兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

遠州浜松宿の博徒・国領屋亀吉

2023年01月23日 | 歴史
遠州の博徒は江戸時代後期から明治初期に活躍した。国領屋亀吉もその中の一人である。亀吉は通称名で、本名は「大谷亀次郎」と言った。生家は水車を使った精米業である。米穀販売も営んでいた。生まれたのは馬込川右岸敷智郡船越村(現・浜松市中区船越町)で、亀吉が25歳のとき、安政4年(1857年)に浜松の博徒「棒周」こと中村周蔵から縄張りを譲られた。

周蔵が生まれた中村家は、浜松宿で筆を販売する商家だった。筆を棒と呼び、「棒周」の名がつけられた。周蔵は博徒の世界に入り、縄張りを亀吉に譲ったとき、46歳。明治に入り浜松県発足の頃、官命を受けて警邏長を引き受けた。警邏長とは、現在の警察官の警部に当たる。

国領屋亀吉の女房は「花(はな)」という。姉御肌、女丈夫の女性で、亀吉より6歳年下であった。棒周から縄張りを受け継いだ亀吉は、任侠の世界に生きたが、常に温和に徹していた。それだけに華やかな逸話は残っていない。

女房の花にはこんな話がある。森の石松が都田吉兵衛兄弟に殺される事件が起きた。その時、吉兵衛は石松を殺したのは国領屋亀吉だという噂を流した。これを聞いた亀吉は次郎長へ「それは嘘だ」と手紙を送った。「亀吉は次郎長寄り」と思った吉兵衛の弟常吉・留吉兄弟は国領屋宅に殴り込みをかけた。

亀吉と一緒に居た花はとっさに亀吉を蚊帳で包み、押入れに押し込んだ。「亀吉を出せ」という常吉・留吉兄弟の前で「喧嘩なら旦那が居るときに来ておくれ!」と啖呵を切った。常吉らは家の中を探したが、見つからない。「さあどうしてくれる!」と言う花の勢いに押され退散したという。

明治4年、清水次郎長と穴太徳(安濃徳)との手打ち式が浜松の五社神社で行われた。荒神山騒動の正式決着である。手打ちの仲介を取ったのは、津向文吉と藤枝の長楽寺清兵衛である。浜松から唯一親分格として国領屋亀吉が出席している。その亀吉も明治17年に博徒の世界から引退した。

亀吉引退後、国領屋は三つに分かれた。浜松宿の中央部を二代目を継いだ伊藤勝太郎が、北部を「下垂れの鍛治」(本名・本田芳太郎)が、南部を「成子の善五郎」(本名・斎藤善五郎)がそれぞれ引き継いだ。

国領屋亀吉が他界したのは明治38年7月1日、戒名「国翁勇亀居士」享年73歳。妻の「花」は同じ年の明治38年11月10日に死去、戒名「国室妙華大姉」享年67歳・俗名「はな」である。

国領屋亀吉の菩提寺・大聖寺には、清水の小政(吉川冬吉)の墓がある。小政も浜松宿の生まれ、若い頃から棒周や国領屋の賭場に出入りしていた。次郎長の子分となり、子供がいない次郎長の養子・山本政五郎となったのも国領屋亀吉の斡旋である。

小政が浜松監獄内で獄死したとき、遺体引き取りの世話をしたのも国領屋亀吉とその女房の「はな」である。小政は監獄内で死亡したのではなく、重体になったとき、浜松監獄を出て、国領屋が手配した住宅で療養、息を引き取ったと言われる。人によっては毒殺されたと主張する人もいる。


ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
荒神山の決闘博徒・穴太徳次郎

清水一家小政の獄死


写真は浜松市大聖寺にある国領屋亀吉の墓。正面に「国翁勇亀居士」先祖代々「国室妙華大姉」とある。右側面に「俗名・大谷亀次郎」左側面に「明治39年7月伊藤勝太郎建立」とある。伊藤勝太郎とは国領屋二代目である。


写真は同じ大聖寺にある山本政五郎(小政)の墓。法名「白応良滴信士」右側面に「明治7申戌年5月29日」とある。


写真は明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家の写真。前列左から、増川の仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長、田中敬次郎、当目の岩吉、小走りの半兵衛。

後列の左から興津の盛ノ助、四日市教太郎、辻の勝五郎、大政、関東丑五郎、寺津の間之助、鳥羽熊、清水の周吉、三保の松五郎、小松村の七五郎、大瀬の半五郎、大野の鶴吉、伊達の五郎、舞阪富五郎、国定の金次郎。


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