まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

出会い…心の中に灯りがともる言葉

2013年07月02日 | 日記
私の知識の中には道元がいた。
正法眼蔵があった。
辞書を引くときの言語としてだけ存在している言葉。
ただの言葉。言語はあるが意味はない。
鎌倉時代の禅僧です。曹洞宗の開祖です。
テストなら満点の回答。

何年か前のお話。
輪島市M町にお寺がある。
曹洞宗のお寺である。勉強会に参加した。

道元禅師「正法眼蔵」…なかでもとりわけ有名な「現成公案」を初めて読んだ。

「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。
  自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、
  自己の身心、および佗己の身心をして脱落せしむるなり。」

意味が理解できない。
なのに何故か心にひっかかる。

長嶋監督と補欠選手の例にたとえて感想をいった様な記憶がある。

「まんまる意訳」
仏教をならう、つまり学ぶという事は、自分自身を学ぶという事である。

自分を学ぶという事は、自分を忘れるという事でもある。
自分を忘れるという事は、万法[物質的、精神的、世界の森羅万象も含む]
全ての存在、あらゆる法則から、自分の目を通して直接教わるという事である。
この事が学ぶという事の本質であり、学ぶためにはとことん、どん底まで謙虚にならなければいけない。


それにしても、現成を公案するってどうだろうか。
毎日、毎日、「金たわし」で、この身をこすられているようなものですよ。

現実、今にはっきりと表れている問題。
その問題にありのままに向き合う。
凡夫はため息で嘆く。無理。無理。

しかして凡夫が凡夫ゆうてもあかん。しごく当たり前の事を言うでない。

納得した瞬間であった。

言葉には力がある。

言葉の力は問題を照らす、灯台の灯りでもあると思う。
















 

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