徒然なるまま 写遊記

私楽 諸行歓常 諸行感謝 のんびり気ままに散策・・「埼玉・高麗川のほとり」(浮雲・浮浪雲)

埼玉 低山巡り(秩父・岩井堂)・・歩兵第75連隊

2021-05-20 | 埼玉 低山巡り
今回ブログの後半 ハイキングから
歩兵第75連隊 話から脱線します
「あしからず!」

以前より興味あった
大きな岩と 京都の清水寺の組柱に似た
秩父「岩井堂」に
5月14日に行ってきました。

今日の彩色「写遊の一枚」観音霊場・岩井堂

(標高300~357mの間)

9時55分
秩父鉄道「影森」駅
(駅 後方の三角の山は秩父で有名な
 武甲山。目的地は右の山 中腹)


すごく親切な駅員さんから地図を頂き
教えてもらった道順「昭和電工」
工場 敷地内を経由して岩井堂へ!

(写真↓・・守衛さんから、
 足元の緑色のラインに沿って
 行くように案内されました)

観音霊場「岩井堂」は
昭和電工の奥の
琴平神社の裏道にあるとか・・・?

当地が水に不便な地のため
干ばつの折には、降雨を祈願した
琴平神社の階段を!

300ほどの階段を
休み休み登ると 琴平神社・本殿。

写真・本殿 右角に
小さな案内板を発見!


10時20分
そして本殿の鳥居の先を
進むと すぐに修験行者の
荒れた山道が・・!

時折、地に手をつき
四つん這いで、険しい山道を
苦戦して登っていると

10時33分
琴平神社から13分。
目の前に 大きな岩と
札所26番観音堂「岩井堂」

京都・清水寺に似た柱組





階段を登ると 岩の隙間に
お地蔵さまなど
(本堂から撮影)



「秩父二十六 正観音」の
文字が見える本堂 正面


10時42分
今回のプランの岩井堂・裏から
西武 秩父駅まで行く

琴平ハイキングコースの
秩父修験堂に向かいましたが!

(本堂裏の細道!)

登り始めて「わずか10歩」ほどで
今までの山道に比べ

キツイ「修験行者の山道」で
恐ろしくなり 命大事のオヤジは
「即・岩井堂に戻りました」
本堂裏の道
(足元が滑る危険な山道の
 撮影を忘れました!)

10時50分
岩井堂 前の案内板を見て
予定外の「27番大渕寺」を
行くことにしました。


尾根を歩く 比較的 楽な山道だが
前夜の雨に濡れた枯葉に足を取られる
ドキドキな山道でした。

(途中、ロープづたいの岩登りも!)



ゴールまじかの大渕寺 裏で
予想もしてない
「歩兵75連隊比島戦没者霊碑」に
(何故、この地に?)驚きました・・・!

太平洋戦争は、全てが
空しく哀しい歴史だが

忘れされつつある歴史ゆえ、この機会に
一筆啓上したくなりました。
☆☆☆
「慰霊碑文」の一文を 以下 添付。

「フィリピン投入兵力 58万余、
 戦死者48万人 誠に補給絶無の
 苛烈苛酷な『飢餓』決戦であった」


参考情報
藤原彰著「飢え死にした英霊たち」
・・(全体)戦没者240万人の
  過半数140万人は「餓死」だった。

インパール 無謀な作戦
  インド北東部の街インパール攻略を
  食べ物飲み物を与えられず、
  ジャングルに送り込まれた10万の
  兵士は 戦闘行為じゃなく 飢えと
  感染症の病でほとんどの日本兵は死亡。

  ちなみに、指揮した牟田口廉也中将は
  BC級戦犯だったが、無罪放免後、
  余生を都内で暮らし昭和41年病死。
 (兵士に対し、謝罪の言葉は
  死ぬまでなかった牟田口中将!)
  
大岡昇平「野火」
 作家のフィリピンでの戦争体験を
 もとに「極限の飢え」を前にした
 人間を描いた 世界で評価された
 戦争小説。

日本人のマニラ残虐行為 他
 市街戦マニラ市民約10万人戦没
 バターン 米兵死の行進

半藤一利
「兵士を駒扱い 愚劣な軍事指導者たち」

★★★
どのような理由があっても、
罪なき人々(アジアの人々・日本)を
死に追いやった戦争は問題だが

上級国民の「机上の計算」で
無駄な戦死をした兵隊と国民を思い
以下を添付することにしました。

英歴史家アーノルド・J・トインビー
「日本は第二次大戦で自国を犠牲にして
アジアの民に大きな恵みを与えた」

米歴史家ジョイス・C・レブラ
「日本の敗戦、それは勿論、東南アジア
全域の独立運動には決定的な
意味をもっていた」

タイ・ククリット・プランモード元首相
「日本のおかげで、
アジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して 
母体をそこなったが、
生まれた子供はすくすく育っている」

人種戦争の筆者ジェラルド・ホーン
「日本人が称賛されるのは、白人の植民地
搾取に、自らの血を流して戦ったからだ」

米スタンフォード大名誉教授の
ピーター・ドウス
「日本人が白人との戦争で もたらした
成果は 市民を解放したフランス革命より
偉大な人類史上の大革命だった」

以上「歩兵75連隊の碑」の
「悔しく亡くなった兵隊」を思い

世界の歴史家・政治家からの
メッセージの ごく一部を掲載しました。

勿論、筆者は戦争反対です。

追記・・12時20分、影森駅 無事到着。
当ブログ立ち寄りに感謝です。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 埼玉低山巡り(鐘撞堂山)藤... | トップ | 埼玉 巨木&古寺(小京都・... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
秩父山中の記事 (比企の丘)
2021-05-21 17:57:44
興味深く読ませていただきました。歩兵第75連隊の碑・・・なぜ秩父の武甲山麓に建立されているか・・・ググってみても不明です。碑文に何か説明があったのでしょうか。生き残りの兵士にこの村出身の方がおられたのでしょうか。
返信する

コメントを投稿

埼玉 低山巡り」カテゴリの最新記事