■炎のクリエイター日記

美味しいもの・史跡が持つ歴史のご紹介。お料理はプロ・自作を問わず鮮明な画像で、どんな素材も関西仕立てにクリエイトします。

炎のクリエイター 撮影 & 画像補正

このブログに使用の画像は、殆んどを「iPhone15 pro」で撮り「CANON Power Shot G7XⅡ」と「CANON一眼」などの撮影機器でフォローしています。画像に補正を施せば、とっておきの一枚を奇麗にできます。 ※画像の転載・転用は禁止させて頂きます。 瀬田の唐橋は、日本三大名橋と石碑に明記してあるが、日本でもっとも古く架かった橋と解釈した方が良さそうだ。勢多唐橋は日本三古橋となっていて日本の歴史上、合戦の戦略拠点と度々なったことがあり「唐橋に我が風林火山の幟を立てよ」が武田信玄最後の出陣号令になったと言う。

国宝「犬山城」探訪‥‥信長公の影

2014年05月06日 23時09分49秒 | 史跡・歴史巡り
水量豊富な木曽川が、お城の眼下を流れる眺望は、まるで大河が堀に見立てられたような城の一部かと錯覚しそうだ。そんな自然の要害に守られた断崖絶壁の小高い丘に建てられた天守閣こそ「国宝犬山城」なのだ。現在は天守閣のみが現存するだけだが、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、天守が国宝指定されている国宝四城(他、姫路城・松本城・彦根城)のうちの一つである。





天守閣から西側を見下ろすと、木曽川を管理している堰が見えるが、その下の画像は逆に堰から天守閣を見上げたポジションで、この日は生憎の雨で煙っていたのが残念。





室町時代に建てられた天守は、現存する日本最古(1537年)の様式と言われているが、ちなみに以前紹介した「丸岡城」←※つつくとリンクと、お互いに最古だと競っている関係にあるが、ワシの見解では一旦倒壊してからの組み立てだが「丸岡城」が最古のようだ。小高い場所に築かれた平山城は、別名「白帝城」と呼ばれ、天守からの眺めはまさに絶景なのだ。これも2枚パックで、天守閣から東側を見下ろしたものと、木曽川の橋を渡って対岸からのショット。





犬山城の天守は、外観3重4階建て・地下に踊場を含む2階が付く。天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋2重2階の建物(1537年)の上に、3間×4間の望楼部を増築して載せ(1620年)その後唐破風の付加などが行われて現在の望楼型天守になったと考えられている。天守閣は、土台の石垣は野面積で高さは5メートル・天守の高さは19メートル・木曽川沿いの断崖絶壁をあわせると高さ約112mとなる。



雨が大降りになってきたので少々見辛いので、天守閣の中へはいるとしよう。急な階段、狭い上り口などは、如何にも観光客用に改築していない証しで、現存する城の特長とも言える。





前身となる砦は織田広近が築き、城郭を造営したのが「織田信康(織田信長の叔父)」で、更に改修し現在の姿となったのは成瀬正成の改修(1617年)した時と伝わるが、これらの建築用材は金山城の建物の一切を解体移築したと言う。





「織田信長」が係わって来るのは、織田信清が城主の時に、対立の末に攻め取って池田恒興らに城主を任せた経緯がある。江戸時代には尾張藩の家老「成瀬正成」が入城し、それ以来2004年まで成瀬家が個人所有する文化財であったのも珍しいが、現在は成瀬家が運営する財団法人に譲渡されている。



実は、到着日が雨振りで撮影環境が飛びっきり悪く翌朝には晴天になった。従って、犬山城の開門前に天守閣正面のショットのみ撮り直したいと、財団の方に頼んだが、アッサリと断られた。門前に立ち寂しく待っていると、特別にペプシのお兄さんと一緒に中に入れてくれた。尾張の人情に触れた一瞬でもあったので、この場を借りて感謝の意を記したい。お蔭さまで翌日のスケジュールが狂うことは無かった。



