2006年5月に書かれたものです。
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人間、人生において困難に出くわしたとき、とりわけ、
命の危機や、その可能性に瀕したとき(たとえば、癌の
診断)特に周りの人間からのサポートが必要であることは
一般によく知られている。
命の危機とまではいかなくても、リストラ、離婚、失恋、
転職、犯罪の被害、大きな失敗、大きな喪失など、
人生には、様々な問題が存在するもので、そうしたときに、
私たちは、大きな決断を迫られるし、不安や焦燥感や恐怖や
怒りや悲しみや苛立ちと言った、様々な感情で圧倒される
ことも多い。
そうした時に、多くの人がしばしば取る行動として、
気分転換に仲間と買い物に行ったり、飲みに行ったり、
イベントに参加したり、いろいろな趣味や習い事や
仕事を持って、生活を忙しくして気を紛らわせたり
することが挙げられる。
また、逆の立場で、周りの人間が、そのようなピンチに
瀕しているときに、我々はしばしばその人を気遣って、
遊びや飲み会に誘い出したり、いろいろな方法で、こころの
サポートを試みたりする。
もちろん、こうした気分転換の時間は人が人生の
危機に瀕しているときにどうしても必要な、大事な
時間だけれど、ここで人々がとかく忘れがちなことがある。
それは、「一人になる、まとまった時間」だ。
これは、ある乳がんの生存者達とその精神世界における
研究によるものだけれど、乳がんと診断され、途方もない
「不確かさ」に見舞われた女性達が、診断から治療の
過程をスムーズに経過する過程で取る一つの戦略として、
「集中した一人の時間」というものがしばしば見受けられる。
乳がんの女性達の多くは、母親であったり、妻であったり
して、普段、「周りの面倒を見る人」という役割が
周りから期待されていて、自分たちでもそのようなロールを
アイデンティティの一つとしているものだけれど、
精神的に圧倒されている時期に、そうした役割を傍らに
置いて、一人の時間を確保する女性は多い。
これは、一人になることで、自分の問題と向き合い、
こころの整理をして、人生や、自分自身を深く省みて、
問題を徐々に受け入れていくのにとても大切な時間だ。
可能であれば、そうしたとき、人は物理的に一人の
時間を設けるけれど、それが難しい場合は、表面的に
日課をこなし、人々とも接しながら、精神的に、一人
静かに考える時間の方を大切にするという。
仕事をしていたり、結婚している女性が一人の時間を
持つのは難しいことだけれど、このようにして、この
研究の女性達は、こころの整理をして、治療過程をうまく
乗り越えてきたという。
言うまでもないけれど、このように、一時的に、
集中して一人の時間を持った後、彼女達は、もとの
人間関係の中に、より適切な形で、精神的なヘルプを
求めていけるようになる。
「この人は何を今更そんな当たり前のことを
書いているんだろう」
と思う方もいるかもしれないけれど、現代人は特に、
この、「一人で居るべき時間」と、「こころの繋がり」の
時期やタイミングをうやむやにしがちな傾向があるように
思えることが多いのだ。
一人でいるのが不安だから、また、問題に直面したく
ないから、なんとなく忙しくして、また、付き合いの時間を
持って、回避し続けたり、また、周りに困っている人が
居るとき、
「或いはその人はいま一人の時間が必要なんじゃないかな」
と推し量って、そっと見守ってあげたり、待ってあげたり
することをせずに、「助けたい」、「力になりたい」という
自分の欲求を優先して、無理に外へ誘い出してしまったり、
考える時間を邪魔してしまったり、そうした様子が非常に
しばしば見受けられるように思えるのだ。
周りの人間の存在や、人々との繋がりを本当の意味で
楽しんだり、感謝したりするには、時に、「一人になる
勇気」も必要ではないだろうか。そして、周りの人間の、
「一人の時間」も尊重していくことが、これからの時代、
ますます重要になっていくような気がする。
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Reference
Albaugh (2003). Spirituality and life-threatening
ilness: a phenomenologic study.
