空手バカなオヤジの日常

新潟の空手道場「空手道新武会」で稽古に励む、空手バカオヤジの徒然記

わが空手道修行記 ~極真空手道 その3~

2014-06-21 01:18:42 | 空手 エッセイ

 昭和54年(1979年)は、極真会館の「第2回全世界空手道選手権大会」の開催年でした。世界大会は秋に行われたのですが、それに先立ち、6月に世界大会の予選を兼ねた「第11回全日本空手道選手権大会」が開催されました。私はこの全日本大会を会場まで出かけていき観戦させていただきました。私が全日本大会を観戦するのは、この大会が初めてでした。

 この大会で印象的な試合があります。それは準々決勝戦の中村誠選手と川畑幸一選手の試合でした。
 試合は中村選手が終始攻め続け、小兵の川畑選手は防戦一方といった印象でした。ところが、試合終了間際、前に出ようとした中村選手のアゴに、下がりながら繰り出した川畑選手の左上段回し蹴りがヒットし、中村選手が前のめりにマットに崩れ落ちました。副審の旗が一斉に上がり、見事に技ありを奪ったのでした。文字通り「小よく大を制す」を体現したのです。
 そのまま時間切れで試合は終了。中村選手は終始攻勢とはいえ、技ありを奪うにはいたりませんでしたので、私は川畑選手が勝ったと思ったのですが、判定は何と「引き分け」。その後、延長戦で川畑選手は敗れ、大会は中村選手が優勝しましたが、正直私は釈然としないものを感じました…。

 その年の秋、日本武道館で「第2回全世界空手道選手権大会」が三日間に渡って開催されました。私は、友人のアパートに泊めてもらい、三日間とも会場で大会を観戦しました。
 この第2回世界大会は、日本代表選手が大苦戦した大会でした。早い段階で何人かの日本人選手が敗退し、試合内容も日本人選手より外国人選手の方が技術的に優れているような印象を受けました。
 アメリカのウイリー・ウイリアムス選手が、佐藤俊和選手に一本勝ちしたり、盧山初雄選手が負傷棄権したりした時には、このまま外国人選手が優勝してしまうのではないかと思ったほどでした。
 結果的に、ウイリー選手が準決勝戦で謎の反則負けをし、中村誠選手が優勝しましたが、何とも後味の悪い大会でした。

 ところで、この第2回世界大会の際、私は極真会館新潟支部の先輩方といっしょに観戦させていただいたのですが、T先輩という方が「古俣、ちょっといっしょに来い。」と言って、関係者しか入れない選手控室に連れて行ってくださいました。(T先輩は、極真会館の各道場の幹部クラスの方しか着用できないブレザーを着用されていたので、入れたようです。)そこには、あのウイリー・ウイリアムス選手がおり、ウイリー選手を間近で見ることが出来たのですが、私の目の高さで帯を締めているような巨大な印象でした。
 また、この大会では、来日しながら政治的な事情で出場できなかった南アフリカのケニー・ウーデンボガード選手も間近で見ることが出来、こちらも目の高さでベルトをしている印象でした。こんな化け物(失礼!)のような選手と試合をするなんて、世界大会代表選手というのは、本当にすごい人達だな、と実感しました。

 全日本大会、全世界大会を観戦して、私もいつかはこんな大きな大会に出られるような選手になりたい、一歩でもこんな強い人たちに近づきたい、という思いを強くしたのです。
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大山倍達総裁の著書の数々。大山総裁の著書は、ほとんどすべてを購入し、何度も読み返しました。何回かの引っ越しの間に、何冊か行方不明になってしまいましたが…(-_-;)

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大山総裁のLPレコードと、映画「地上最強のカラテ PART2」のLPレコード。DVDはおろか、ビデオもなかった時代のなつかしい品々です。

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極真空手の映画は、全部で4作品ありますが、その公開時のパンフレットです。
ちなみに、右下の「世界最強のカラテ キョクシン」には、私もちょっと出ています(^-^)


 私の極真空手道の師であるS先生が、先日ご逝去されたとお聞きしました。謹んでご冥福をお祈りいたします。S先生、ありがとうございました。押忍

コメント (2)
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