すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

すべてのみちはここに

2018-05-17 | 心で生きる



今でもたまに思い出す光景がある


母におんぶされてる私が見ている世界

背中の体温
母は後ろ髪をゴムでとめていて(輪ゴムだった😆)
頭が動くたびに結んだ髪が左右に動くので
そのクリンクリンしたくせ毛があっちにこっちに動くのをただ見てる。
母はニットを着てたのかな、
ニットの上で髪の束がチクチクこすれてる感じをただ見てたのを覚えてる。

たぶん1~2歳くらい
覚えている中でいちばん古い記憶


あれを経験していたのは私だけど
「私」以前の私
「私はこういう者だ」ということを取り入れる前の私だった。



次の記憶が
私は台所の椅子の背もたれに両手をかけて
料理をしている母の後ろ姿を見ている。
母に尋ねる
「ねーおかーさーん、ともちゃんさんさい?」

母「そうよー、ともちゃんは3さいよー」
っていうそれだけの記憶

その時はもう私は「ともちゃん」で「3さい」というふうに
わたしは何者であるかの材料を外からどんどん集め始めている



それから
何歳の頃かわからないけど
(おそらく3~6歳のあいだくらい)
祖母の家の裏の薪置き場で、下屋の白いビニール波板を通した、やわらかい日の光
それを下から、ただ見ている。

同じく祖母の家 物置部屋(頂き物のお菓子とかがしまってある)の高い窓から
擦りガラス越しに入ってくる柔らかい光をただ見ている。
穏やかで安心感に包まれていて
どうしようもなく退屈な感じ




それからたぶん6歳くらい
夜寝る時、布団の中で考えている。

お母さんが死んでみんな死んで私も死んだら
「私」ってどうなるんだろう????
空をずーーっとずーーーっと行ったら、どうなるんだろう???
もし終わりがあるなら
その終わりの向こうはどうなってるんだろう???????

これを今の言葉に変換するならば、
私を私と認識しているこの「意識」は、死んだらどこに行くのだろう?
肉体の死と共に消えてしまうのか?
消えるってどういうことなんだろう?
消えることを認識する意識はあるのか?
空間には限りがあるのか?
あるとしたらその限りの外側はどうなっているのか?



これを考えて考えて
考えすぎて怖くなって、泣き出した。
泣きながら母の寝床に入れてもらいに行ったら
なんば言いよっとか~、おかしか!と追い返された。_| ̄|○
(母は超ドライな人なのだ 笑)



大人になって
そんなことはくだらないことだと
忘れ去ったかのようにして
そのことはずっと根底にあって
その問いと共に生きてたのかなと今になって思う。






なぜ
そんな、取るにたらないような記憶を
忘れずに覚えているんだろう?って思ってた。

でも、あの感覚は何だったんだろう?とも思ってた。

何十年も持ち歩いていたこのことについて
最近、なにか書けそうな気がしていて
書いている。
長くなったので今日はこの辺で。。 



続く。。。




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ロボット熊の夢

2018-05-15 | 心で生きる
先週の数日間 体調を崩したときがあって
立て続けに怖い夢や気味わるい夢や変な夢を見た

ほとんどは後味の悪さだけですぐ忘れてしまったけど
ひとつ印象に残った夢がある。



屋根裏になにかケモノがいるような気配がしたので、覗いてみたら
アライグマがたくさん入り込んでいた
(アライグマは野生化して今や普通にいる)

アライグマたちは私が感づいたことを察知して
ゾロゾロとうちから出ていくところだった。

私は「あー・・・ アライグマが出ていくー」と思いながら見ている。
(しかし2本足で歩く、どう見てもクマのぬいぐるみ、テディベアだ)

ヒソヒソ… コソコソ… その中の一匹が後続のやつに話しかける風に振り返ると

目が赤く光っている

他のやつも胸のところが
四角に毛皮が剥がれて、中から
赤く光る回路みたいなのが覗いている

アライグマたちはじつはみんなロボットだったのだ…!
全部で25頭くらいいた。
私の生活を屋根裏から監視していたらしい・・・!

いま思い出すと笑えるけど
その時はぞっとした。 

起きた時にすごくいや~な気分だった



なんだこの夢・・・???






