人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(6)

2024年10月12日 17時30分36秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 6 - 6. 主が歩まれた道を見習おう (1959年4月26日)
1959年4月26日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 7:1-20

1
<祈祷 (I)>

天の栄光を求めて長い歴史の過程を見つめ、戦い続けてこられた父なる神様!その摂理の栄光が、父だけが享受できる日が、一日も早くこの天地に現れることをお認めください。が決断を犯したその日から、お父様が定められた本来の御心は無数の悪魔の前で容赦なく蹂躙され続けたことを、私たちはよく理解しています。代わりにされるべき御心に蹂躙されたため、その御心に応えられる人を探さなければいけないという天のご事情を、私たちは知りませんでした。

御心を残す人がいないために、父は独りで多くの困難な道を歩み、御心を人間に移すために無数の労苦を重ねられたのが、今日まで続く救済摂理の歴史であることを私たちは理解しています

お父様!今、私たちはこの現れた救済摂理の御心を通して、歴史の道をずっと探して、お父様が喜ぶその御心に自分の心に抱きつき、父の栄光の道を求め、すべての誠心 誠意を尽くして歩く天の息子娘となれるようにお許しください

父の御心は真の息子娘を探すことであることを知っております。天地を計画されるように、どうぞよろしくお願いします、これが父の切なる願いであり、御心であることを私たちに教えてください。

真の息子娘が、全ての万物をもって賛美を讃えることこそが、6千年続いて戦ってこわれた父の最大の喜びであり、希望であることを私は知り、その国を建設するために全てを頑張って進んでください。

2

お父様、その日、その時までにはまだ無限の距離がありますが、今日、私たちが父の御心を知り、父の御心によって選ばれた息子娘であることを一応し、父の栄光の一日を目指して、今日も明日も、戦いの道、不条理な道、死の道を恐れずに進んでください息子娘となりますようよろしくお願いいたします。お父様、切にお願いします。

お父様、今日この時間、あなたの息子娘が希望の地で、心を込めて、息子の栄光を代わりに出てきました。どうかお守りください。お父様が近くくここに臨んで、全体を主導してしてくださる様にお願いします

真の御心を持った真の息子として、お父様をお迎えし、お父様に礼拝を捧げることのできるこの時間をお許しください。この御心を成就するために集まる場所ごとに、無数の悪魔の勢力が私たち一人一人の心と体に襲い来る闇の勢力を受け止めてください。 私たちを父の寛大な胸に抱いて、命ある姿父の栄光の時代を実現させてくださる協力者として、切に願いを申し上げます

この時間、父の御前に集まりましたので、どうぞ軽く主導してください。 この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。の御前に栄光と喜びを尊重することができる時間となりますようお願いいたします。

過ぎた一週間の中で、父の御前にふさわしくないすべてのことを、この時間に清算し、今、天の御心を持った真の息子として、生ける信仰物としてお父様に尊敬されるよう祝福しどうか、優しくお考えいただくことを切に願い、主の御名によってお祈りいたします。


3

<祈祷Ⅱ>

お父様!、この日を覚えておいてください、お許し協力者の恵みを現してください。たちにもお許しいただけるのであれば、どうぞお許しください

私たちには心があるもの、それが私たちのものがないことを知りません、体があるもの、それも私たちのものがないことを知りました。心は善の方向を選ぶもの、体は悪の方向へと進みたがり、そこで悩んでいる自分です。私たちを見守ってくださっていることを知っております。お父様、このような私たちを大切にして、天の命の恵みを私たちに与えてください。 、強力な復活の力を与えて頂けなければなりません。

体は心を屈服させようとしますが、天の御心は、心を体を打ち、心の前で体を永遠に屈服させることができる勝利の基準を見つけて守ることです。 、今日私たち自身が日常的に考えなければならない必然的な戦いが私たちに残されていることを私たちは知っています

このような理由で、私たちの前に連続して戦いに出ることは、私たちが恐れるべき戦いではなく、このような戦いの環境でぶつかってくるあちこちが大きな壁ではなく、心と体の戦いにおいて、心体に支配されているという事実がもっと大きな悲しみであることを、今日私たちが感じることをお許しください。

私の心体を屈服させる能力を頑張って助けてください、お父様、切に願い求めます。

4

このことが私たちに対して考えられなければ、全体の生命の復活を考えることができないことを、私たちは心を中心とした生活全体を知っています。

命に向き合う心、恵みに向き合う心、復活の歴史に調和できる心、その心に受けた衝撃と感動が私の体を包み、私の環境を包み込むことができるようにお許しください。ような天的な再創造の歴史が私の体の中に現れることをお許しください、お父様、切に願います。

私たちの心は父の栄光に向かって無限に湧き上がっておりますが、私たちの体は父のために無限に疲れ果てて、楽しんでいます。 、心が望む通りに体を動かすことができる喜びの園が、この地上のすべての人々の前に早く現れるようにお許しください。がこの地を主観し、天を動かせるように祝福してください、お父様を愛し、切に願い、求めます。

地上に生きる人間が心の天国を超えられない問題があるなら、御言葉に基づく天国は広がっていないということを知っています、心の平和を一歩も当てられないなら平和の国は建てられないということを知っております。まず私たちの心の深いところで、お父様に対して激しさ、お父様に対して喜び、お父様に対して歌うことができる心を回復できるようにお許しください。心で体が動いて調和する勝利の姿を天は見えていることを知っております。

お父様、私たちそのような姿になるために今まで戦ってまいりましたので、勝利の姿を回復できるようにお許しくださいと切に願います。

5

そんな人たちが集まっていますこの時間をお許しください、そして真剣な心の中心を持ってお父様を迎え、憂いの条件となるすべての要素を考慮して準備してください。それでも主観が残るほどの勝利の難しいこの場に耐えられるようにしてください、愛するお父様、切に願い、求めます。

心の天国、心の平和が私たち自身に対話されないなら、その栄光ある天国も私たちとは全く関係がないということを悟らせてください。

お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、あなたを慕う切なる心情が動機となり、あなたに直接お会いできるという栄光ある資格を持つ者がいるでしょうか。あなたのために天倫の心情に満たされ、生ける犠牲として敬拝を捧げようとする者がいるでしょうか。死の道をも厭わず進んでいこうとする、その純粋で涙に満ちた心が、無限に天の心情と一体となり、生命の動きに変わり、平和な集まりを成し遂げようとする者がいるでしょうか。そのような心が私たちに無いならば、天も悲しみ、私たちの心も悲しみ、今日のこの集まりも悲しいものになることでしょう。

お父様、ここに栄光の姿で現れてください。みずから主人として現れてください。そのような恩恵を感じる者がいるなら、その心の扉を開き、父の希望を再び注いでください。多くの命が暗黒の権力に囚われ、死の世界で嘆いているゆえ、生命の復活を起こし、復活の権限を与えて再び創り直してくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

こうして来られる主を迎え、両手を合わせて父の前に敬虔に拝礼する私たちとなれるようお許しください。父の前で忠誠を尽くそうとした存在が多くの試練を受けたことを、この時間に感じさせてください。今日まで幾度も天を裏切ってきた先祖たちの子孫であることを感じさせてください。

