スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

豊国神社と方広寺

2022-09-29 06:17:39 | 旅 ~京都

前々から気になっていた神社とお寺がタクシーの運転手さん曰く

「ハイアットホテルのすぐ近くですヨ」との事で

さっそく早朝散歩で行ってみた。

確かに国立博物館の正門の隣りで目と鼻の先だった。

旧方広寺大仏殿跡地にあるこの豊国神社は京都の人々からは

「ほうこくさん」の名で親しまれているが正式な名称は「とよくにじんしゃ」。

御祭神は「太閤記」で今も広く知られているさきの関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公であります。

豊臣秀吉公は慶長3年(1598年)8月18日、

京都・伏見城で62年の生涯を終え、遺命により京都東山連峰の秀峰「阿弥陀ヶ峯」に埋葬された。

翌慶長4年には山腹の「太閤垣」に日本最初の権現造りで

壮麗にして雄大な社殿の造営がなされ、

後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ神として祀られた。

その社殿は「豊国社」と呼ばれ、境域(境内の広さ)は約30万坪(約100万㎡)にのぼり、

現在神社の宝物殿に蔵する重要文化財「豊国祭礼図屏風」によっても、

当時の規模、祭事の盛大さが容易に想像できる。

神社正面石鳥居をくぐり参道を進むと、前面に威容を誇る大唐門は伏見城の遺構で、

国宝に指定されており、西本願寺・大徳寺の唐門と併せ「国宝の三唐門」と呼ばれている。

唐門正面に高く掲げてある「豊国大明神」の御神号額は後陽成天皇の御宸筆によるもので、

旧豊国社伝来の勅願である。

境内の中程にある手水舎。

看板を見ると宝物館もあり、前述の重要文化財「豊国祭礼図屏風」などが

所蔵されているようだったが早朝のため見ることができなかった。

豊臣家滅亡後この華麗な豊国社は幕府の命により廃社となり、

以後250年の長きにわたり庶民の参拝もままならず、

むなしく草むらに埋もれて跡形もなくなってしまっていた。

その後、明治維新に至り明治元年、明治天皇より再興の御沙汰をいただき、

明治6年には別格官幣社に列せられ、同13年(1880年)旧方広寺大仏殿跡地に

復興されたのが現在の豊国神社である。

秀吉公御馬印の千成ひょうたん絵馬で開運招福、諸願成就の願いにご利益がある。

明朝願い事が叶えられるように御神前に神職がご祈願の上、

御宝前に一年間奉掲されるとのことです。

境内の一角には秀吉の千成ひょうたんに因んでか、ひょうたん畑があり、

立派なひょうたんが実っていた。

今年は寅年のためか、唐門の下にひょうたんを首に下げた立派な虎の像が置いてあった。

また、唐門の両脇には秀吉恩顧の大名が寄進したという石灯籠が並んでいた。

こちらは社務所に並べられていたおみくじやお守りなどのグッズ。

当神社は早朝ということもあってあまり人気を感じない

ちょっと寂しい空気を感じた。

京都刀剣御朱印めぐりと称して栗田神社、藤森神社、建勲神社、

そして当豊国神社の4神社めぐりをやっているようだ。

こんな企画は他の神社でも見たが、今この切り口企画は流行かもしれない。

豊国神社の隣りにはひっそりと方広寺の本堂がある。

この本堂は妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を明治初頭に移築したもの。

本尊は盧舎那仏。

通称は「大仏」または「大仏殿」。

この大仏はかつて日本一の高さ、規模を誇っていたが寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。

これがかの有名な方広寺鐘銘事件の引き金となった「国家安康」の梵鐘。

慶長19年(1614年)豊臣秀頼が亡き父・秀吉の追善のため造った鐘である。

秀吉追善のためと表向きにはなっているが、

豊臣家の財力の消耗が狙いで徳川家康が秀頼に勧めて造らせたもの。

この鐘の上部には東福寺の僧清韓の書いた銘文が刻まれており、

その銘文の中の「国家安康」と「君臣豊楽」の八文字が徳川家康の怒りをかった。

家康の文字を二分し呪詛をはかり、

豊臣家の幸福を祈念するものだという主張であった。

これをきっかけに状況は悪化し大阪冬の陣へと向かっていった。

なお、この鐘楼の天井画は元々伏見城の女性の化粧室の天井画であった。

ここでも秀吉のシンボルひょうたんの栽培を市民活動団体がしていた。


最新の画像もっと見る