兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

遠州の博徒・山梨の巳之助

2022年11月12日 | 歴史
江戸時代末期、遠州で知られた博徒は、大和田の友蔵、都田の吉兵衛、相良の富吉、そしてここで取り上げる山梨の巳之助である。巳之助が渡世を張った山梨は現在の袋井市の北部、周智郡森町に近く、秋葉山への信仰の道・秋葉街道に沿った地にある。巳之助の家には常時20~30人の子分がいた。

巳之助の稼業は、表は興行師、裏はサイコロ賭博で暮らしていた。子分には播鎌の周太郎、堀越の藤左ヱ門がいた。正式な子分ではないが、一時は江戸相撲をつとめた四角山周吉も出入りしていた。のちに遠州博徒の一時代を築いた大和田の友蔵も巳之助のもとに出入りしていた。幕末の遠州博徒の世界は、山梨の巳之助、大和田の友蔵の二人によって仕切られていた。

巳之助が初めて捕らえられたのは弘北2年(1845年)12月である。駿河の博徒・安西の吉五郎、柳新田の政蔵が総勢100人余りを引き連れて遠州にやって来た。巳之助はこれを迎え撃つため、堀越の藤左ヱ門ら身内を集めた。この情報が中泉代官所に分かり、役人の御用提灯に取り囲まれ、捕縛された。

捕らえられていた巳之助はその後釈放され、山梨へ戻った。その後、安政5年(1858年)に起きた「万松寺事件」で再び巳之助は捕らえられた。万松寺事件とは、巳之助の子分が万松寺の住職を殺して、金を奪った事件である。巳之助はこの子分を匿った罪で、江戸伝馬町の獄舎につながれた。調べの結果、八丈島への島流しが決まった。

万延元年4月、八丈島に送られたのち、島破りの計画に加わったため、流罪が取り消され、死罪が決定した。万延元年(1860年)10月13日、八丈島で病死した。享年53歳だった。八丈島「流人帳」には下記のように記載されている。

「万延元庚申4月流罪 万延元庚申10月11日島抜露顕 同月23日日病死 無宿・巳之助」病死とあるが、おそらく責め殺されただろう。巳之助と一緒に島破りをした、高麗本郷無宿・秀次郎、常州寺具村宝蔵寺の如篤、甲州市川大門村百姓・忠吉、常盤町太助店吉五郎同居・鉄五郎、武州小和瀬村・竜蔵、亀島町忠七地借勘助召使・民蔵、西富岡村無宿・兼吉、小船木村無宿・喜助の8人も巳之助同様に、万延元年10月中に「病死」したと書かれているから間違いないだろう。

巳之助の墓は袋井市用福寺にある。墓の正面は、「古梅良香信士・大安妙道信女・各霊位」とある。左側面には「慶応三寅十二月」と刻まれている。これは慶応3年12月30日に没した巳之助の妻「三千」のことを示す。巳之助には子供が無かったため、巳之助は「松井」姓を名乗り、養子両もらいの形で家系をつないだ。

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三つ並んだ墓の写真は松井家一族の墓、一番左側苔むした墓が巳之助の墓である。中央の墓は松井家墓。右側は松井家の先祖の墓。



山梨の巳之助の墓。当初近くの南晶寺にあったが、廃寺となり、用福寺に移された。
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