6

私たちはこれまで悪魔の犠牲となり、天の道を阻むことに誰よりも先頭に立っていた姿であったことを悟り、恐れ多い気持ちを抑えきれず涙を流しながら、父の前に許しを求める敬拝を捧げられるようお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

お父様、この時間、ここに集まった聴衆を憐れんでください。彼らの心に悪魔が侵入しようとしているので、見分けてください。彼らが心の方向を定める灯台となってください。この時間に集まった全ての聴衆にみずから訪れ、その心を通じて体までも父の恩恵によって喜びの中で父の栄光を賛美し、全体を代表して父の前に敬拝することができる時間とならせてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

お父様、この日は聖なる日です。一週間の間に受けた傷が深いことを知っております。父の心情から離れて誤った場所で悲しみに沈んでいた全てのことを許し、みずから香油を塗ってください。お父様が恋しいと言える者に印を押す恩恵を、この時間、集まった聴衆にお与えください。

三位一体の神は、哀れな者を助けるために苦労されていることを知っております。父の憐れみを望み、自らの卑しさを嘆き、父の尊さを歌いたいとする者を見つけてくださることを知っております。今日、私たちの心がそのような父の尊貴さを知り、自らの卑しさを嘆くようにし、お父様が訪れてくださる恩恵を受けるにふさわしいものとなるように導いてください。

この日は聖なる日ですので、三千万の民衆を祝福し、全人類を祝福してください。天上にいる無数の聖徒たちも私たちを支え、喜びの敬拝を捧げられるように、お父様、みずから導いてください。特に地方に広がり、孤独な心情を抱きながら志を思い祈る家族たちが集まる場所々において、父の憐れみの手を引かないでください。愛の手で守り、終わりの日に残る労苦の山を越える際に疲れ倒れることがないようにお許しください。父の手を取り、最後まで耐え忍び進んでいき、お父様に捧げるいけにえとして受け入れてくださいますように。

7

困難の中で仕事を成し、悲しみの中で志を立て、失望の中でもその志を高く掲げることで、父の心に記憶される息子娘たちとなれるようにお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

この日を通して、私たちを父の特別な恩恵の懐に抱いてください。そして残された恩恵を約束し、勝利の日まで支えてくださいと、切にお願い申し上げます。この一時間を御心のままに導いてください。主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<祈祷(Ⅲ)>


お父様、御言葉に接するとき、2千年前のイエス様の御姿が恋しくなります。御言葉を伝えられたイエス様の前には荒涼とした世界が広がっており、自分を中心にし、自分を高めようとする群れがありました。そのような群れを見つめられたイエス様の眼差しに無限の悲しい心情が流れていたことを悟ります。


ユダヤ教団は教派同士で争い、教徒たちは互いに争う様子を見つめられたイエス様。自らの欠点は隠し、他人の欠点を暴き出して自分を立てようと必死になっていた当時の時代状況を振り返ると、確かに世と時代を背負って来られたイエス様の心が無限に悲しかったことを理解します。


それでも「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と叫ばれたイエス様の心情が思い浮かびます。求め、探し、叩くべき者は民族であり、教団であり、個人であったが、求めるべき者が求めることを知らず、探すべき者が探すことを知らず、叩くべき者が叩くことを知らなかったことを見て、イエス様は人間に代わって求めなければならず、人間に代わって探さなければならず、人間に代わって叩かなければならない立場におられたので、お父様、それが悲しいことでありました。


8


人間が見つけてくれることを切望して送られたメシアが、むしろ探さなければならない立場におられ、人々が迎えることを望んで天は長い歴史の道を準備してきましたが、人間から迎えられなかったイエス様の悲しい心情を、この時間私たちに感じさせてくださるよう、お父様、切にお願い申し上げます。


イエス様は地上の人間に接するとき、涙を流し嘆くしかない状況にありましたが、それでもお父様が祝福してくださる地となることを切望されました。イエス様のその御姿が今日私たちの目の前に現れて歴史を導き、私たちがその命じられる声を聞き、静かにその内に流れる天的な心情を慕い、共感して涙を流しながら敬拝する者たちとなれるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


今、私たちはお父様に向かって手を挙げ、裸のような姿で現れました。憐れんでください。私たちの心には父以外が存在しないようにお許しください。私たちの希望と欲望、そして一切の要求は父のものである以外にはないようにしてください。無限の父の心情に染み渡るその心を持って生き、その心を共感しながら生き、その心と共に戦いながら生きる息子娘となれるよう、切にお願い申し上げます。


お父様、ここに集まった聴衆を憐れんでください。自分の心と体が自分のものではないことを知りましたので、その心と体、そしてすべてを父のものとして所有できる主導的な権限が現れるように導いてください。この時間が父の息子娘たちとして認め、印を押すことのできる約束の時間となるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、この時間、お父様がお許しくださった御言葉を持って現れましたので、ここに共にいてください。与える者の心と受ける者の心に隔たりがないようにしてください。


9


一つの心で父の前に立つことをお許しくださり、人間同士の絆を結んで父の前に栄光をお返しすることができるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。すべてを御心のままに導き、すべてを御心の通りに現してくださることをお願いするとき、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


神の希望である実体としてこの地に現れた方がイエス様でした。そのイエス様が来られるまで、神は4千年という長い歳月を切なる心情と悲痛な心情で、数多くの預言者と多くの先祖たちを立てて歴史を導いてこられました。


神がこのように歴史を摂理してこられた唯一の目的は、希望の実体であるイエス様を立て、神とイエスが一つの起点で天の願いと歴史的な先祖たちの望み、そして全人類の願いを成し遂げることでした。その一瞬を願って天は歴史を進めてこられ、私たちの先祖たちは戦い続けてきたという事実を私たちは知っています。


このような立場に立たれたのがイエス様でした。神がイエスを見たとき、彼は神の唯一無二の独り子であり、この世界の万物と引き換えても代えられない貴重な存在でした。イエスが現れるとき、神が現れることができ、イエスが喜ぶとき、神が喜ぶことができ、イエスが栄光を享受するとき、それは天の栄光を代弁するものでした。彼がいなければ、天の御座も、霊界も、地上のいかなる万物もその価値を表すことができません。全体の中心となる価値ある存在がイエスだったのです。


このような天的な価値を持って来られたイエス、人間的に見ても、イスラエルの民が自分たちの先祖を誇り、自分たちの歴史を誇り、自分たちが選ばれた選民であることを誇っていましたが、イエスはその時までイスラエルの歴史上に現れたどの義人よりも尊い存在でした。


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彼を捨てては自分の命も得られず、彼を捨てては自分の教団も立てられず、彼を捨てては自分の民族も立てられず、彼を捨ててはイスラエルが望んでいた国も立てられない、なくてはならない天と地の中心存在でした。


天がこの方を人間に送ったのは、嘆くためではありませんでした。地がこの方を迎えて失望し、絶望するために送られたのでもありませんでした。天がこの方を通して喜ぶために送り、地の人間がこの方を迎えて喜ぶための中心存在として送られました。


それゆえ、イエスの一挙一動すべては天の栄光を描くものでなければならず、彼が生活の中で感じる感情は、歴史的な怨恨の条件を打ち破ることができる栄光の感情でなければなりませんでした。しかし、イエスの生涯はそのような生涯とはなりませんでした。


