曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。
天暦元年(947年)当院の住持、是算国師は菅原氏の出であったので、
北野神社が造営されるや勅命により別当職に補せられ、
以後歴代、明治の初めまでこれを兼務した。
また、天仁年間(1108~平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、
東尾坊を改めて曼殊院と称した。
現在の池に移ったのは明暦2年(1656年)で、
桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇猶子)、良尚法親王の時である。
親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の池に移し、造営に苦心された。
庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、
江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関係が深い。
歴代、学徳優れた僧の多かった名刹である。
当院の周辺の土塁には青々とした素晴らしい苔が生え、
その上を大きな青もみじが茂り、ホッとする時間と空間を作っている。
現在は通用口になっている重要文化財の庫裡。
石造の大黒天は鎌倉時代のもの。
甲冑を帯びた姿で仏教の守護神となしている。
入口の大妻屋根の額「媚竈」は良尚親王筆。
論語八佾篇に「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」を引用した。
炎天下の中、無心に草取りをしていた院の女性が印象深かった。
庫裡と次の間の間にあった小さな枯山水の庭。
手の縁に閻魔様の人形で「危険 載ってはなりませぬ」と。
庫裡(台所)の中のおくどさん。
このあたりから基本撮影禁止なので、虎の間、竹の間、孔雀の間、滝の間、十雪の間など、
いくつもある重要文化財は残念ながら紹介できない。
非常に貴重な手紙など展示されていたが撮影禁止です。
ところで門跡寺院とは皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のことであり、
青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、
天台五門跡の1つに教えられている。
そして国宝の黄不動、曼殊院本古今和歌集をはじめ、
多くの文化財を有し、紅葉の名所でもある。
京都では各家の戸口にこの疫病退散の御札が貼られているのを見かける。
984年、一元三大師良源は鏡の前で心静かに瞑想していると
この骨ばかりの鬼の姿が映り、弟子にその姿を写し取らせ、
版木に彫って刷り上げ疫病退散の御札として配布した。
重要文化財の大書院、小書院の前に広がる名勝庭園指定を受けている遠州好みの枯山水庭園。
この枯山水は禅的なものと王朝風のものが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。
大書院、小書院の釘かくしや引手等に種々の意匠(瓢箪、扇、等又、富士の形の七宝の雲)を
こしらえたものがあり文化財の貼紙が付いている。
このふくろうの手水鉢は京都検定2級の問題に出たと坂本ドライバーが説明していたが、
2級はそんな細かい問題が多く、とてもチャレンジする気も起きない。
JR東海の「そうだ京都行こう」の秋・紅葉の曼殊院門跡を取り上げたポスター。
キャッチコピーは「一年なんてアッという間に過ぎていく。それじゃいけない。」
そういえば当院には確か30代の頃に来たっけ。
その時は真冬の1月で床が氷のように冷たく足の裏が丸くなった記憶がある。
あれから月日はアッという間に流れ、このポスターをしみじみと見入ってしまった。
人生を振り返った瞬間であった。