その時はわからなかったけど
体調が回復して
なんとなく思ったのは

他人にどう思われるか?っていう不安とか
「私はこう思う」と表明することの怖さ
表明することで
だれかに否定されないか、だれかを傷つけないか
そういう思いが
私の底のほうから
意識の上のほうまで
浮き上がってきたのだと思った。


ちょうどこんなことをぼんやり感じてた時に
弥彦さんがこんなこと言った。

例えば私が「書くとき」
(畑のこと自然のこととか)
答えがわかっていることだけを
きれいにまとめて出してる
自分の思ったことでも誰かの言葉を引き合いに出して書いてる
だけど
ほんとは君はキャッチしてる。
オリジナルの感受性があるのに
それを自分のは価値がないと思ってる。
もっとそのまま、
それが何になるのかわからなくても
感じることを
かっこわるくても
そのまま
出したっていいんじゃない?
(文章でも作品を創ることでも、表現することにおいて)



ドキッとした

「そうかも
なんでかって怖いんだよ
出すのっていつも怖いんだよ」
「だからまとめてしまう
だれに向けても間違ってないようにって気にしてる」

話しながらぽろぽろ剥がれてくる


そんなことを話していたら、思い出した。
そういえば同じことを私言ってた…!
「まとめないで
私の話しを勝手にまとめないで
出してるだけなんだから
聞いてるだけでいいの!」
って、会話してるときに苛立って言ったことがある。

あれは、自分に言ってたんだねー😲

お互い妙に納得した。


洗濯ものを干す時とか
タコ足物干しがちょっとでも傾くと気持ちが悪いほど
なんでもまとめたがる
きっちり揃えたがる(掃除は苦手なくせにw)
バランスを気にする
そういう癖があるけど
それも個性だけど
そこを破りたい欲求もある
だけど怖い


夢っていう内側からと
外側からのメッセージがシンクロ



だれに向けても間違えないように だと~う? 笑

ムリに決まっとるし

どんなに仲がよくても
みんな、違う世界の住人なんだから



怖いとか不安とか、
浮き上がってきたから
よかった

フタしてたら腐るから

空気入れみたいなもん♪

ぬか床みたいなものだ

醸してこ



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苦しみと私のあいだに隙間をつくる

2018-04-20 | 心で生きる
「ピンチはチャンス」って言うけれど
私自身を振り返ってみてほんとうそうだなと思う。

転機はいつも
どん詰まりの苦しい状況が続いて、
もうダメかも、自分危ないかも・・!っていうときにやってきた。


苦しみの渦中に巻き込まれて余裕がないときは
出口が見つからなくて途方に暮れている。

だけど
苦しみの日々だと本人は思っているときにでも
いつも、ずっと、そこらじゅうに自然はうつくしいものを見せてくれていて
ふと、そんな「今、ここ」にあるものに気が付けたときに
ちょっとゆるむ。
そんな、ほっとした瞬間に
なにか、ヒントのようなものが流れ込んでくる気がする。

追い詰められているときには
現状に対処することでいっぱいいっぱいになっている。
そういう時は頑張っても頑張っても、先に光が見いだせない。

いったん、そういうこと横に置いて
ほっとしたときに
「私、なにやってんだろ・・・???」ってなる。


苦しみと同化していた自分から
苦しみと自分に隙間ができた状態になる。



そうすると、ちょっと見渡せるのだ。

「解決すべき問題」対「私」がいたのではなくて
そういう「ストーリー」があって
「そのストーリーの中に組み込まれて一緒に演じている私」がいただけってことを。

すっかり演者になりきってたけど
そんなに苦しいストーリーの中に私を置いておいて良しとしてたのは、私だった。
私がこの役を降りればいいんだ。



それから
「じゃあ、本当はどうしたいのか?」ということを明確にさせて

それと同時に
今あるものを丁寧に扱う。
うまくいかなかった相手にも正直に接するようにした。

これで実際に状況が変わった。激変した。


苦しみばかりと思っていた場を去るときにも
最後は円満に退けるというオマケまでついた。


これは私のことだけではなく
いじめやパワハラや夫婦関係や親子関係や
いろんなことに共通するんじゃないかなーと思う。


苦しい時ほど
そのお題が解けた時の
そっかーーー!!!ピコーン!!!
っていうのが隠されているんですよ
私はゲームやらないけども、まるでゲームなのだ☆



外に探しに行かなくても
答えはぜーんぶ、自分の中にある。
誰の中にも。

その人のお題はその人のゲーム。
外注は実のところ不可能だし
モッタイナイ


だってそこにはその人だけへのギフトが隠されているから(*´▽`*)




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健康教

2018-04-11 | 心で生きる
この冬は
いちばん寒い期間に
本能に従い(笑)
冬眠みたいだ~と思いながら
しっかり籠ってた。





節分過ぎて
ムクムクしだして

外の陽気と共に
木の芽が動き出すように
動きたくなる感覚があって

そろそろ
賑やかになるような・・・って予感がしてたら、
予感どおり
ここのところは日替わりで誰か訪ねてきてくれる。
もしくは誰かに会いに行くか。
体もよく動くようになってきた。



本能に従うというと大げさかもしれないけど
ようは、「体の行きたいようにさせてる」という感じ。


私は体が丈夫でないし(というか虚弱)
老化による体力低下も加わって
そのようにせざるを得なくなってそうなったけど
だからこそ
良かったなぁと思う。

だって丈夫だったらきっと私は
体の声聞かなかったと思う。
(前はそうだった。あれもこれもと頭の声ばかり聞いて動いて、大事なことを見失っていた)

虚弱であろうと
丈夫であろうと
最優先すべきは「体の要求に応えてあげること」だと
今でこそ思うけど

前は
虚弱も病も鬱も引きこもりも
解決しなければいけない「問題」だと思ってた。





今は

健康ってなに??