また、人間たちはイエスを迎えたその日から、誰よりも彼を栄光の座に迎え、誰よりも彼を敬い、誰よりも彼を称賛すべきでした。しかし、民族は民族として彼を離れ、イエスは民族を失う立場に立たされました。神は民族を守るためにイエスを送られましたが、そのイエスを失わざるを得なかったのです。こうしてイエスを失ってしまったことで、天の喜びも失われ、天国も失われてしまったのです。このような事実を私たちは知っています。


このようにあってはならないイエス様であったことを私たちは知るべきです。不幸に遭い十字架で亡くなられたイエス様は、そのような不幸を経験することなく勝利の栄光を備え、天と地が喜ぶことのできる一日を再び築くことを約束されましたが、その日が終わりの日であり、再臨の日であることを私たちは知るべきです。


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天から送られ地上に現れ、地上の生涯を経て霊界に行かれたイエス様は、神の歴史的な目的を成し遂げるために、今日まで父と聖霊と共に戦い続けておられます。そのイエス様を慕うべき私たちです。そのイエス様を再び迎え入れなければならない私たちです。そのイエス様と共に生きなければならない立場にいる私たちです。そのような私たちになるためには、神と共に生きることができなければなりません。神と共に生きることができなければ、イエス様と共に生きることはできません。それではどうすればよいでしょうか。神の希望を成就する者となり、イエス様の願いを成し遂げる者となり、人類の歴史的な願いを成し遂げる者となるべきです。そのような者にならなければ、栄光の姿で現れるイエス様の前に立つことはできないことを私たちは知るべきです。


それでは、このようなイエス様を迎えるために、私たちはどのような道を歩むべきでしょうか。それが問題です。来られるイエス様は天から地を訪ねてこられますが、私たちはそのイエス様を地上で迎えることはできません。人類を訪ねて来られるイエス様を、今日ここでただ迎えることはできないのです。


イエス様の事情を理解できる心情を持ち、イエス様が地上で成し遂げるべきことをすべて終えた後でなければ、来られるイエス様を迎え入れることはできません。そのイエス様を再び迎える日が、今日のキリスト教徒たちが望む再臨の日であることを知るべきです。


したがって、イエス様を迎えるためには地上で責任を果たさなければならないというのは避けられない条件です。地上で責任を果たした後でなければ、イエス様を迎えることはできないのです。ですから、今日皆さんにお伝えしたい御言葉のタイトルは「主が行かれた道を見習おう」です。「主が行かれた道を見習おう」というタイトルでお話しします。


天使がマリアの前に現れ、マリアが聖霊によって受胎することを予告しました。そのとき、マリアは「私は男を知らないので、そのことを引き受けることはできません」と拒否しました。しかし、再び「全能なる天が行うことであるから、聖霊を通じて受胎するだろう」という天使の言葉に対して、マリアは「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えました。マリアが「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えた瞬間、それは4千年の歴史の道程において、一介の若い女性が天に向かって歴史的な答えをした瞬間でした。


12


今日、私たちは主を考えるとき、しばしば主の十字架を思い浮かべ、栄光の復活を思い浮かべることが容易です。しかし、それ以上にマリアの身の上を考え、ヨセフの家族の立場を考えなければなりません。


4千年にわたって苦労しながら人間を探し求めてきた天の最後の一言がマリアに伝えられたとき、「主のはしためです。御心のままになさってください」と言ったマリアのその一言が、歴史を摂理してきた天の基盤を築いたのです。御心を持って来られるその存在を、マリアは誰よりも切に望んでいたということを、ここで私たちは考えざるを得ません。これを見て、私たちは純潔な乙女の心情でイスラエルの国に救い主が現れることを誰よりも切に望んでいたマリアであったことを推測することができます。


「主の御心のままになさってください」と言ったことから、マリアは天の隠れた御心が現れることを無限に望み、祈りながら生活していた人であることを知るべきです。


何よりも天の御心を考える基盤を通して、天が入って来られたことを知るべきです。それはイエス様だけでなく、預言者や先祖たちも同様でした。一人の預言者が生まれるためには、その預言者を迎えるための基盤が必要だったのです。


したがって、預言者たちが地上に生まれるためには、その預言者を抱くことのできる親が必要であり、その親がまず御心の基盤とならなければならなかったのです。


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マリアがイエス誕生の予告を受けた後、「主の御心のままになさってください。御心のままに成し遂げてください」と言ったように、この言葉は堕落した人間なら誰でも一度は言わなければならない言葉です。それはマリアだけでなく、生命の道を探し求め、天の道を探し求める人であれば「主の御心のままになさってください」と言える心が必要です。そのような一言の答えをしなければ、イエス様と生命の縁を結ぶことはできません。


イエス様はこのような基盤の上に来られました。イエスを身ごもったマリアは、胎児が育つにつれて誰よりも強く御心を考えました。この子が誕生するその日には、民族の願いである救い主が現れ、民族の怨恨を晴らし、民族の悲しみを清算することができると信じ、地上における神の御心が成し遂げられるその時間を誰よりも強く考えたことでしょう。そして、イエスは誕生されました。


もしヨセフの家族がいなかったならば、イエスはどのようにして生まれたでしょうか。乙女として子を宿したという事実が世間に知られれば、モーセの律法によって石で打たれて死ぬことが起こったでしょう。そのような事実は当時の社会的な環境と時代的な状況では容認されない違法中の違法であり、民族の恥中の恥として残る汚点でした。しかし、マリアとヨセフにはこのすべての環境を拒否する立場で御心を果たすための切なる心情があったため、イエス様を誕生させることができました。


このように、御心のみを考えながら歩んでいく彼らの歩みが、悪い世の中にぶつかるたびに、天は生きる道を切り開いてくださいました。イエスはこのような道をずっと歩んでこられました。エジプトの地に避難し、そこで3年の道程を経て、帰ってきてからは生計を維持するために大工の仕事をしていた父ヨセフを助ける補助者の一人として、黙々と生活しながら御心を成し遂げる一日を願い準備していたイエス様を、私たちは思い浮かべるべきです。


今日読んだ聖書の中に「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)という句がありました。この御言葉は、イエス様が新しい福音を持って開拓の道を歩み始めたとき、切なる心情で叫ばれた御言葉です。


14


イエス様は、その民族がメシアを迎えるべき立場であることを知っていました。誰よりも切なる心でメシアの実体を求めなければならない民族でありながら、求めることができない立場にある民族、誰よりも切なる心情で探さなければならない立場にあるユダヤ教団が、その立場を離れ探し求められないことを見ながら、イエス様は生活しておられました。さらには、天の門が開かれることを望み叩かなければならないユダヤ教徒たちが、叩くことを知らない状況を見つめながら生活しておられたのです。


天の御心が成就することを願う心は切なるものでしたが、その御心を成すための実体を探し、求め、叩く心が切実でない民族を見つめておられたイエス様は、遠からずして天の真の御心を知らない民族と関係を持ち、天的な御心を成そうとする心情を抱いていたので、一日、一時間、一秒も御心を考えなかったことはなかったという事実を、皆さんが知るべきです。


