人の目を気にする、
他人目線(社会目線、常識目線)で考えるということは
外側から見る自分ってことでしょ
外側から→内側に向けたベクトル
これは、不自由で、被害者的で、委縮した、苦しい生きかただよね
(ずっと長いこと、この生き方しか知らなかったよ)
だけどありがたいことに
真実は
「見える世界は自分の内側の反映」
内側(自分)が→外側に映ってるんだよね
それがしみこんできたら
「自分のことだけでいい」の本当の意味もすんなり入ってきた
内⇒外
そう
原因はこっちにある
元はこっち
ここ!
こっちから周りを照らしてるから
他人の目という発想自体なくなる
自分が、そのように見ている。ということだけだから
ほんとに、自分の見方に細心を払うだけで
完結してしまう
私が光であれば、光を見るし
私が怖れであれば、怖れを見る
で
あ、なんかこれは心地良くないなっていうものを見たときには
見たり、またそれに反応したりした後に
その心地良くないことを見せた相手(orものごと)に原因があるのではなくて
どうして私はそのように見たのだろう?
て、自分に向くんだよね
即座にね
どうしてかわからなかったとしても
まずは
「私はそのように見ている」ということに気付けるか
気付けなくて見過ごしたときも
結局は、違和感が残ってて
そして
ああ、そのように私は見たけども
それは見たくない
違う見方がしたい
ていうことを
投げる
「投げる」とは
上にお願いするの意味
自分にはできないから。
いつも
目の前の人(orものごと)の光を見る
見たいです
見せてください と
お願いする
自分にできることはそれだけだよね
そしてそのように見たときに
本当にきっと
その目の前の人と
光を、愛を見れると思うんだ
一緒に見れると思うんだ
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