砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

日記

2020-03-11 23:16:53 | 日記
日記


また本を買ってしまった。
最近本を読んでいなかったのですが、仕事が少し落ち着いたので読書をしています。ただ読むだけでなく、それをもとに自分が考える行為(いわゆる「能動的」な読書)が重要なのだと思うけど、なかなかじっくり考えることができておらず。読んでいるものが知らず知らずのうちに蓄積され、いつしか自分のなかで形になっている、ということもあるのでしょうか。そう願いたいものです。

電車で読書している人が減ったように思います。
本なんて読まなくてもインターネットで知識(というか情報)が得ることが、ごく一般的になってきました。それでも書店に行くと本が平積みしてありますが、一体どのくらいの人が本を買って読んでいるんだろう、と疑問に思うこともあります。どんどん減ってきているんじゃないか。それが悪いことだとは思いません。本が民衆に届いたのはごく近代になってからですし、明治になって小説が広く普及したときには「最近の若者は小説ばかり読んでけしからん」と言われたそうです。読書という営みが人口に膾炙したのは、本当に歴史の浅いことなのですよね。

今私が書いているブログもそうです。ブログ形式のサイトは、2000年代に入って一気に広がったように思います。多くの人々がインターネットにアクセスできるようになったからでしょう。
でも今や、通信速度やPCスペックの改善があってか、YouTubeなどの動画配信サイトやTwitterやTik Tok、InstagramなどのSNSが席巻し、腰を据えて文章を追ってくブログは落ち目になりつつある。移り変わりが早いものです。もはや揺るぎないのは「移り変わりが早い」という人間の性質だけではないか、と思ったり。祇園精舎の鐘の声…というやつですね。

そういえば。
昔に比べると、よくわからない本とぶつかっても「まぁそのうちわかるか」と思えるようになった気がします。昔はもっと強迫的に読書をしていた気がする、あるいは「わかったつもり」になっていた気がする。わからなかった本を再読しても理解できないこともあるし、「一生わかんないだろうな…」と思う本もあります。それもしょうがない。自分の頭脳の限界を感じたり、「なんでこんなわかりにくくしか書けないんだ、馬鹿なのか?」と著者を罵倒したりして、読書をしています。マゾなんだろうか。

最近面白かったのは三浦雅士の漱石についての本。漱石の思想の変遷を母子関係、内的対象関係をもとに読み解いていく。なるほどと思うことが多かったし、「自分が愛されていないのではないか」といった疑念にとらわれ続ていたのであれば、きっと彼は生涯苦しかったのだろうな、と想像してみたり。だからあれほどの苦悩に満ちた作品を書けたのかもしれません。

とはいえ。
あれこれと本を読んでも「それが何になるんだろう」と思う自分もいます。一生懸命勉強したり、考えたりする行為。人間ができること、成し遂げられることには限界があるし、自分が頑張っても何もならないんじゃないか、ふとそうした虚無感が忍び寄ってくることがあります。飛躍した考えであることは承知しているけど、どうしてもそう思うことがある。

もちろん何かを目指して本を読んでいるだけではなく、純粋に楽しいし面白くて本を読んでいる自分もいます。そのせめぎ合い。きっとそれは読書という営みだけに生ずるのではなく、仕事や対人関係、趣味においても同じことなんでしょう。

さて眠くなってきたから寝るか。明日も頑張ろう、そう思いながら本を携えてベッドに向かいます。皆様今日もお疲れさまでした。