第4回裏日本大会の翌年、昭和58年(1983年)春、私は新潟県長岡市に転勤となりました。当時、長岡市に極真会館新潟県支部関川道場の分支部はなく、稽古は自主稽古か、新潟市の本部道場や旧白根市(現新潟市南区)の白根分支部まで通わなければならなくなってしまいました。
当時の私は、就職して3年が経ち、仕事にもやりがいを感じており、新潟や白根まで通って空手を継続するか、それとも空手は少しお休みして、仕事に集中するか、悩み始めていました。しかし、日々仕事に追われていると、とても新潟や白根に通うような余裕はなく、道場稽古から離れざるを得なくなってしまいました。
そんな時、仕事の先輩からトレーニングジムに誘われ、市営のトレーニングジムに通うようになりました。
バーベルやマシンを使ったウエイトトレーニングを続けるうち、筋肉がついて身体が変化していくのが実感出来、また、これまで持ち上がらなかった重さが持ち上がるようになって行くという、数字で明確な上達が確認出来る達成感に、どんどんはまって行きました。
このトレーニングジムでは、多くの出会いがありました。後に私を羽賀友信先生に引き合わせてくださり、共に羽賀先生の下で修行することになるIさん、極真会館、新武会とずっと一緒に稽古することになるNくん、極真会館で共に稽古することになるMさん、そして、様々な目的でトレーニングに汗を流しに集まる長岡の方々…。このトレーニングジムでの様々な出会いがなかったら、今の自分はなかったかもしれません。
トレーニングジムでのウエイトトレーニングと平行して、ランニングや空手の自主稽古も続けました。ランニングは、信濃川の土手道路を2~3日に1回のペースで毎回5〜6キロ位走っていました。当時の職場には柔道や剣道を稽古するための道場があり、仕事終わりや休日にそこでシャドーなどを行なったり、当時はまだ珍しかったサンドバッグスタンドとサンドバッグを購入して道場に置かせていただき、叩いたりしていました。
長岡に転勤してから1年後の昭和59年(1984年)6月、第5回裏日本大会が開催されることになりました。私はすぐに出場を決意し、大会に備え、自主稽古の他、新潟市の本部道場にも通って大会に備えました。
この第5回裏日本大会、自分で言うのも何ですが、神がかっていたように思います。
1回戦、2回戦、ともに上段回し蹴りで一本勝ち、3回戦、準決勝、優勢勝ちで、何と決勝に進んだのです。
正直、入賞出来れば良い位の考えで出場していましたので、決勝に進んだことは予想外で、「決勝まで勝ち進めた。」ということで既に満足してしまい、気持ちが切れてしまっていました。
決勝で対戦したのは、前回の第4回大会で敗れたI選手でした。I選手は、第4回大会優勝後、全日本大会でベスト16まで勝ち進むほどの実力者になっていました。
当時はまだ大山倍達総裁もご健在で、極真会館が分裂するずっと前でしたので、全日本大会の選手層の厚さは現在とは比べものにならないほど高いものでした。そんな時代にベスト16まで勝ち上がったのですから、I選手の実力は新潟では抜きん出ていました。
そんなI選手に、実力がはるかに及ばないうえに気持ちまで切れてしまった人間が勝てるわけがありません。I選手の突き連打で一本負けしてしまいました。
決勝戦後、張り詰めた緊張感から解放され、また準優勝という思ってもみない好成績が信じられず、ぼうっとしていましたが、表彰式で表彰され、先輩や後輩の皆さん、更には、応援に来てくださった職場の上司、先輩、同僚らから祝福され、あらためて実感が湧いてきました。優勝出来なかった悔しさよりも、準優勝出来た嬉しさでいっぱいでした。自分に準優勝するほどの実力がないことは、誰よりも私自身わかっていました。そんな私が、実力以上の力を発揮して準優勝出来たのです。嬉しさしかありませんでした。そして、また少し自分に自信を持つことが出来たのでした。
