私の知識の中には道元がいた。
正法眼蔵があった。
辞書を引くときの言語としてだけ存在している言葉。
ただの言葉。言語はあるが意味はない。
鎌倉時代の禅僧です。曹洞宗の開祖です。
テストなら満点の回答。
何年か前のお話。
輪島市M町にお寺がある。
曹洞宗のお寺である。勉強会に参加した。
道元禅師「正法眼蔵」…なかでもとりわけ有名な「現成公案」を初めて読んだ。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、
自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。」
意味が理解できない。
なのに何故か心にひっかかる。
長嶋監督と補欠選手の例にたとえて感想をいった様な記憶がある。
「まんまる意訳」
仏教をならう、つまり学ぶという事は、自分自身を学ぶという事である。
自分を学ぶという事は、自分を忘れるという事でもある。
自分を忘れるという事は、万法[物質的、精神的、世界の森羅万象も含む]
全ての存在、あらゆる法則から、自分の目を通して直接教わるという事である。
この事が学ぶという事の本質であり、学ぶためにはとことん、どん底まで謙虚にならなければいけない。
それにしても、現成を公案するってどうだろうか。
毎日、毎日、「金たわし」で、この身をこすられているようなものですよ。
現実、今にはっきりと表れている問題。
その問題にありのままに向き合う。
凡夫はため息で嘆く。無理。無理。
しかして凡夫が凡夫ゆうてもあかん。しごく当たり前の事を言うでない。
納得した瞬間であった。
言葉には力がある。
言葉の力は問題を照らす、灯台の灯りでもあると思う。
正法眼蔵があった。
辞書を引くときの言語としてだけ存在している言葉。
ただの言葉。言語はあるが意味はない。
鎌倉時代の禅僧です。曹洞宗の開祖です。
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何年か前のお話。
輪島市M町にお寺がある。
曹洞宗のお寺である。勉強会に参加した。
道元禅師「正法眼蔵」…なかでもとりわけ有名な「現成公案」を初めて読んだ。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、
自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。」
意味が理解できない。
なのに何故か心にひっかかる。
長嶋監督と補欠選手の例にたとえて感想をいった様な記憶がある。
「まんまる意訳」
仏教をならう、つまり学ぶという事は、自分自身を学ぶという事である。
自分を学ぶという事は、自分を忘れるという事でもある。
自分を忘れるという事は、万法[物質的、精神的、世界の森羅万象も含む]
全ての存在、あらゆる法則から、自分の目を通して直接教わるという事である。
この事が学ぶという事の本質であり、学ぶためにはとことん、どん底まで謙虚にならなければいけない。
それにしても、現成を公案するってどうだろうか。
毎日、毎日、「金たわし」で、この身をこすられているようなものですよ。
現実、今にはっきりと表れている問題。
その問題にありのままに向き合う。
凡夫はため息で嘆く。無理。無理。
しかして凡夫が凡夫ゆうてもあかん。しごく当たり前の事を言うでない。
納得した瞬間であった。
言葉には力がある。
言葉の力は問題を照らす、灯台の灯りでもあると思う。
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