もっと画像を見て戴きたいのだが、載せていく画像の枚数がそんなに多くても戸惑われる方もおられると思うので、是非とも下記のアルバムを覗いて頂ければ、国宝犬山城の魅力が総て詰まっている。

犬山城(国宝)には、信長公の影‥‥‥






‥‥‥‥‥‥<切り取り線>‥‥‥‥‥‥

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京都伏見の「寺田屋」を分析・・・・ビアホールで考える。

2014年04月20日 23時40分36秒 | 史跡・歴史巡り
京都の酒どころ伏見にある旅籠「寺田屋」は、江戸時代から続く旅館として今も営業を続けている。幕末を代表する史跡のひとつだが、実はこの建造物が鳥羽・伏見の戦いで焼けたあと、隣接する場所に再建されたレプリカなのである。それらしく、柱には少し悲しいくらいチャチな「刀痕」や、おりょうさんが入ったとされる風呂桶なども設置されており、当時を偲ぶのに事欠かない造りとなっている。またもや休館日で中をご紹介出来なかったのが残念!





幕末の「寺田屋」での事件は有名だが、伏見奉行所がおこなった「坂本竜馬」の捕り物がそれだと勘違いされている方が多いようだ。実は2つの大きな事件が起きていて、それと混同されて理解している方もおられるので少々説明を記す。



ひとつは「薩摩藩士による同士討ち(1862年)」で、薩摩藩主「島津久光」暗殺の計画を企てる薩摩藩尊王攘夷派の集結した「寺田屋」に、藩主が刺客を送り何人かを殺したうえで、残りの者を送還した薩摩人同士の凄惨な同士討ちとなった事件。寺田屋事件と言うと、こちらの方を指すのだ。これで同時にクーデターを目論んでいた「清河八郎」が、このあと計画を練り直し「将軍護衛の浪士組アイデア」を幕府に働きかけ「新選組」の母体を作る結果となる。



もうひとつが、伏見奉行所による「坂本龍馬捕獲作戦」で、薩長連合を成し遂げた坂本龍馬を始め、長州藩士の三吉慎蔵と、後に妻となるおりょうがいる「寺田屋」を、伏見奉行所の捕吏達に取り囲まれた事件とがあったのだ。乱闘にはなったが龍馬と三吉慎蔵とおりょうは窮地を脱している未遂事件だった。例の、お風呂に入ったおりょうが、窓から外を見て奉行所の手のものに取り囲まれているのを知り、裸のまま階段を駆け上がって報せる一幕が有名だ。



隣に本物の「寺田屋跡」があり、坂本先生の表示は少し笑ったが(3年B組金八先生を思い出した)、この場所の方が霊的に俄然雰囲気があった。



帰り道で道草・・・・京都駅前「アサヒスーパードライ・ルネサンス」。このビアホールは、出荷されてから数日以内の新しいビールが魅力で、黒ビールとスーパードライの「ハーフ&ハーフ」がおすすめで超美味しい。いずれ陳列上部のこのデッカイオムライスを食うのが目標。



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今回は久々の歴史分野でしたが、現在は愛知県の「犬山」へ小旅行に出掛けています。この予約投稿にコメント頂いた場合のお返事や、訪問が満足に出来ない場合もありますので、前もってご容赦ください。
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大徳寺「黄梅院」非公開寺院 ~特別公開~

2014年04月01日 23時58分26秒 | 史跡・歴史巡り
尾張の土豪から出世した織田信長公・・・・・その父、信秀公の追善供養のため大徳寺山内に「黄梅庵」を創建。しかし本能寺の変により信長が急逝し、その葬儀が羽柴秀吉により大徳寺で盛大に行われた際に黄梅庵を改築し、後に毛利家とは言え豊臣家のため働いた小早川隆景が庵を整備し「黄梅院」と改められた。下の画像は大徳寺の山門と勅使門。