御心の実行者として来られたイエス様の心情は、マリアが御心に対して抱いた心情以上のものでした。ヨセフの家で生計のためにヨセフの仕事を黙々と助けていたイエス様の心情は、民族を見れば見るほど、民族に対する信頼が失われれば失われるほど、御心に対する心配をせずにはいられず、新たに覚悟せざるを得ない心情でした。イエス様にはこのような30余年の準備期間があったことを、私たちは知るべきです。


そのように御心を心配する切なる心情を抱き、他の人が知らない場所で天のために民族を代わって責任を果たすために尽力されたイエス様の生活であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも切なる心情で求め尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも心配する思いを持ち、天の門を叩くために絶え間なく尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。


イエス様は物心がついた後からは食べることも民族のために食べ、生活することも民族のために生きておられました。彼が何よりも心を痛めていたのは、天の父の御心を成すことでした。しかし、天の御心を成すために心を尽くされたイエス様の30余年の生涯を知り、イエス様を支え、求めた者はおらず、イエス様を支え、探し求めた者はおらず、イエス様を支え、その心中を叩いた者は当時一人もいませんでした。


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そのような環境であったため、哀れなイエス様となってしまったのです。天のために民族を代わって求めなければならない立場となり、民族を代わって探さなければならない立場となり、民族を代わって門を叩かなければならない立場となったのです。イエス様はこのようにして、上には天を代わって求め、探し、門を叩かなければならない立場に立ち、下には地を代わり、民族を代わって切実に求めなければならない立場に立たされました。また、切なる心情を抱いて探し求めるとき、民族の心情を叩き、民族の心を開かなければならない立場に立たされたのです。


そのような場所で、イエス様は天のために30余年を準備されました。そして「私を愛してくださる天よ、私を送ってくださったお父様、私を送ってくださったのは民族の進むべき道を示すためであり、私を送ってくださったのは民族の命を父と結びつけるためであることを知っています。民族の過ちと不足をお許しください」と祈られました。


不信と裏切りの民族を見つめておられたイエス様は、その民族が眠っているときも、享楽にふけっているときも、安らかに眠ることなく、休むこともなく、楽しむこともなく、民族を支えて天と結びつけるために戦われたのです。このような事実はイエス様ご自身だけが知っておられました。民族の中の誰一人として、イエス様の心情を慰める者はいなかったのです。


環境から孤立していたイエス様の心情は、御心の時を待ち望むにつれ、言葉にできないほどの焦燥感を抑えることができなかったでしょう。30余年が過ぎ、御心の実行の道を覚悟して進まれたイエス様の心情は、壮絶であったと言わざるを得ないものであり、形容することもできない心情であり、人間には理解し得ない切なる心情であったでしょう。このような心で御心を実行しようとされた公生涯の道を心配していたイエス様を、私たちは理解しなければなりません。


イエス様はこのように天を代表して来られ、全人類の救い主として全ての人を救うために来られましたが、救われるべき民族の中でそのイエス様の心中を理解して現れた人は一人もいませんでした。イエス様の心中はもちろん、彼の30年の苦労の道程も理解されませんでした。荒野での生活をし、民族を責任負う立場にあったバプテスマのヨハネでさえもイエス様に反対しました。


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このような悲しい心情で民族を見つめ、バプテスマのヨハネに一縷の望みをかけたにもかかわらず、ヨハネさえもイエス様を見放したとき、イエス様にはさらに大きな悲しみが加わったという事実を私たちは知っています。


民族の前に天の福音を持って現れるべき時が近づいているにもかかわらず、民族は行方をくらまし、民族の前に天が立てたバプテスマのヨハネもいなくなり、イエス様は人々の前に現れることができなくなりました。それで荒野で40日間の断食の道を歩むことになったのです。


今日のキリスト教徒たちは、イエス様にとっての40日間の断食期間が栄光の期間であり、イエス様に必ず必要な期間であったと考えていますが、そうではありません。イエス様が40日間の断食期間を過ごされたのは、イエス様の前に民族が消えたためであり、バプテスマのヨハネ一派がいなくなったためでした。さらに東方の博士たち、アンナ、シメオン、そしてイエスを受胎したヨセフの家のマリアさえも、イエス様の実践の道に出たとき、彼を理解できなかったからでもありました。地の主として来られたイエス様、全人類の命を救うために来られた天の皇太子であり、また全人類の救い主であるイエス様がこのように哀れな境遇になったということを私たちは知るべきです。


4千年の歴史を終わらせ、新たな天の祭壇を築くべきイエス様が築こうとされた天の祭壇は、栄光の祭壇であり、喜びの祭壇であり、勝利の祭壇でありました。しかし新しい祭壇を築くために立ち上がったイエス様は哀れな立場に置かれ、飢えるイエスとなり、悪魔の試練を受けるイエスとなりました。悪魔に試みられるその場面は、全人類が最も悲痛に感じなければならない場面です。イエス様が40日間飢えた後に悪魔に嘲弄され、その悪魔が提示した様々な試練の条件を受ける悲しみの時間は、本来は民族が経験すべき試練の期間であったのに、逆にイエス様の悲しみとなったのです。このことを考えると、イエス様は選ばれた選民であることを誇り、その民族を見限り、その民族を怨み、呪うべき立場にあったにもかかわらず、ご自身の飢えた身体を奮い立たせ、天の心情を抱き、民族のために悪魔と戦われました。


そのときイエス様が置かれていた場所は、イスラエルの民族も知らない場所でした。そのような場所で覚悟を決め、天の前に現れたときのイエス様の心情は、どのような悲しみの場所を通ろうとも、自分が来た目的と自分が抱いた父の御心に対する一片の心が変わることはないというものでした。


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本来の父の御心が、民族を通して全人類を救おうとするものであることを知っていたイエス様、その御心を尊重するイエス様であったがゆえに、飢えと裸の状態、そして襲い来るいかなる迫害と試練も、彼が30年余りの間待ち望んできた御心を打ち砕くことはできなかったのです。したがって、御心を抱いて現れるたびにイエス様は、天を代表してご自身が経験する悲しみと天が受ける悲しみを同時に感じざるを得ませんでした。そしてそのような場所で御心に対して一層固い決意をされたため、裏切った民族と裏切った人々を再び探し求めることができたのです。


イエス様は、ご自身が生きている間にイスラエルの民族が迎えてくれることを望まれましたが、それが叶わなかったため、逆に死んでから迎えられるイエス様となりました。民族がイエスを迎え入れなかったことによって、生きている場所で人類を救わなければならなかったイエス様が、死んでから救いの歴史を進めることになったのです。生きている実体のイエス様の心情を通して叩き、求め、探さなければならなかったのに、死んでから叩いているのが今日のキリスト教徒の運命であり、全世界の人類の運命なのです。このようになったのは、イスラエル民族の過ちによるものです。


では、神の悲しみとは何でしょうか? 神の怒りとは何であり、神の憤りとは何でしょうか? イエス様が生きている間に救わなければならなかった時を失ったことです。生きている間に探さなければならなかった時を失ったことです。生きている間に叩かなければならなかった時を失ったことです。生きている間に天の秘密を明らかにするためにその門を開けるべき環境を失ったことです。このすべてを失い、気づいて見てみれば、救い主であるイエス様はすでに霊界に行ってしまわれました。そうなると、イエス様を送った人間は、去られたイエスを求めなければならない運命となりました。去られたイエス様を探さなければならない運命となり、去られたイエス様の心を再び叩かなければならない運命となったのです。それゆえ、終わりの日にある今日、私たちはイエス様が去られる前に求めることを知り、去られる前に探すことを知り、去られる前に叩くことを知る人間を立てることができなかったことが神の悲しみであり、イエス様の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。