準優勝のほか、技能賞もいただきました。準決勝でアゴを切り、出血したため空手着が血だらけになってしまいました。
2回戦の試合の動画です。
当時の私は、就職して3年が経ち、仕事にもやりがいを感じており、新潟や白根まで通って空手を継続するか、それとも空手は少しお休みして、仕事に集中するか、悩み始めていました。しかし、日々仕事に追われていると、とても新潟や白根に通うような余裕はなく、道場稽古から離れざるを得なくなってしまいました。
そんな時、仕事の先輩からトレーニングジムに誘われ、市営のトレーニングジムに通うようになりました。
バーベルやマシンを使ったウエイトトレーニングを続けるうち、筋肉がついて身体が変化していくのが実感出来、また、これまで持ち上がらなかった重さが持ち上がるようになって行くという、数字で明確な上達が確認出来る達成感に、どんどんはまって行きました。
このトレーニングジムでは、多くの出会いがありました。後に私を羽賀友信先生に引き合わせてくださり、共に羽賀先生の下で修行することになるIさん、極真会館、新武会とずっと一緒に稽古することになるNくん、極真会館で共に稽古することになるMさん、そして、様々な目的でトレーニングに汗を流しに集まる長岡の方々…。このトレーニングジムでの様々な出会いがなかったら、今の自分はなかったかもしれません。
トレーニングジムでのウエイトトレーニングと平行して、ランニングや空手の自主稽古も続けました。ランニングは、信濃川の土手道路を2~3日に1回のペースで毎回5〜6キロ位走っていました。当時の職場には柔道や剣道を稽古するための道場があり、仕事終わりや休日にそこでシャドーなどを行なったり、当時はまだ珍しかったサンドバッグスタンドとサンドバッグを購入して道場に置かせていただき、叩いたりしていました。
長岡に転勤してから1年後の昭和59年(1984年)6月、第5回裏日本大会が開催されることになりました。私はすぐに出場を決意し、大会に備え、自主稽古の他、新潟市の本部道場にも通って大会に備えました。
この第5回裏日本大会、自分で言うのも何ですが、神がかっていたように思います。
1回戦、2回戦、ともに上段回し蹴りで一本勝ち、3回戦、準決勝、優勢勝ちで、何と決勝に進んだのです。
正直、入賞出来れば良い位の考えで出場していましたので、決勝に進んだことは予想外で、「決勝まで勝ち進めた。」ということで既に満足してしまい、気持ちが切れてしまっていました。
決勝で対戦したのは、前回の第4回大会で敗れたI選手でした。I選手は、第4回大会優勝後、全日本大会でベスト16まで勝ち進むほどの実力者になっていました。
当時はまだ大山倍達総裁もご健在で、極真会館が分裂するずっと前でしたので、全日本大会の選手層の厚さは現在とは比べものにならないほど高いものでした。そんな時代にベスト16まで勝ち上がったのですから、I選手の実力は新潟では抜きん出ていました。
そんなI選手に、実力がはるかに及ばないうえに気持ちまで切れてしまった人間が勝てるわけがありません。I選手の突き連打で一本負けしてしまいました。
決勝戦後、張り詰めた緊張感から解放され、また準優勝という思ってもみない好成績が信じられず、ぼうっとしていましたが、表彰式で表彰され、先輩や後輩の皆さん、更には、応援に来てくださった職場の上司、先輩、同僚らから祝福され、あらためて実感が湧いてきました。優勝出来なかった悔しさよりも、準優勝出来た嬉しさでいっぱいでした。自分に準優勝するほどの実力がないことは、誰よりも私自身わかっていました。そんな私が、実力以上の力を発揮して準優勝出来たのです。嬉しさしかありませんでした。そして、また少し自分に自信を持つことが出来たのでした。
準優勝のほか、技能賞もいただきました。準決勝でアゴを切り、出血したため空手着が血だらけになってしまいました。
2回戦の試合の動画です。