お前等、絵に関する怖い話を幾つ知ってる?
ベートーベンが出てくるとか、モナリザが血を吸うとか。
そこまで派手な体験でもないけど、俺も遭遇したんだよ。画家の幽霊が自分の絵に起こした怪奇現象に。
夜会服を貸してもらおうと思って、とある画家の家を訪ねたときのこと。あれは夜中の八時過ぎくらいだったかな。
その時、画家は不在だった。でも、俺が家の中に入れたのは、画家と同居している俺の友人のKが入れてくれたから。
Kと画家もかなり親しい間柄らしい。画家が初めて賞を取ったとき、作風がKの描いた絵にそっくりだったけど、それも友人同士だから自然に似たんだろう。
最初、玄関から出てきたときのKの手を見たときはびっくりしたね。真っ赤だったから。でも、良く見ると血じゃなくて絵の具みたいだったから安心したけど。
本人の了解も得ずに入っちゃまずいだろうというKの制止を押し切ってアトリエに入ってみたが、以前その部屋に入ったときとは随分印象が違っていたな。
以前来た時より絵の具の匂いが増していた。実際床や壁や天井に至るまで、ありとあらゆるところに赤や青や黄色の絵の具の飛沫が飛び散ってる。
Kによれば、画家は暫く帰宅しないとのこと。彼は、何だかおろおろとした様子で、出来れば俺に早く帰って欲しい様子だった。
アトリエの正面の壁には、一枚の絵がかけられていた。
それが、不気味な絵なんだよ。キャンバス全体が赤一色で塗り潰されてるんだ。それも短時間に急いで塗ったように乱雑に。
俺はどうしても夜会服を貸して貰いたかったから、画家が帰ってくるまでここにいる、とアトリエに居座った。その時、以前部屋に入ったときはテーブルの上に置いてあった筈のブロンズ像が今は無くなっているのに気付いた。多分、気に入らなくなって捨てたんだろうな。
ずっとアトリエで待っていると、部屋の奥のクローゼットの戸がピッタリと閉まっているのに気がついた。本人には後で了解してもらうということにして、今は夜会服をこっそり借りてしまおうかなと、俺はクローゼットに手を伸ばした。
だが、それはKに止められた。当然だ。本人の了解を得ずにものを取っていくのは、幾ら親しくてもまずいよな。
結局、二時間くらい待っても画家は帰ってこなかった。だから、そろそろ帰ろうと腰を浮かし、何気なく先程の絵を見た瞬間。
俺は凍りついた。赤いバックに半ば滲むようにして、歪んだ茶色の文字が浮かび上がっていたから。そんなもの、最初はあの絵に描かれていなかった筈なのに。
真っ赤に塗り潰された絵の中心に、Kの名前が書かれていた。俺はびっくりして、殆ど半狂乱になって、この部屋中に茶色と青と黄色の絵の具が飛び散っているアトリエから逃げ出し、家に帰った。
後日、画家が遠く離れた別荘の階段から転げ落ちて頭部打撲で死んでいるのが発見された。死亡時刻は夜八時。
多分、あの絵の文字は画家の幽霊が自分の絵に念写したものだったんだろうな。世の中は不思議なことばっかりだ。