イエス様が去られたことにより、このような悲運の歴史が続いています。イエス様は実践の道で御心を抱いて立ち上がるとき、弟子たちに「狭い門から入れ」と勧められました。イエス様の歩みはそのようなものでした。


マタイ福音書7章の内容はすべてイエス様の生涯の全般的な事実を暗示的に表しています。求める場所、探す場所、叩く場所を経て御心を探し求めて歩まれたイエス様の道は平坦な道ではなく、険しい山々であり、栄光に満ちた大きな勝利の宮殿ではなく、狭い十字架の門であったことを皆さんは知るべきです。


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民族が信じず、民族が従わず、民族が見つめることもない立場に、民族が嫌がる立場に立たれたイエス様は少数の弟子たちを集めて「狭い門から入れ! 滅びに至る門は大きく、その道は広く、多くの人がそこに入って行きます。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける者は少ないのです」(マタイ7:13-15)と勧められました。この言葉は、イエス様と彼に従う弟子たちの状況がそうであることを指摘したものでした。この言葉は、イエス様が当時の社会環境とは反対の立場にある自分自身を例に取り、自分とその社会環境との中間に立つ弟子たちに語った言葉であることを私たちは知るべきです。


イエス様が民族の前に現れて実践の道を歩まれたとき、平坦な道を歩むことはできませんでした。ユダヤ教団が立ちはだかり、民族が立ちはだかり、バプテスマのヨハネが立ちはだかりました。それゆえ、彼に進むべき道があったとすれば、その道はすべての人が行きたくない道でした。その道にも門はありませんでした。道のない場所に道を開かなければならず、塞がれた壁に門を作らなければなりませんでした。このような道を歩まれたのがイエス様でした。


4千年の摂理の歴史の道のりで、天に通じる一つの門を立て、天と全人類がつながる道を開くために送られたイエス様、このイエス様をイスラエル民族が信じて受け入れていたならば、平和の道は開かれていたでしょう。そうであれば、4千年の苦労の末に築き上げたユダヤ教団は、神が往来できる大道となっていたことでしょう。また、天国に向かう民たちの出入り口となっていたことでしょう。


しかし、民族が反対したために民族の行く道が閉ざされ、民族の門が閉ざされ、教団が反対したために教団の行く道が閉ざされ、教団の門が閉ざされたのです。


ユダヤ民族に追い詰められ、ユダヤ教団に追い詰められ、自身の証人たちに追い詰められ、最終的には弟子たちにさえ不信されたイエス様は、人間として行ける最大の悲劇の道を避けることができず、歩まざるを得ませんでした。


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このようにして4千年の歴史の道のりで、天国へ向かう門は多くあるように見え、6千年の歴史を通して天国に至る門はさらに多く見えるかもしれませんが、イエス様が開かれた門はただ一つであり、その門はいまだにこの地上で開かれていないことを知るべきです。これを忘れてはなりません。


終わりの日にある今日、キリスト教信徒は多くいます。彼らは自分たちの信仰を高め、教派を立てて紹介し、主張していますが、彼らが進む道が天に至る道のように見え、彼らが案内する門が天国に至る門のように見えても、イエス様が生きておられた時に開拓されたその道ではなく、イエス様が生きておられた時に開かれた狭い門ではないことを私たちははっきりと知るべきです。


イエス様は3年間の公生涯で命をかけて戦われ、その道は十字架の道でした。死の道でした。血を流しながら敵に向かって祝福を祈る道でした。イエス様はその道を通り抜けて復活されました。このような道がイエス様が歩まれた道でした。イエス様が歩まれた道は、民族が裏切った道でした。イエス様が歩まれた道は、教団が裏切った道でした。


イエス様が歩まれた道は、親兄弟、さらには愛する弟子たち、さらに三人の弟子たちさえも裏切った道でした。その道は、イエス様を追って数多くの人類が歩まなければならない道でしたが、イエス様が歩まれた後、その道は閉ざされてしまい、イエス様が入られた門も閉ざされてしまいました。そして、使徒たちが歩んだ道だけが開かれているのがキリスト教です。


ですから、私たちは使徒たちが歩んだ道を歩まなければなりません。その道をたどり、どこへ行くのでしょうか? イエス様が歩まれた道をたどらなければなりません。その道をたどるためには、目的が明確でなければならないのです。


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その目的とは何でしょうか? それは父の御心を成就することです。父の御心がこうであるというその目的が明確であると同時に、その内容も明確でなければなりません。それがイエス様が歩まれた御心の道でした。この御心の内容と目的は、イエス様が33年間苦労して見つけた内容であり、苦労して立てた目的でした。その内容と目的は、30年余りの生涯を犠牲にして見つけた内容であり目的であったため、どんな災難が一度にイエス様を襲おうとも、死の壁が押し寄せようとも、それは否定できない御心として残されたのです。


そのような内容を持っていたイエス様であったため、今日私たちはイエス様が歩まれた道を歩かなければなりません。イエス様が狭く険しい道を歩まれたので、今日私たちもその後を追ってそのような道を歩まなければならないのです。私たちはそのような立場にあります。


それでは、イエス様はどのような道を歩まれたのでしょうか? 死の淵に立ち、死の波が押し寄せても「生きておられる神がいらっしゃるから、神は私に復活の権能を与えてくださるだろう」と信じ、すべてを蹴り飛ばして進まれました。イエス様には、死を乗り越え復活しなければならない何かがあったのです。それを通じて神が復活の権能を起こすことができたのです。


今日の私たち信仰者にとって重要な問題はここにあります。イエス様が悲しい世界を見つめながら求めていた心を感じる者、死の地を見つめながらイエスが探し求めた心を抱く者、滅びの頂点を走る世界を見つめながら叩いた心を胸に抱き、命を注ぎ込みたいという切なる心を持つ者たちでなければなりません。このような心を持つ者たちが天の望む目的を心に抱き、この地に対して戦う覚悟を持って立ち上がらなければ、天が私たちをイエス様が歩まれた道に導くことはできないでしょう。そして、私たちはイエス様が通られたその門に入ることはできないのです。


今日、終わりの日の信徒たちは歴史的な怨恨を晴らさなければならないことを私たちは知っています。2千年前に選ばれた第一イスラエルが選ばれた本来の目的を達成できなかったために、彼らは選民権を失いました。しかし、イエスが宣言された真理によって、民族を超えた全世界のクリスチャンたちは第二イスラエルの選民権を与えられることになりました。この第二イスラエルの選民の権利を持つ終わりの日にあるキリスト教信徒たちは、天を裏切ったイエス様当時のイスラエルのようにならず、再臨される主の前で失われた第一イスラエルに代わる第二イスラエルにならなければならないのです。