千利休が切腹させられる口実となった、「大徳寺山門木像事件」で有名になった山門だが、頭上の雪駄履きの利休像が、くぐる時に大いに気になった秀吉の怒りを買ったと言うが・・・・。



いよいよ黄梅院。院内には織田家・毛利家のほか、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔がある。





枯山水庭園である「直中庭」は、千利休監修であるので、真ん中にこじんまりとした茶室があり、秀吉の馬印である瓢箪を模った池など、所々から豊臣色が滲み出ているが、趣があって見とれてしまいそうだ。この時期には秀吉公と利休の仲が良かったんだろう。





やや奥へ進んで「破頭庭」の縁に正座すると、常識の概念に捉われない思考が頭の中で繰り広げられるようにと、普通じゃなく真っ直ぐに敷き詰められた玉砂利と対の庭石が語りかけてきた。



■大徳寺「黄梅院」
特別拝観:3/23(日)~5/11(日)
時 間:10:00~16:00(受付終了)
所在地:京都市北区紫野大徳寺町


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椿を見せてくれない、平岡八幡宮の椿を愛でる会

2014年03月27日 23時58分57秒 | 史跡・歴史巡り
京都から福井小浜へ抜ける周山街道に、もみじで有名な「高尾」があり、その傍に京都では最古の八幡宮となる「平岡八幡宮」がある。今回は境内の椿の拝観は無料と言う新聞記事を見て、参拝と撮影を兼ねてやって来た。つくなり、ここの神主らしき男性から「私が説明して案内する(椿を愛でる会は有料)から、拝観料を支払ってください」と告げられるものの、こちらとしては下調べもしており「撮影で一箇所で止まる率が高いので、はい次はい次とはついて回われないので、別に案内して頂かなくても結構なんですよ」と丁寧にお断りしたはずなのだが・・・・・



境内では、樹齢300年を超える紅椿や、願い事をすると白い花の「しだれ八重白玉椿」が一夜で花開き、願いが成就したと云われが残る(白玉椿伝説)樹齢200年の白椿など約200種を観賞できるはずなのだが、今まで梅だと思っていた花が実は椿の一種であったり、実に珍しいものを見せて貰ったと感激した。



まえ振りとして、ワシが小さい頃は「聖職」と言われる職業があったものだ。いわゆる「師」が付いている業種に多いのだが、宣教師・牧師・医師・看護師・教師などと、他には僧侶・神主・シスターなどなど。ワシ個人の周囲に於いて、教員は以前から論外だったが、このたび「神主さん」も聖職?と思ってしまう体験を紹介する。



ワシが撮影する場所へ、再び例の神主らしき男がやってきて「受付で拝観料を支払え」とのことだ。自分の案内が聞こえる位置にいるワシを、どうやら盗み聞きしていると勘違いして攻撃したのだ。「ああぁ~そこは結界だから向こうへ行け」とか怒鳴られるが、看板も縄張りもない場所では、ワシには結界が認識できない。どんどん言い方がエスカレートしていくので、撮影どころか参拝もままならない状態に。



彼の案内がもし聞こえたとしても、ワシには聞くつもりはないし知識も既にネットで得ている。『鰻屋さんが良いにおいを撒き散らして金品を請求するわけじゃ~あるまいし・・・・』と、言おうと思った瞬間「離れたあちらにも有名な椿があるので、そちらを先に撮影されたらどうですか?」と、怒鳴り声を聞きつけ出てこられた方よりアドバイスを頂いた・・・・いい人だ。たぶん旦那さまをフォローする奥さんだろう。

拝観料がそれほど欲しいのなら、客集めに「拝観無料」と新聞に書かないでほしいし、結界などには縄張りも必要だと思った。綺麗なお花のあるところ、せめて心も綺麗にしておきたいもので、黙って咲き続ける花椿の姿に慰められて八幡宮をあとにした。


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近江八幡「左義長まつり」は、独自の火祭り

2014年03月17日 23時02分29秒 | 史跡・歴史巡り
ハァー 弥生半ばの左義長まつり
山車がねり出す にぎやかに~♪
ソーレヤレヤレ チョウヤレ チョッサジヤ


