東北の歴史はおもしろい。
日本書紀では、景行天皇の時代に竹内宿祢を東方に派遣したところ以下の様に報告します。
東夷之中、日高見国有。其国人、男女並椎結文身、為人勇悍。是総曰蝦夷。亦土地沃壌而曠之。撃可取也。
(東の夷の中に日高見国あり。其の国の人は髪を分け刺青をして、人となりは勇ましく猛々しい。これすべて蝦夷という。また土地は広く豊かである。討ちて取るべし)
歴史以前の話ですから景行天皇と竹内宿祢の実在は不確かですが、日本書紀の書かれた700年頃から見た過去の東北に対する認識がわかります。
蝦夷の人は弓矢を巧みに操るという記述もあり、縄文時代から続く狩猟採取の生活だったのでしょう。
現代から見ると狩猟採取の生活はもっと古い時代を連想しますが、農業による生活が2千年に対して、それ以前の何倍も長い時間は狩猟(漁)採取(集)での生活です。
長い歴史を持つ生き方は、余程大きな理由無しには変わりません。
宋書には478年に「倭王武が、宋に朝貢し、先祖以来の倭王が東方の毛人の国などを征服したことを述べる」という記述があり、長い年月をかけて東北を大和政権下に組み込む作業が続いていたことは推測できます。
大化の改新以降は武力行使と平行して、土地ごとの有力者に冠位を与えることで吸収していくのですが、これは元々住んでいた人を追い出して入植者を連れてきたわけではない事を意味します。
その後の歴史の中で人の移動があったとしても、元々住んでいた縄文の人と同じ系譜の人々が、今も東北には残っている。
三内丸山や是川の遺物を見ていると、細い釣り針を作り出す技術や美しい縄文土器の装飾性など、高度な文化を感じます。
世界四大文明と同じ時期に、極東の島国で開花した縄文文化の数々。
これらを作り出した縄文の人々は、どこかへ去ってしまったのではなく、今もこの地に生きる人の中にその血を残しているはずです。
参考 青森県史 資料編 古代 1 (発行 青森県)
日本書紀では、景行天皇の時代に竹内宿祢を東方に派遣したところ以下の様に報告します。
東夷之中、日高見国有。其国人、男女並椎結文身、為人勇悍。是総曰蝦夷。亦土地沃壌而曠之。撃可取也。
(東の夷の中に日高見国あり。其の国の人は髪を分け刺青をして、人となりは勇ましく猛々しい。これすべて蝦夷という。また土地は広く豊かである。討ちて取るべし)
歴史以前の話ですから景行天皇と竹内宿祢の実在は不確かですが、日本書紀の書かれた700年頃から見た過去の東北に対する認識がわかります。
蝦夷の人は弓矢を巧みに操るという記述もあり、縄文時代から続く狩猟採取の生活だったのでしょう。
現代から見ると狩猟採取の生活はもっと古い時代を連想しますが、農業による生活が2千年に対して、それ以前の何倍も長い時間は狩猟(漁)採取(集)での生活です。
長い歴史を持つ生き方は、余程大きな理由無しには変わりません。
宋書には478年に「倭王武が、宋に朝貢し、先祖以来の倭王が東方の毛人の国などを征服したことを述べる」という記述があり、長い年月をかけて東北を大和政権下に組み込む作業が続いていたことは推測できます。
大化の改新以降は武力行使と平行して、土地ごとの有力者に冠位を与えることで吸収していくのですが、これは元々住んでいた人を追い出して入植者を連れてきたわけではない事を意味します。
その後の歴史の中で人の移動があったとしても、元々住んでいた縄文の人と同じ系譜の人々が、今も東北には残っている。
三内丸山や是川の遺物を見ていると、細い釣り針を作り出す技術や美しい縄文土器の装飾性など、高度な文化を感じます。
世界四大文明と同じ時期に、極東の島国で開花した縄文文化の数々。
これらを作り出した縄文の人々は、どこかへ去ってしまったのではなく、今もこの地に生きる人の中にその血を残しているはずです。
参考 青森県史 資料編 古代 1 (発行 青森県)