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それでは、イエス様が霊界で苦労しておられることは何でしょうか? この地に来られたとき、実体を持って第二イスラエル王国を建設できなかったことが嘆きの内容であるため、イエス様は2千年の間、聖霊と共に全人類を動員して第二イスラエルの選民権を成し遂げてこられたのです。


イスラエルの選民権が形成されたらどうするのか? イスラエル王国を建設しようとしているのです。したがって、終わりの日の聖徒たちは十二使徒の門を経てイエスが入られた門を通過しなければ、天国の民になることはできません。終わりの日の聖徒たちの前に開かれている天国の門は十二使徒の形で示されています。したがって、終わりの日の聖徒たちが天国に入るためには、この十二使徒の門を通らなければなりません。その方向に進まなければなりません。それがキリスト教です。


しかし、今日の世界のキリスト教徒には無数の門が開かれています。無数の教派に分かれています。彼らは自分たちが天国を紹介する門の使命を果たしていると豪語しています。しかし、天の原則はそのようにはなっていません。


イエス様を中心とする十二使徒によってキリスト教が始まったので、終わりの日の聖徒たちはその十二使徒の門を通らなければならない運命にあります。6千年の終末に見つけられるべきイエス様当時の第一イスラエルの形である第二イスラエルにならなければなりません。


では、皆さんはどの教派に属し、どの門を通っていますか? 皆さんはまず、十二使徒の一つの理念の印を額に受けなければなりません。そうして初めてイエス様の門を通過することができます。


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今や全世界に広がるキリスト教徒たちの前に、イエス様当時の使命を代行し、その時代の使命を実体として完結しなければならない世界のキリスト教徒たちの前に、十二使徒の門を探さなければならない時が来るでしょう。無数に分かれた宗派は、天地の運勢に従って、自分たちも知らずに統一理念の形を備えた環境圏内に入っていきます。したがって、今日、全世界に広がるキリスト教徒たち、そしてその他の教派に属するすべての人々は、自分がどの支派に属しているのかを知り、イエス様の十二使徒の列に入らなければならない時が来るということです。


モーセが60万人を率いて十二支派と七十長老を立てたのと同じように、選民であるイスラエルを収拾するためにこの地に来られたイエス様もまた十二弟子と七十門徒を立てました。それによって民族的なイスラエルの理念を世界的な理念にしようとされましたが、その御心が成就しなかったため、今日の全世界のキリスト教徒たちは第二イスラエル圏内にいます。


第二イスラエル圏内にいながらも、彼らは自分が第二イスラエルであることすら知らず、自分がどの支派に属しているのかも知らない、支派の列を失った人々となってしまいました。そのような世界のキリスト教徒たちになってしまいました。


イエス様は十二使徒によって選ばれた民族を収拾し、十二支派の列を再び整えようとしましたが、失敗して帰られました。そのため、イエス様は世界のキリスト教徒たちの前に再び十二支派、七十門徒、百二十門徒の形を地上に立て、天の摂理と合致させる使命を持って再び来られるのです。


したがって、今は皆さんが使徒の門を通り、イエス様の門を通った者を探さなければならない時です。この地に真の聖徒がいるとしても、どんなに信仰の深い聖徒がいても、「あなたはどの支派か?」と尋ねられたとき、「私はどの支派だ」と自信を持って答えられる一つの支派、一人の指導者を持っていないならば、天国建設の理念の時代に参加することはできません。


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したがって、終わりの日には理念や一つの民族の前において自分の位置が明確でなければ曖昧な人になってしまいます。どちらからも干渉されることのない立場に置かれるのです。


皆さん! 今の時代は教派が問題ではなく、皆さんが共に集まるべき時です。終わりの日とはどのような時かというと、6千年の歴史の道程において善なる人々を集める人類歴史の終末時代の収穫期です。収穫期であることを知るべきです。


これまでは一つの畑にさまざまな穀物を植える時期でした。穀物を植えるときは一つの畑にさまざまな穀物を植えることができましたが、収穫期には同じ種類の穀物だけを一つの倉に入れなければなりません。今は収穫期なのです。


イエス様が当時来られて成すべきことは何であったのでしょうか? それはイスラエル十二支派の列を再び収集して天国の倉に入れることでした。しかし、その使命を完遂することができなかったために、去りながらこれを再び実現するために立てられた再臨の日が約束の日であるのです。その日を前にした地上の聖徒たちには、ユダヤ教が問題ではありません。サドカイ派教会が問題ではありません。本来の支派と本来の指導者を探し求めなければならない時です。


そうするためには、過去のどのような理念、慣習的な節操、伝統的な法、これまでの習慣的なすべての観念を拒否し、新たな面で覆すことのできる何かを持たなければなりません。そうでなければ、今日の皆さんは第一イスラエル時代であったイエス様当時の時代と同等の世界的な理念の時代を超えることはできないでしょう。


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そこで今日、心の合う聖徒たちは分かれていきます。教派は次々に分裂しています。外面的には統一の形を叫んでいますが、内面的には分裂の形を備えていっています。外見は統一されているように見えても、内側は分裂しているのです。これを内面的に収集する時が来るのですが、その時が再臨の時代です。


内面的に収集する時が来れば、外面的な統一の形が反旗を翻して現れるでしょう。これは避けられない事実です。一つの種の中から芽が出るとき、その殻は逆に割れて落ちるのと同じ現象です。


種の実と命の芽は異なります。それと同じように、私たちに必要なのは聖書そのものではありません。聖書の内容にある命が必要です。イエス様ご自身が必要なのではなく、イエス様の中にある神の御心が必要なのです。問題はそこにあります。


では、イエス様が去られるときに望まれたことは何だったのでしょうか? ご自身の身体が犠牲になることを意に介さず、ただ御心が成就することがイエス様の願いであり目的でした。イエス様が語られたことは、人々に命を与え、彼らが生命体を築いていくようにすることでした。そこに目的があったのです。ですから、今日私たちが求め、叩くべき時が来たのです。


イエス様は十二使徒を立て、モーセが築いた十二支派の権限をそのまま継承させるべきでしたが、それができませんでした。それがイエス様の悲しみでした。


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また、生きて天の前で求めなければならなかったイエス様がそれを果たせず、生きて天を探さなければならなかったイエス様が天を探せず、生きて天に向かって門を叩かなければならなかったイエス様が天に向かって門を叩けなかったため、終わりの日に全世界のキリスト教徒たちは生きてイエス様に求めなければならない時が来ます。生きてイエス様を探さなければならない時が来ます。生きてイエス様の心の門を叩かなければならない時が来るのです。神の願いもこれであり、イエス様の願いもこれです。


その場所に入るためにはどうすればよいのでしょうか? 落ちたのだから上がらなければなりません。上がるためにはまず使徒の門を叩かなければなりません。今、全世界のキリスト教徒たちの前に、イエス様当時に倒れた使徒的な姿が現れる時が来ました。全世界のキリスト教を収拾し、十二支派の代表的な形を備える三使徒の姿が現れる時が来ました。


使徒の中の使徒であり、弟子の中の弟子であるこの三人の弟子は東の門を代わりにしました。天は天国の門を象徴し、東西南北にそれぞれ三つの門を示されました。東の三つの門、南の三つの門、西の三つの門、北の三つの門です。そして、イエス様を中心とする三人の弟子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネは東の門でした。そのため、キリスト教はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教、ヨハネ的キリスト教に象徴され、旧教はペテロ的キリスト教です。ペテロは信仰を象徴し、ヤコブは希望を象徴し、ヨハネは愛を象徴します。縦に見れば、キリスト教の歴史はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教が現れ、ヤコブ的キリスト教が新教です。