そんな歌にのせられて、先週末の土・日曜日(15・16日)と、近江八幡の「日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)」で「左義長まつり」が行われた。奉納される山車(だし)が一同(13基)に会するのは、日牟禮八幡宮馬場へ集合する昼一番だけで、この時点で山車のコンクールも同時に行われるということだ。



祭礼を執り行なって、いよいよ山車は「渡御(とぎょ)」と言って、御神霊が街を巡航する運びとなる。先頭の馬には、神主や市長が乗ってそのあとに猿田彦・太鼓が続き、赤紙を持ったお稚児さん・・・・それから各街の左義長が続く。近江八幡の「だんじり」のようなものは、左義長「自由げい歩」から、日牟禮八幡宮鳥居前の「廻れ廻れ(まっせまっせ)」をヤル時、祭りは最高潮に! 左義長に奉火してゴウゴウと立ち上る炎が火祭りのフィナーレとなる。きっとこの熱気で、今年は豊作になり、災難からは逃れられることだろう。





もともとの起源は、お正月の「松飾り」や「注連縄」や「こいのぼり」などの縁起物を、一堂に集めて焼く火祭りの行事で「左義長とんど祭り」のことなのであるが、この街だけは独自の進化を遂げたと言うことだ。下の画像は他の町の「左義長とんど」で、オーソドックスなもの。




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伊賀上野城は、城づくりの名人「藤堂高虎作」

2014年03月12日 23時58分21秒 | 史跡・歴史巡り
豊臣の命で大坂城を守るため、大和(奈良)の郡山城から、筒井定次(日和見主義の筒井順慶養子)が移って来て建てたお城が「伊賀上野城」。しかし、年月が経って逆に徳川家康が大坂城を攻める拠点に使うべく強固に改築するため、城作りの名人「藤堂高虎」を赴任させたのも「伊賀上野城」。家康の謀略で筒井定次を改易(領地・家禄・拝領屋敷没収)に追いやったと言う。そんな正反対の立場をとった歴史を持つ城とされている。





つまり、家康が大坂冬の陣・夏の陣で敗戦したとしたら、ここ伊賀まで逃走して「上野城」に篭城(城にこもって戦う)する覚悟だったと言うが、戦争で国を取った武将ならいざ知らず、多くの調略を用いた黒田官兵衛を始め、竹中半兵衛・豊臣秀吉・徳川家康などの時代から、裏切りが常套手段の家臣達を信じられないようになり、この謀略が主流になって行ったのだろう。



藤堂高虎の大規模改修時は、完備や美観を整えるより実戦本意に配慮したと言う。高虎は伊賀忍者を使い、58カ国148城を密かに要害図を盗写させ、伊賀上野城改修の参考にしたという記述が残っている。大坂城の高石垣に次いで、日本では二番目に高い石垣は「打ち込みはぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、三方に折廻して延長368mにも及ぶと言う。





恒例の天守閣石垣補強も。



「伊賀上野城」の天守閣は、昭和10年復興の木造三層の復興模擬天守であるが、同時期に「大坂城復興天守」の建築を請け負った大林組が、鉄筋コンクリート建築で再建した大坂城と異なるのは「木造」であると言うことに尽きる。木造瓦葺き・白漆喰塗籠の層塔型3層3階。高さは23メートルの大天守と、2層2階の小天守が建てられ、本来の藤堂公のお城とは似ても似つかぬ天守閣であるが、あくまでも「木造建築」に拘った末の妥協であったと聞く。