Oncology Nursing Forum, 30,4, 593-598
人間は、文化や民族や風習をを超えたところで、
花を愛する存在だけれど、それはどうしてでしょうか。
原始時代といわれる時から、私たちの祖先は、
お墓に花を供えていた証拠も知られていますね。
入院している知人を見舞うときに、私たちは
花束を持って行くけれど、実はこの花束には、
かなり現実的な効果もあります。
花束をもらった患者は、病気からの回復が促進され、
精神的にも向上することは、いくつかの研究によって
支持されています。
世界中の人たちが、花を愛しています。
別に食べられるわけでもないのに、不思議じゃ
ありませんか。
(書いていて菊の花が食べたくなりました。
それから、桜茶が飲みたい)
「そんなのきれいだからに決まってんじゃん」
と言われると確かにそれまでなのだけれど、
これには、進化心理学的な仮説もあるんです。
その昔、狩猟などが食糧の全てだった時代、
木の実も果物も野菜も何もない冬は、私たちの
祖先にとって、それはそれは過酷な時でした。
花は、そんな過酷な冬の終わりを示唆し、
緑や果物の到来を知らせる、とても大事なサイン
だったわけです。その時から、人類は、花を見ると
こころが明るくなり、その条件反射的な感情が、
長い時代をかけて、私たちの脳の一部に
組み込まれた、という説なんです。
そういうわけで、私たちの祖先は、花によって、
希望に満ちた春の到来を知らされていた、故に
花が好きになった。現代人が花を好むのは、その
進化の過程のなごりである、というお話でした。
これが本当かどうかは、推測はできても、特定する
ことは誰にもできないわけだけれど、感慨深い説だなと
思うんです。そこに、何らかのロマンのようなものを
感じたりします。
今日は神経心理学系のクラスでプレゼンをしたけれど、
簡単なプレゼンなのに、終わるとどっと疲れがでるから、
いかに自分にとってプレゼンがStressfulなものかが分かる。
プレゼンは、その準備段階や、最中よりも、終わってからの
余韻のほうが自分にとっては厄介だ。
今日のプレゼンは、境界性人格障害の、
神経心理学的特徴の、「感情の調整不全」についての
ものだったのだけれど、感情の調整不全とは、簡潔に
述べるならば、「一般の人口」と比べて、
1)外的刺激に対する感情の敏感性、
2)その感情の強度、そして、3)その感情が
ニュートラルな状態に戻るまでの時間の長さ、
についての概念だ。
でもこれは、何も境界例の人に限られたことではない。
全ての精神病理が、その「程度問題」であって、どこまでが
正常で、どこからが障害なのかはかなり主観的であり、
恣意的なものであるように、「感情の調整不全性」に
ついても、「正常か異常か」ではなくて、その傾向の有無や
度合いとして捉えた方が、いろいろな意味で有益だと思う。
具体的に、「感情の調整不全」とはどんな感じか
といえば、環境に対して敏感でこころが反応しやすく、
揺れやすく、その、反応して揺れた感情が落ち着くまでに
時間がかかることだ。
これは、ポジティブな状況(特別な人と会ったとか、
特別な行事があったなど)にもネガティブな状況にも
あてはまることだ。
「21世紀はこころの時代」などと言われて久しいが、
誰もが多かれ少なかれボーダーライン的な現代社会、
このような、敏感なこころを持った人はとみに増えている
ような印象がある。
つまり、このような特徴を持った人は多いのだけれど、
自分にそのような傾向があるのだと自覚している人と
そうでない人との間には、大きな違いがあると思える。
こころが揺れているとき、その余韻で、人々は
やらなくてもいいこと、やらなければいいことを、ほとんど
無意識にしてしまうものだけれど
(家に帰ってゆっくり休めばいいのは分かっているけど
なんとなく遅くまでぶらぶらしたり、いらないものを
買ってしまったり、食べたくもないものを食べて
しまったり、別に一緒にいたくもない人と時間を
過ごしてしまったり、パチンコやゲームで無駄に
お金を使ってしまったり)、
もし自分にそういう感情的特徴があるのだと
分かっていると、感情がもとに戻るまでやりすごせたり、
リラックスするための時間を設けられたり、ゆっくりと
休むことを選べたりすることにも繋がるから、やはり、
自分のこころをより深く理解し自覚することは
大切だと思う。
そういうわけで、なんとなく書いているこの記事も
そろそろ終えようと思う。やめたくてもなかなか
やめられないのだ・・・
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2006年5月の初めに書いたものです。
(前回の続き)
感情という現象には、まず、特定の状況に対する
身体的な反応があり、主観的な気持ちは、その
フィードバックから生じるものだというところまで
書いたけれど、さらに、我々は、この主観的な
感情を、無意識的に表情にだして、周りの人に
伝えることになる。自分の気持ちや状況を周りに伝える
のは、あらゆる生き物にとって大切なことである。
「表情による、感情のコミュニケーション」という機能だ。
さて、我々は、他者の表情と言語による話に対して、
その人に共感することになるけれど、我々はどのようにして
相手に共感しているのだろうか。
私たちは、相手の表情にあわせて、自分も同じ表情をする。
これは、意図的である場合もあるけれど、その根本は
基本的に無意識的なもので、この「調和した表情」
によって、相手に、自分は共感しているのだと伝えている。
このとき、我々は、その相手の感情(喜びと笑顔、
怒りと怒りの表情、悲しみと苦痛な表情・・・)を
感じることで共感するわけだけれど、興味深いのは、
その仕組みだ。
これは、いろいろな研究によって支持されていること
だけれど、我々は、相手にまねて表情を作るという
「身体的な反応」によって、相手と調和した、主観的
感情も体験することになるという。
赤ちゃんが、大人の表情を真似することは広く知られて
いるけれど、我々は、遺伝子のプログラムに加えて、
このように、小さい頃からの学習によって、非言語的
コミュニケーションの技術を獲得するようだ。
悲しい顔をしている友人を見て、たとえ、実際にその
表情を自分も作らないとしても、自分がその表情をする
のをほとんど無意識に想像して、同じ気持ちになっている
のは、注意してみると自覚できると思う。
逆に、笑っている友人をみて、つられて笑ってしまい、
自分も楽しい気持ちになった、ということも、誰もが
経験していることだと思う。
ちょっとややこしいけれど、つまり、我々は、自分自身が
特定の表情を作ること、また、作ることをイメージする
こと(身体的な反応)によって、それにあった、
主観的な感情が得られるようだ。
以上のことを踏まえてみると、ちょっと辛いときに、
鏡の前で笑ってみると、ちょっと気分が上向きになって
きたり、気晴らしにお笑いなどを見て、笑っていたら、
気持ちが晴れてきたりするのは、科学的にも道理にかなって
いるように思える。
意図して作ってみた表情の種類によって、実際に
気持ちもそのように変わっていくという事実は、
日常生活のいろいろな局面で応用可能なもので、この
知識を上手く生活の中に取り入れていくと、
ちょっとした時に、いろいろと役立ちそうである。
もちろん、本当に強い気分を経験しているときに、
それを覆すような効果はないだろうけれど、少なくとも、
気分の方向を転換させるきっかけにはなると思う。