では、終わりの日に求められるものは何でしょうか? それはヨハネ的キリスト教です。イエス様は「ヨハネは死なずに主を迎える」と言われました。ヨハネは殉教しませんでした。イエス様は終わりの日にヨハネ的キリスト教が新たに現れ、主と会うことになると予見して、そのように言われたのです。ヨハネはイエス様の胸で可愛がられ、深い愛を受けました。ヨハネは愛を象徴していました。ですから、ヨハネ的キリスト教は愛のキリスト教であり、終わりの日にはこのヨハネ的キリスト教、愛のキリスト教が現れなければならないのです。


このような事実が示されているのに、未だにキリスト教徒たちは自分たちがどの門を通るべきかを知りません。ペテロ的な門も良く、ヤコブ的な門も良いのですが、私たちはヨハネ的な門、愛の門を通って求めるべきです。この愛の門はイエス様が正面から見つめた門でした。神はその門を見つめ、6千年の間戦い、イエス様もその門を見つめて2千年の間戦ってこられましたが、歴史的な希望の門はいまだに開かれていません。


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それで天はこの門を開くことのできる代表者を立て、約束を果たそうとされました。これが、御言葉を成し遂げるために花嫁という名を立てられた理由です。


では、再び来られる主の前で世界の人々はどうすればよいのでしょうか? 祈らなければなりません。「あなたが地上に来られて残された悲しみがこれであることを知りました。生きている間に解放されなかったその恨みの曲折がこれであることを知りました。歴史の怨恨を背負い、悲しみながら戦い、どれほどご苦労されたことでしょうか?」とイエス様を慰める者となるべきです。


2千年前にイエス様を裏切った使徒に代わって、生きている使徒、裏切る前の使徒たちのような聖徒にならなければ、歴史的な人物、歴史的な救いの完成者となるべき人類、救いの摂理を完遂すべき人類は天の前に顔を立てることができないことを知らなければなりません。


終わりの日の再臨の日を準備し、待ち望んでいる今日の世界のキリスト教徒たちは、ゲッセマネの園とカルバリの山でイエス様を知らないと言った三人の弟子のようにならず、教団を統率し、多くの聖徒たちを胸に抱き、イエス様に代わって祈り、イエス様の十字架の山も代わって越えることのできる弟子たちになるべきです。教会はそのような集まりであるべきです。


宗教の歴史は復帰の歴史だと言われました。イエス様は「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」(黙示録22:13)と言われました。アルファとオメガという言葉は堕落によって生まれた言葉です。今日の人々がそれを永遠性として語るのですか? 彼らが言うのは永遠性ではありません。堕落という言葉が生まれたためにアルファが生まれ、復帰して再び戻るオメガという言葉が生まれたのです。イスラエルの国に来られたイエス様が成し遂げるべきアルファ的な理念が、終わりの日の聖徒たちのオメガ的な理念として収められなければ、イエス様は現れることができません。


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イエス様は神の願いであり、人類の願いです。神の喜びであり、人類の喜びです。しかし、彼のアルファ的な理念がオメガ的な理念として終結する前には、喜びの姿で人類の前に現れることはできません。もしそのようなイエス様として現れないならば、イエス様は再び悲しみの姿で現れる運命にあることを知らなければなりません。これを知らないのです。自分勝手な天国は建設されません。自分勝手な信仰観念、自分の主張、自分の理念では天国の心情を通じることはできません。


そのため、地上の聖徒たちはまだイエス様が開かれたその門を通っていません。もしその門を通っていたならば、花嫁となっていたでしょう。ですから、マグダラのマリアがイエス様を抱きしめようとしたとき、阻まれたのです。「あなたを使徒に立てたのではないので、使徒の門を通って来なさい」ということです。天の法はそのようになっているのです。


そのため、今日私たちは全世界の人類の前に、使徒のような使命を持つ者がいるかを探さなければなりません。今がそのような者を探すべき時です。皆さん! 初代教会は異言を話し、霊的な歴史があり、予言があり、様々なことが起こりました。このように初代教会で霊的な歴史が多く起こったため、その内容を知らない無知な人々が霊的な現象にぶつかり、混乱が生じたため、それを防ぐために「聖書の言葉が最も重要だ」とされました。ですから、聖書にもこのような言葉があります。「終わりの日には私の霊を多く注ぐであろう」(使徒行伝2:17)。そのため、初代教会で起こった現象が終わりの日のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、邪教だ、異端だと言われる人々が多く現れるのです。私たち統一教会もその中の代表的な一員です。


霊の注ぎを受けた者は、あえてそのようなことをすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださいます。彼が目を開けば霊界を見、彼が行動すれば霊界の人々の行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは全く異なります。狂った人のように見えます。かつてイエス様も賢い人のように見えましたか? 当時の人々から見れば、愚か者でした。


今後このような霊的な現象が広がり、民族を席巻し、教団を席巻するでしょう。


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そのため、今日世界的に原因不明の精神系の患者や神経系の患者が急増しています。恐怖の世界、不安で焦燥感のある世界が近づいています。これは、神の子であるイエス様が焦燥感と不安感、興奮した心情を持って一生を過ごし、御心に向き合われたからです。だからこそ、世界的な運命がそのように広がっているのです。


その結果、最終的には方向を見つけたくても見つけられず、真実が偽りのように見え、偽りが真実のように見える現象が起こります。偽りが優勢であり、真実が劣勢になる時代、偽りが繁栄し、真実が言葉にできないほど微弱な状態になる時代が来るのです。私たちはそのような時代を通り越さなければなりません。


今日が終わりの日であるならば、世界的なイスラエルとして現れたキリスト教、つまり第二イスラエルを収集すべき十二使徒はどこに行ったのか、十二使徒を統率する一人の主人公メシアはどこに来られるのかということが、意識あるクリスチャンたちが解決しなければならない重大な問題です。


イエス様に従った弟子たちが四方に散ってしまったので、これを復帰するためには来たる主を迎え、ゲッセマネの園での祈りがこの地に再び世界的に現れなければなりません。地上のどこにおいてもゲッセマネの園での祈りの声を聞くことができる聖徒であるべきです。そしてその後に残された使徒たちが祈っていたその声を聞くことができる者たちでなければなりません。そのため、最近では自らをペテロだ、ヤコブだ、ヨハネだ、アンドレだと言う人が多く現れます。それはノアやアブラハム、イエス様の十二使徒と同じような支派の列がないためです。


私たちは十二使徒の中でも特に使徒中の使徒である三人の弟子、そしてその三人の中でもヨハネを見つけなければなりません。それによって私たちは第一の復活に参加できるのです。


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願いが成就する日を望みながら戦ってきたイエス様が三人の弟子を伴って祈っていたゲッセマネの園を懐かしむ祈りの時間を、皆さんは持ったことがありますか? イエス様は眠らずに血の汗を流して祈っていたのに、三人の弟子は眠りこけていました。


