるひざ下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするためだった。このヒクマは人間の肉の味を覚えた。
翌日10日の夜、太田家で通夜が行われたが、ここにもヒグマが再度襲来した。この時、会葬者は天井の梁に登ったりして何とか難を逃れた。しかし太田家が襲われた30分後には、近くの明景家に避難していた住民10名のところに再びヒグマが現れた。
ここでは妊婦の斎藤タケ(34歳)、その子の巌(6歳)、春義(3歳)とタケの胎児、明景家の三男である金蔵(3歳)の5名が殺害された。タケはその時、臨月の妊婦であった。ヒグマに襲われたタケは、「腹を破らんでくれ!」「のど食って殺して!」と叫んだという。上半身を食われたタケの腹は破られ、胎児が引きずり出されていた。ヒグマが胎児に手を出した様子はなく、その時にはまだ胎児は少し動いていたが、一時間後には死亡した。
12月12日には警察を中心とする討伐隊が組織された。ヒグマの射殺を図るも発見されず、翌日、13日には旭川歩兵第28連隊から将兵30名が出動した。ヒグマは獲物を取り戻す習性があるため、警察は、犠牲者の遺体を餌に、ヒグマをおびき寄せる前代未聞の作戦を展開した。ヒグマは家の近くまで現れたが、人の気配を感じると森へ引き返した。
地元熊捕り名人のマタギ山本平吉は、討伐隊とは別に単独で山に入り、ヒグマを狙っていた。14日の朝、平吉はヒグマを見つけ、20mまで近づき、射撃した。一発目はヒグマの心臓近くを打ち抜いた。ヒグマが仁王立ちした瞬間、即座に二発目を充填、二発目はヒグマの頭部を打ち抜いた。
ヒグマは、金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340キロ、身の丈は2.7mにも及び、体に比べ、頭部が異常に大きかった。解剖の結果、腹からは阿部マユが着用していたブドウ色の脚絆のほかに別の女性と思われる赤い肌着の切れ端も見つかった。赤い肌着は、数日前に天塩の飯場で襲われた女性のものと一致した。
一度、人を襲ったヒグマは、再び人を襲う習性がある。今回のヒグマは特に女性を狙って攻撃する習性があった。事件で投入された討伐隊は延べ600名、鉄砲は60丁に上った。
ヒグマが射殺されたとき、それまで続いていた晴天が激しい吹雪に急変した。言い伝えによれば、クマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を「羆嵐」と呼ぶ。ヒグマの肉は犠牲者供養のため、煮て食べられた。しかし肉は硬くて旨くなかったという。毛皮、肝などは50円で売却され、被害者家族に渡された。
ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
北海道最果ての監獄「樺戸監獄」
写真は事件の再現現場。北海道苫前郡苫前町三渓
写真は現場近くの三渓神社境内にある熊害慰霊碑。
建立者は集落に暮らしていた大川春義氏。当時、7歳の少年。成人後、犠牲者の弔いのため、羆撃ちになった。40数年間で羆100頭を撃ち殺した。目標達成後にこの慰霊碑を建立したと言う。
「三毛別ヒグマ事件」は大正4年(1915年)12月9日から12月14日にかけて北海道苫前村でヒグマが次々と民家を襲い、開拓民7名(うち1名は胎児)が死亡、3名が重傷を負った事件である。
大正4年12月9日朝、越冬穴を見つけられなかった「穴持たず」のヒグマによって、三毛別川上流にある太田家が襲われ、内妻阿部マユ(34歳)と6歳の少年幹雄が殺された。夫の太田三郎は、寄宿人の長松要吉とともに朝早くから木材の伐採に出かけ、留守であった。昼近く、要吉が用事で家に戻ると、居間の窓が破られ、くすぶる薪が転がり、囲炉裏までヒグマの足跡があり、柄が折れた血染めのマサカリが落ちていた。
家には幹雄の遺体のみ残り、マユの遺体はなく、居間の窓枠にはマユのものと思われる頭髪が絡みついていた。ヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って居間の窓から屋外に出たと思われる。この状況から、最初に幹雄がヒグマに襲われ、マユは逃げながらマサカリを持って、必死に抵抗したことを表している。
翌日の早朝、村人たちはヒグマの足跡を追って、マユの遺体捜索に向かった。マユの家から150mほど森の中に入ったところでヒグマを見つけた。すぐに発砲したが鉄砲は一発も当たらず、ヒグマは逃走した。
村人たちがヒグマのいた所を捜索すると、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があった。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ブドウ色の脚絆が絡まるひざ下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするためだった。このヒクマは人間の肉の味を覚えた。
翌日10日の夜、太田家で通夜が行われたが、ここにもヒグマが再度襲来した。この時、会葬者は天井の梁に登ったりして何とか難を逃れた。しかし太田家が襲われた30分後には、近くの明景家に避難していた住民10名のところに再びヒグマが現れた。
ここでは妊婦の斎藤タケ(34歳)、その子の巌(6歳)、春義(3歳)とタケの胎児、明景家の三男である金蔵(3歳)の5名が殺害された。タケはその時、臨月の妊婦であった。ヒグマに襲われたタケは、「腹を破らんでくれ!」「のど食って殺して!」と叫んだという。上半身を食われたタケの腹は破られ、胎児が引きずり出されていた。ヒグマが胎児に手を出した様子はなく、その時にはまだ胎児は少し動いていたが、一時間後には死亡した。
12月12日には警察を中心とする討伐隊が組織された。ヒグマの射殺を図るも発見されず、翌日、13日には旭川歩兵第28連隊から将兵30名が出動した。ヒグマは獲物を取り戻す習性があるため、警察は、犠牲者の遺体を餌に、ヒグマをおびき寄せる前代未聞の作戦を展開した。ヒグマは家の近くまで現れたが、人の気配を感じると森へ引き返した。
地元熊捕り名人のマタギ山本平吉は、討伐隊とは別に単独で山に入り、ヒグマを狙っていた。14日の朝、平吉はヒグマを見つけ、20mまで近づき、射撃した。一発目はヒグマの心臓近くを打ち抜いた。ヒグマが仁王立ちした瞬間、即座に二発目を充填、二発目はヒグマの頭部を打ち抜いた。
ヒグマは、金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340キロ、身の丈は2.7mにも及び、体に比べ、頭部が異常に大きかった。解剖の結果、腹からは阿部マユが着用していたブドウ色の脚絆のほかに別の女性と思われる赤い肌着の切れ端も見つかった。赤い肌着は、数日前に天塩の飯場で襲われた女性のものと一致した。
一度、人を襲ったヒグマは、再び人を襲う習性がある。今回のヒグマは特に女性を狙って攻撃する習性があった。事件で投入された討伐隊は延べ600名、鉄砲は60丁に上った。
ヒグマが射殺されたとき、それまで続いていた晴天が激しい吹雪に急変した。言い伝えによれば、クマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を「羆嵐」と呼ぶ。ヒグマの肉は犠牲者供養のため、煮て食べられた。しかし肉は硬くて旨くなかったという。毛皮、肝などは50円で売却され、被害者家族に渡された。
ブログ内に下記記事があります。よろしければ閲覧ください。
北海道最果ての監獄「樺戸監獄」
写真は事件の再現現場。北海道苫前郡苫前町三渓
写真は現場近くの三渓神社境内にある熊害慰霊碑。
建立者は集落に暮らしていた大川春義氏。当時、7歳の少年。成人後、犠牲者の弔いのため、羆撃ちになった。40数年間で羆100頭を撃ち殺した。目標達成後にこの慰霊碑を建立したと言う。