って思う。



健康といわれる状態(数値のうえで?)で居続けることって不可能だし
そもそもそこに何の意味があるのだろう?

「健康」っていう幻想だよね。


畑や山や糀の発酵やら見てたら
生きてるっていうことは
吸ったり、吐いたり、
ゆっくりになったり、速くなったり、
収縮したり、解放したり、、

常に動いてる
止まって見える時でも止まってない
病んで見える時でもその状態で動かないってことはない
変化だけがある。


だから体がそうしたければ(寝ていたい、じっとしてたい、こもってたい、etc)
安心してそうさせてあげてればいいと思う。
理由(原因)なんて探さないでいい。(探したってわからないし。それに言葉で説明できないことが悪いわけでもない)


体は脳より古い(先に出来たもの)
体には智慧がある
だから体の邪魔をしないでみる・・・
というのは、瞑想レッスンのときに聞いた言葉



寒い冬
家で丸まって時間が止まったように過ごしてる時期に
「まるで冬眠だね。こんなんでいいのかね~?」って言ったら
相方さんは
「いいさ~ 収縮がないと解放もないからねぇ」って言ってた。
「そうだね~ いいこと言うね~」

安心して思う存分、収縮しといてよかった。
起きることが起きている、
ことはおのずと展開しているということが
実感できたから(*^-^*)




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お知らせ

今月の「そらいろガーデン」は4月19日(木)です!
ぜひ遊びに来てください~



発掘作業の効用

2018-04-04 | 心で生きる
前の記事で書いた
「私は」どうしたいか?って自分に訊く練習 
この効用について書きます。



「ほんとは今 どうしたい?」
これが
意識して聞いてみるまでは
自分のことなのに
わからなくなってたりするもんだ。



「ほんとは」どうしたいか?の上に
いろんな都合や事情や心情が覆いかぶさっていて
埋もれてたので

発掘してやらないといけなかった。


都合・・・・例)これを今やっておかないと、後で困るに違いないから
      
事情・・・・例)ほんとはこう言いたいけど、立場が悪くなったら困るから

心情・・・・例)ほんとはこうしたいけど、そんなこと恥ずかしくてできない

などなどなどなど・・・・・


あっちをたてると、こっちがたたない的な、窮屈さ。 


それまでずっと、いつも何かに追われるように焦っていたけど
あのキューっとする感じ、焦る感じって「混乱」なんだって思った。
外側のいろんなモノサシでもって自分を測ろうとするから
訳が分からなくなるのはあたりまえだ。
どこに向けても正しくあろうなんて
苦しくなるのは当然だ。




で、
それら都合や事情をいっこいっこ
拾い上げて確認してみるとわかる。


ほとんど全部
記憶とか憶測とかで勝手に脳がつくってるストーリー
前例 常識 世間体 習慣
だって
こわいもんね~
嫌われたくないもんね~


でも「ほんとにそうかはまだわからない」


だから「私は、こうしたい」がわかったら

やってみないとわからないさ~ で、行きたいほうに進む場合
笑われてもいいか~、嫌われるかもしれないけどしょうがないね~で、行きたいほうに進む場合
ほんとはこうしたいな~、今は言えないけど、できるタイミングが来たらやろう~(気持ちを確認)

(そんな大げさなことでなくて日常の小っちゃなことからです)

こんな感じで
私の本音を聞いてあげる
もしくは
私の本音を知っててあげる

非常識だなーとか性格悪~とか、出てくるけど
でもそれは横に置いといて、聞いてあげる。


これをやってたら
混乱から
クリアになってきた。



あんなにいつもあった
窮屈さがいつの間にかなくなってた。

(こうなったからもう大丈夫、とか成長した、とか
そういうことではなくて
常に今、私はどうしたいか?を観ていくのだなって思う)


今を選んでいたら
結果に振り回されなくなってきたように思う。

だけど
今が満ち足りているということは・・・


結果オーライ

ちゅうことだ


(だって今しかないから)





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今月の「そらいろガーデン」は4月19日(木)です!
ぜひ遊びに来てください~