イエス様の心情を理解していなかった彼らは、イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかかるとき、皆裏切ってしまいました。


ですから、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエス様に代わって血の汗を流しながら祈る者たちを探すべき時が来ました。


花婿であるイエス様が人間のためにそのように行かれたのならば、その心情を理解するために私たちはどうすべきでしょうか? ユダヤ教団に追われて十字架を背負われたイエス様が敵に対して祝福を祈られたように、世界のキリスト教徒たちに追われる十字架を背負い、彼らのために祝福を祈ることができる一つの集まり、一つの群れが必要です。それは誰でしょうか? それは異端者たちです。イエス様と同じ異端者です。彼らはイエス様のように民族の前で反逆者であり、主義と思想において異端者であり、既成観念の破壊者です。そのような動きが現れなければ、世界は新たな方向を見つけることはできません。


既成宗教を持ってしては、皆さんの心に覆い被さっているすべての暗雲を取り除き、人生の変革をもたらす霊魂の解放運動を引き起こすことはできません。どのような論理、どのような哲学的思想を通しても心の変革を起こすことはできません。それらの手段を用いても何千年経っても無理です。


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全人類は科学万能を叫び、それによって世界平和が築かれると思いましたが、それも違いました。宗教を興し、世界の民を救うと思いましたが、神の選民を通じて失われた民を救うと思いましたが、それも違いました。ここに確かな答えがないのです。


そのような状況において、ただ一つ必要なのは、黙って十字架にかけられながらも人類のために祝福を祈ったキリストの姿です。死を超越し、命への執着を捨て、自分の希望のすべてを捨てる場面でも、その希望を敵の前に残して去られたそのような姿が必要なのです。


イエス様は「行ったところから戻る」と言い、「アルファでありオメガである」と言われましたので、キリスト教の終末時代にはイエス様の姿に似た花嫁が現れなければならず、十二使徒も現れなければなりません。ここがその場所であることを皆さんは知るべきです。


しかし、今日の世界のキリスト教にそのような人々が現れたとしても、少し間違えれば昔のイスラエルの道を繰り返す現象が起こるでしょう。彼らが歩んだ足跡の道を避けようとしても避けることはできないでしょう。だからこそ、今日の全世界のキリスト教徒たちは目覚めなければなりません。イエス様と共にゲッセマネの園で目を覚まし祈るべきです。イエス様と共に十字架にかけられるべきです。


胸に刻まれた天的な悲運がイエス様の死によって生じたので、自分自身もそのような天的な心情を抱いて天を慰め、「私はこのような場所でイエス様と共に死ぬとしても行きますので、私を受け入れてくださり、その心情に刻まれた怨みを晴らしてください」と言える存在を求めるべきです。


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終わりの日の聖徒たちはそのような同志、そのような友、そのような指導者を探すべきです。地上に来られたイエス様、求めれば与えられ、探せば見つけられ、叩けば開かれることができたそのイエス様に再び会うことができる喜びの時が万人の前に開かれていることを知るべきです。


今日、既成教団が分裂する現象を見ていると、それが命の足場にはなり得ないことを直視することができます。ここに志ある指導者、天の心情を抱いた青年男女は奮起すべきです。今日の既成勢力に対して奮起しなければならないのです。


イエス様はこのような立場で「偽預言者を警戒せよ」(マタイ7:15)と言われました。偽預言者を警戒せよと言われた偽預言者とは誰だったのか? イエス様に従った弟子たちではなく、イエス様に反対したユダヤ教団、イスラエルの国でした。


今日、社会の発展状況はそのようなコースを辿っています。イエス様は偽預言者を警戒せよと述べ、外見を飾る者たちに試練を与えて打たれました。また、外見と形式に流れるユダヤ教を打破する先鋒に立たれたイエス様は、ゲッセマネの園を経てゴルゴタの丘で敵に対して祝福を祈られました。それは悪魔のためではなく、悪魔を屈服させて悪魔の手にある人々を取り戻すために祝福を祈ったのです。悪魔の手にある彼らに希望をかけ、祝福を祈ったのです。


今日のキリスト教は既成勢力を中心に形式主義に流れています。志ある指導者、青年男女がいるならば、命を失ったそのようなキリスト教信者に教会を任せることはできないという運動が必ず起こるでしょう。「牧師や長老に教会を任せられない。私たちの教会は私たち信者で任せよう」という運動が起こります。その時が来たら終わりであることを知ってください。その時が来たら終わりです。だからこそ牧師の時代が過ぎ、長老の時代が来ます。この長老の時代には様々な長老が現れ、活躍します。この時代が過ぎると執事たちが活躍します。その後、一般信者たちが活躍する時が来たら、それが終わりであることを知ってください。


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歴史を汚し裏切った者たちを救うために来られた方が、歴史的な指導者であったイエス様です。しかしその指導者を引きずり、十字架にかけて殺したのはイスラエルでした。天はこれをはっきりと知っています。今こそ平民を中心に解放運動を起こすべき時です。第一次世界大戦後には上流階級が台頭し、第二次世界大戦後には中流階級が台頭し、現在は下層階級である労働者や農民が台頭する時が来ましたが、信仰も同様です。


今、全世界に広がるキリスト教徒たちは、どの指導者も指導者として信じず、自分の良心を指導者として再び見るべき時が来たのです。どの指導者を前にしても求めるべき時が来たのです。「求めなさい、そうすればあなた方に開かれるであろう」(マタイ7:7)と言われた御言葉は、天上で必要な御言葉ではありません。地上で必要な御言葉です。神がイエス様を地上に送られたのも、天国で必要であったからではありません。天国はそのままでも存在できますが、地上で必要であったからこそ送られたのです。


歴史がこのようにして滅びたため、天はこの滅びた歴史の怨みを晴らすために立ち上がる勇者を待ち望んでいます。では、新しい時代の勇者とは誰でしょうか? 初代教会に戻り、かつてのように使徒の心に燃えることができる青年男女、主が鞭打たれるのを見て代わりに打たれることができる青年男女です。今日、腐敗したこのキリスト教を見て自分の体が裂け、鞭を受けても責任を取るという青年男女です。したがって、そのような青年男女が団結して新しい指導者を求める日が終わりに訪れるでしょう。遠くないうちに韓国の教会はそうなるでしょう。


今日、キリスト教の団体は多くあります。世界的なキリスト教団体であるNCCやWCCなど、外面的なものはたくさんあります。しかし、内面的には何もありません。この内面的な問題を解決するためには、イエス様の心情に燃え、無知なネロ皇帝の圧政の下でも燃え上がる心情で前進することができた聖徒たち、そのような天の青年男女が必要です。そのような天の勇者たちが必要なのです。このような現象がこの終わりの日に実証的に起こるとすれば、クリスチャンたちはどうすべきか? これをもう一度考える必要があります。


ルネサンスが古代のヘレニズム文明を復興し、人本主義思想を開拓したように、今日私たちは2千年前のキリスト教を回想し、イエス様の神本主義による天国を建設しなければなりません。中間の橋は必要ありません。今の時は終わりの日です。だからこそ奇妙な現象が起こっています。何かというと、長老や統一教会などが現れています。皆さんはこれを霊的に分析できるようになるべきです。これが皆さんの使命として残されています。

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