城内には藤堂藩ゆかりの武具が数多く展示されている。忍者も所々に配置されていて、いかにも伊賀の土地を意識した展示物になっていた。中でも豊臣秀吉より藤堂高虎が拝領した「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」、のちに一族の藤堂良重が拝領後、逆に豊臣を攻めた大阪夏の陣に着用し戦死したと言う、いわく付きの本物兜(上の画像)が素晴らしい。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<切り取り線>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■久々にクイズ・・・・
このあと飛び入りのご当地「新・ゆるキャラ」が現れたが、さて誰だったでしょう?
A.高虎を捩った「タイガー君」が現れた。
B.近所の芭蕉生誕のお家から「芭蕉くん」が現れた。
C.忍者の里、伊賀だけあって「くのいっちゃん」が現れた。
D.登城ゲートから「チケットもぎ蔵」のおじいちゃんが現れた。

興味のある方は、載せきれない画像が「伊賀上野城フォトチャンネル」にまだまだあるので、見て頂きたい。

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すき焼きは大好物・・・・近藤勇

2014年01月15日 22時43分00秒 | 史跡・歴史巡り
葵の花に吹く時代の嵐、乱れて騒ぐ京の空、誠の旗に集いつつ誓う剣は雲を斬る・・・・・お馴染み「新選組」を歌ったものであるが、先日、京都リーガロイヤルホテルに行くことがあり、玄関にある石碑を改めて眺めてみた。新選組局長の近藤勇が詠んだものだが、下手な割にはたくさん残しているようだ。



事あらば われも都の 村人と なりてやすめん 皇御心 (近藤勇)

新選組局長の「近藤勇」が、新選組を結成したころの歌と言うか、決意をしたためたものだが、この地には新選組屯所が伏見に移される直前にあった場所のようだ。俳句なら副長の土方歳三の純なものがワシは好きだ。

差し向かう 心は清き 水鏡 (土方歳三)

新選組局長の近藤は、牛肉を好み「すき焼き」を十数人前平らげたと記述があるくらいだ。鍋奉行は規則正しく野菜を並べることだが、あくまでもこれは撮影用で、本来は鉄板焼きのように割り下で焼肉を楽しんだ後、その出汁で野菜を煮込んでいく。その時は犠牲のお肉を忘れずに残し置くこと。但馬牛のすき焼きはトロケそう。



新選組とは逆の立場でも、同じく日本を良くしようとした人達の石碑が、三条京阪の駅前にある。こちらは池田屋で新選組に暗殺された志士達のお墓を案内する石碑。




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大河ドラマは・・・・黒田官兵衛(岡田准一氏)と親子丼

2014年01月04日 22時35分55秒 | 史跡・歴史巡り
NHKの大河ドラマが5日(日)からスタートする。戦国時代~江戸時代前期にかけての武将「黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」が題材で、姫路城主の長男として生まれた官兵衛は、実父が西国の毛利家よりのスタンスであった。それにも拘らず、信長家臣の羽柴秀吉の側近として仕え、「無血開城」させる調略も出来る軍師として、豊臣家の繁栄と共に九州の大名まで上り詰めた男として有名。秀吉に謀反の疑いをかけられたのち、出家し「黒田如水(くろだ じょすい)」と名を改めた。



彼の兜(上の画像は大阪城展示)は、人を食ったような丼鉢をひっくり返したようなもの。またまた逆にひっくり返すと、親子丼を入れる鉢のようで、お話の成り行き上、究極の親子丼(比内地鶏の彦根ほっこり屋)も紹介しておく。



今年の大河ドラマの主人公、軍師 黒田官兵衛を演じるのは岡田准一さんだと言う。インタビューによると、彼の筋肉の鍛え方は少し風変わりで、部分的な筋肉に負担をかけず、周囲の筋肉で補うようなトレーニングを目指しているらしい。ロケでは約12キロの甲冑を着けての戦闘シーンが繰り広げられるので、筋力アップした彼の演技が楽しみだ。


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京都「東福寺」の紅葉は今が見頃‥‥‥

2013年12月04日 00時42分37秒 | 史跡・歴史巡り
奈良の「東大寺」と「興福寺」は、誰もが知るところであるが、その両寺院に比肩する「大寺院」と言うことで、それぞれの一文字をとって「東福寺(とうふくじ)と名付けられたのが、京都伏見にあるお寺だと以前にもご紹介した。そのお寺が紅葉の真っ盛りだと言うのを聞きつけて、フットワークも軽快に撮影に行ってきた。









