清水次郎長の弟分として義理を尽くした博徒として形原一家の初代親分である「形ノ原斧八」がいた。
博徒名 形ノ原斧八 (本名・市川斧八)
生没年 天保1年(1830年)~明治23年(1890年)1月26日 享年60歳
斧八の生まれは、三州宝飯郡形ノ原(現在の愛知県蒲郡市形原町)で、本名・市川斧八。両親は一町歩の畑と一艘の持ち船を保有する自作農である。しかし、斧八は親の家業を捨て、地元で10人余りの子分を持つ博徒となっていた。
嘉永1年ごろ、斧八は子分の喧嘩の不始末を、当時では珍しく、親分の斧八がかぶり、甲州に逃亡、国分三蔵の兄弟分の祐天仙之助一家に客人として草鞋を脱いでいた。斧八は一宿一飯の渡世の義理で次郎長の子分「森の八五郎」を祐天仙之助一家が捕縛するのを手助けをする。一方、次郎長一家は、子分の森の八五郎奪還のため、甲州石和の勘太郎という博徒のところに宿をとっていた。
その宿に、祐天仙之助一家に愛想をつき、旅に出た斧八が次郎長を訪ね、森の八五郎を生け捕りした本人であることを次郎長に報告する。それを聞いた次郎長一家の法印大五郎ら子分は、「この場で斧八を叩き殺せ。」と大騒ぎした。斧八は「許せねえと仰るのでしたら、ご存分に願います。」と啖呵を切った。
次郎長は斧八の侠客としての潔い良さに感心し、子分たちを説得した。これが斧八と次郎長との最初の出会いである。その後、次郎長一家は祐天仙之助一家へ真夜中の襲撃をして、無事、森の八五郎を助け出した。
その事件のち、清水に戻った次郎長は妻のお蝶を連れて、甲州代官の手配追手を逃れ、尾張方面に逃亡の旅に出る。その途中、次郎長は、妻のお蝶の体調が悪くなり、旅の金も不足し、瀬戸の岡市の家に留まり、金策に四苦八苦をしていた。
そこに斧八が姿を見せた。斧八は、「あらましの様子は伺いましてござんす。以前、命を助けていただいたお礼に、少しでもお役に立ちとうござんす。二日ほどのちにまた伺います。」と言って、急ぎ、自宅の三州宝飯郡形ノ原に戻った。戻ると、女房の「おきた」に無理を言い、女房のへそくりの三両を受け取り、瀬戸まで20里走り続け、次郎長に渡し、義理を果たした。
その後、お蝶は薬石効なく、尾張、巾下の長兵衛の家で息を引き取った。お蝶の葬儀でも、斧八は次郎長一家の子分同様こまめに働き、次郎長に尽くした。
葬儀後、斧八は、次郎長に「子分の盃を頂きたい。」と願い出た。次郎長は、「見たところお前さんは、親分の器を備えているお人だ。俺の子分になっては、子分の中からはみ出してしまう。清水一家に大政は二人はいらねえ。兄弟の盃なら、お互いに力になろう。」と答えた。その後、「黒駒勝蔵・平井一家襲撃事件」においても、吉良の仁吉と同様、清水一家の喧嘩に応援手助けをすることとなる。
ブログに関連の記事があります。よろしければ閲覧ください。
清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵壮絶な襲撃事件
写真は近くの林光寺には尾崎士郎書による形原一家の石碑。初代・市川斧八、2代目・市川与四郎、3代目・市川弥一、4代目・中瀬徳一、5代目・清水橋一郎、昭和34年6月初日・小林金次建立とある。
写真は形ノ原(市川)斧八の墓 現・愛知県蒲郡市形原町南淀尻にある。法名「釋顕曜」である。
博徒名 形ノ原斧八 (本名・市川斧八)
生没年 天保1年(1830年)~明治23年(1890年)1月26日 享年60歳
斧八の生まれは、三州宝飯郡形ノ原(現在の愛知県蒲郡市形原町)で、本名・市川斧八。両親は一町歩の畑と一艘の持ち船を保有する自作農である。しかし、斧八は親の家業を捨て、地元で10人余りの子分を持つ博徒となっていた。
嘉永1年ごろ、斧八は子分の喧嘩の不始末を、当時では珍しく、親分の斧八がかぶり、甲州に逃亡、国分三蔵の兄弟分の祐天仙之助一家に客人として草鞋を脱いでいた。斧八は一宿一飯の渡世の義理で次郎長の子分「森の八五郎」を祐天仙之助一家が捕縛するのを手助けをする。一方、次郎長一家は、子分の森の八五郎奪還のため、甲州石和の勘太郎という博徒のところに宿をとっていた。
その宿に、祐天仙之助一家に愛想をつき、旅に出た斧八が次郎長を訪ね、森の八五郎を生け捕りした本人であることを次郎長に報告する。それを聞いた次郎長一家の法印大五郎ら子分は、「この場で斧八を叩き殺せ。」と大騒ぎした。斧八は「許せねえと仰るのでしたら、ご存分に願います。」と啖呵を切った。
次郎長は斧八の侠客としての潔い良さに感心し、子分たちを説得した。これが斧八と次郎長との最初の出会いである。その後、次郎長一家は祐天仙之助一家へ真夜中の襲撃をして、無事、森の八五郎を助け出した。
その事件のち、清水に戻った次郎長は妻のお蝶を連れて、甲州代官の手配追手を逃れ、尾張方面に逃亡の旅に出る。その途中、次郎長は、妻のお蝶の体調が悪くなり、旅の金も不足し、瀬戸の岡市の家に留まり、金策に四苦八苦をしていた。
そこに斧八が姿を見せた。斧八は、「あらましの様子は伺いましてござんす。以前、命を助けていただいたお礼に、少しでもお役に立ちとうござんす。二日ほどのちにまた伺います。」と言って、急ぎ、自宅の三州宝飯郡形ノ原に戻った。戻ると、女房の「おきた」に無理を言い、女房のへそくりの三両を受け取り、瀬戸まで20里走り続け、次郎長に渡し、義理を果たした。
その後、お蝶は薬石効なく、尾張、巾下の長兵衛の家で息を引き取った。お蝶の葬儀でも、斧八は次郎長一家の子分同様こまめに働き、次郎長に尽くした。
葬儀後、斧八は、次郎長に「子分の盃を頂きたい。」と願い出た。次郎長は、「見たところお前さんは、親分の器を備えているお人だ。俺の子分になっては、子分の中からはみ出してしまう。清水一家に大政は二人はいらねえ。兄弟の盃なら、お互いに力になろう。」と答えた。その後、「黒駒勝蔵・平井一家襲撃事件」においても、吉良の仁吉と同様、清水一家の喧嘩に応援手助けをすることとなる。
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清水一家の平井亀吉、黒駒勝蔵壮絶な襲撃事件
写真は近くの林光寺には尾崎士郎書による形原一家の石碑。初代・市川斧八、2代目・市川与四郎、3代目・市川弥一、4代目・中瀬徳一、5代目・清水橋一郎、昭和34年6月初日・小林金次建立とある。
写真は形ノ原(市川)斧八の墓 現・愛知県蒲郡市形原町南淀尻にある。法名「釋顕曜」である。