上流から順に「偃月橋」「通天橋」「臥雲橋」と、紅葉の見どころに趣きある木造の橋が架かっているので、一般道でもある「臥雲橋」から、「通天橋」に向かってファインダーを構えた。本日は200ミリのレンズも持参したので、季節のカットを大きくトリミングしてお見せ出来そうだ。












‥‥‥‥‥‥<切り取り線>‥‥‥‥‥‥

ここからは「東福寺」ご近所の「勝林院」の3カット。







京都は何回行っても心が落ち着くばかりか、目にも鮮やかな紅葉がワシを迎えてくれた。しかし、少々マナーの悪い隣大国の方が多過ぎるし、心落ち着かせるポイントでの大声の会話は勘弁して欲しい。ついでに京都駅前の風景‥‥‥。






‥‥‥‥‥‥<切り取り線>‥‥‥‥‥‥

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和歌山城は、別名「虎伏城」と呼ぶ

2013年11月21日 00時06分25秒 | 史跡・歴史巡り
ほかのお城とは少し違った経歴を持つ「和歌山城(わかやまじょう)」は、その昔縄張りに「秀吉」が関係していたことが、幕末まで天守閣の色が黒かった理由で、その天守閣は1846年の落雷にて焼失、その後再建されたのが紀州徳川家悲願の白い天守閣で、徳川の世が終わる寸前だったのでお殿様が登ったことはなかったと言う。そして1945年の米軍空襲で再び焼失した。







実は日本のお城の外壁の色と言うもの、乱世の豊臣系武将の居城が「黒」で、平穏な世の徳川系武将の居城は「白」なのであるが、和歌山城は徳川御三家でありながら、何と幕末まで黒い豊臣系のお城だったのだ。これは、紀州を平定した秀吉の弟「豊臣秀長」に築城させたのが始まりだったからで、徳川の世に変わってからも、まだまだ使えそうなお城だったので、そのままの黒い城であった。その築城を担当したのが、名人「藤堂高虎(とうどうたかとら)」で、本丸と一の丸を造ったとある。しかし、今や高虎独特の上のほうに行くほど険しく直角になる石垣が、不明門跡附近に残っているのみ。





石垣ファンにはたまらない光景がある。「野面積み」のところへ「切り込み接ぎ」の石垣が組み合わさっている。あとは「打ち込み接ぎ」と、ほぼ三種類の積み方で和歌山城は構成されている。





和歌山市一番丁にある梯郭式平山城で、1958年の戦後に忠実に外観復元された天守閣は、姫路城と同じ「連立式層塔型3重3階天守」だが、見る方向によっては違った形にも見えるのが特徴。徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城であり、国の史跡に指定されている。お城の裾にコンモリと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に、白亜城と呼ばれた程の美しさで天守閣がそびえ、山全体が虎の伏せている格好に似ているため、別名「虎伏城」と呼ばれて、徳川御三家の貫禄を示すにふさわしい風格を醸し出している。



まず、秀長の城代として「桑山重晴(くわやましげはる)」が入り、関ヶ原の合戦以降は、功をたてた「浅野幸長(あさのよしなが)」が入城したとある。この武将は赤穂浪士で有名な「浅野家」の祖先でもある。そして、家康の第10子である「徳川頼宣(よりのぶ)」が入城し、紀州55万5千石の城となり、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできたのだ。





ここで触れずに通れないのが、暴れん坊将軍こと八代「徳川吉宗」だが、紀州藩の財政再建を成功させたことで、将軍への登用が決まったらしい。彼はここに住んで政治を行っていたが、残ってある宝物や武器の随所に質素倹約が施された後があるが、大ナタを振るったような感じは受けない内容であった。全盛時の四分の一となった現在の敷地を吉宗に見せたとしたら、これが財政再建の早道だったかもと言ったら面白いかも。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<切り取り線>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






石垣を人がよじ登っているように見える根っこと、鷹の爪のような根っこ。まだまだ画像はあるが紹介しきれないので、興味のある方は下のフォトアルバムまでお越しください。



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「真田幸村」が采配かざし仁王立ち! ~鶴橋?焼肉~

2013年10月22日 00時40分50秒 | 史跡・歴史巡り
大阪の「鶴橋」と言えば、全国的にも「焼肉」や「キムチ」などのコリアンタウンで、その名を馳せているが、実はこの場所こそ戦国時代の頃には「鶴橋村(小橋村)として栄え、現在のJR大阪環状線玉造駅付近まで、鶴橋から緩やかな登坂でコンモリと盛り上がった、かつての「上町台地」を現在も感じることが出来る。そこにある「真田山公園」も、高台の場所で北側に「三光神社」があり、真田幸村の銅像が堂々と立っている。今回は久々に史跡・歴史巡りにご招待したいと思う。





三光神社の境内には、棒の先に房が付いた「采配」を勇ましくかざし、仁王立ちする「真田幸村」の銅像。彼は、天下分け目の豊臣氏 vs 徳川氏の対立時、劣勢極まりない豊臣軍に参加し、命の限り徳川本陣に向かって突撃を繰り返し、家康に「最も怖い男」と名指しされた戦国武将の英雄でもあるのだ。この銅像は1987年に建立されたもので、台座には信州上田は真田家の菩提寺から取り出した、真田石を用いていると言う。



その左隣に見えるは、幸村が築いたと伝えられる、大坂城下に通じる地下の道「真田の抜け穴」で、現在は鉄柵が設けられて入れないようにされているが、中を覗くと頑丈に積んだ石垣で、直ぐに左へ90度曲がっているところが微妙‥‥‥。





世が世なら‥‥‥もし豊臣軍勝利の「大坂の陣」だった場合、豊臣のため戦の場に自分の身の置き場所を作り続けた真田幸村は、最高の功労者となっていただろう。天王寺では家康本陣に数知れず特攻をかけ、家康が自刃の覚悟までする窮地に追い詰めたとある。



戦地に「豊臣秀頼」の馬印(出陣)があれば、一気に西軍に勝利を呼べたであろう、関ヶ原の石田三成の助言・大坂の陣の真田幸村の助言などを、ことごとく突っぱねた「淀君」の我が子可愛さの寵愛(ちょうあい)が、豊臣を滅ぼしたと言っても過言ではないだろう。



幸村の銅像目線から、もしやと思い「大坂城」方面を望むと、残念ながら鬱蒼と生えた森やビルで、お城は見えなかったのが何とも‥‥‥。お参りに来られた方の絵馬は、剣道部や受験関係のお願い事が多く、守り神・攻める神・武道の神ということで、社の方から非常に強い「気」が感じられた。

■三光神社
住所:大阪市天王寺区玉造本町14-90
JR大阪環状線「玉造駅」より西側へ徒歩5分
TEL: 06-6761-0372








……………<切り取り線>……………


戦国武将「真田幸村」とその息子「大助」の供養のため、真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺が「心眼寺」で、この場所こそ徳川軍に苦い思いをさせた幸村の秘策「大坂城外砦」があった場所だとある。大阪城に攻め入る徳川軍に向け、小高い砦の中から鉄砲攻撃・突撃などを繰り返し、徳川軍に多大な打撃を与えた場所で、後に真田の出丸を略し「真田丸」と呼ぶが、その砦があった場所だと言う。



門の鉄扉には「真田六文銭(三途の川の渡し賃と云われを持つ)の旗印の文様が光っていた。いずれは、信州上田城 ←突っつくとリンク。へも行って見識を広めたいと強く思った。

■心眼寺
住所:大阪府大阪市天王寺区餌差町2-22
JR環状線「玉造駅」から西へ徒歩15分
TEL:06-6764-0630





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……………<切り取り線>……………


鶴橋と言えば‥‥‥厚めに切った「ハラミ」は、ややジャバラのような切込みが入り、火を通し易いように調理されている。ぶ厚い分、お肉本来の旨味が感じられ、漬けダレも申し分なかった。

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戦国武将 「浅井長政」 と、「小谷城」 の行方 (後編)

2013年09月03日 01時03分14秒 | 史跡・歴史巡り
前編からの続き←※つつくと前編へリンクとなるが、もともとの浅井家は一向一揆集団なので、意見が纏まらないところに弱点がある大名であった。足利将軍の勅命により信長包囲網の一画を担った格好になったが、攻撃力では織田軍団に遠く及ばなかったようだ。しかし、防御力では浅井家居城の「小谷城」は、外敵を凌ぎやすい山城造りとしていて、その自然の要塞は正攻法で攻め入った外敵に「鶴翼の陣(鶴が羽を広げたように大きく敵を懐に引き込む陣形)」的な攻撃方法も兼備していたと言う。画像は、麓からの「小谷城址」と、「黒金門址」で、その名のとおり頑丈な門は「黒金」が打付けてあったと云う。





信長包囲網を図解した解かり易い資料があったので紹介するが、ここへ宗教集団の「石山本願寺」と「叡山」があり、更に東には甲斐の虎こと「武田信玄」が包囲網を担っていた。



逆にそんな強固な山城も、打って出る場合の馬出しが山道のため迅速に遂行できない難点も抱えている。浅井氏滅んだ後の小谷城を信長から任された秀吉だったが、出陣の回数が多いので足かせになる小谷城を見限って「長浜城」へ移る際、再び誰かが入城出来ないように、木っ端微塵に打ち壊して出て行ったと記述がある。画像を見ても殆んどが残骸であるが、唯一本丸址の石垣が残ったと見られる角部分は貴重な遺跡だ。画像は順に、大広間址を2枚。





本丸址も、荒れ果てて残骸の石っころが残るのみ。



僅かに見えるのが、現存している本丸址石垣の一画と言うか石垣の隅っこ。



尾根づたいに連なる城郭の真ん中には、本丸と京極丸の間に「掘り切り」があって、木の橋が架かっていたとされる基礎が発見されている。この橋さえ壊せば一気には攻略出来ないつくりになっているのだが、秀吉に攻められた折には見事に逆手にとられ、京極丸を乗っ取ることで本丸にいた長政と、小丸にいた久政の父子を真っ先に分断したと言う。掘り切りの画像は、少々判り辛いかも知れないが・・・・。



信長でさえも、この小谷城攻めには消極的で、合戦の場を「姉川」にするべく領民の集落に火を放って長政を城からおびき出す作戦を取ったくらいだ。戦いの舞台となった「姉川(あねがわ)」は、「妹川(いもうとがわ)」と共に、民話の中で、別々の道を下っていった姉の龍と、妹の龍が再び出会えたことに由来していると云われているが、その川が血で染まる結果となった激しい合戦であったので、「血川」と言う地名も現地に残っている。この姉川の向こうに龍ヶ崎がある横山城址が見える。



領地の民家焼き討ちなど「織田軍」の姉川への誘導挑発に耐えられなかった結果、城を打って出たことが姉川での浅井の負け戦につながった一番の理由のようだが、これは見晴らしの良い「小谷城」から領地を見渡している「浅井」の立地的に優れている部分を逆手に取った攻撃だった。信長の戦略が一歩上をいっていたと言うことだ。



信長への裏切り行為の、朝倉との挟み撃ちの戦「金ヶ崎の退き口」では、浅井長政の人生最大にして最悪の分岐点にも拘らず、敦賀への信長討伐隊には、浅井側の主力武将達は参戦しておらず、長政が出陣したという記録もない。このことから一説では、織田と浅井の同盟自体も存在しなかったと言う見方もある。また「姉川の戦い」には、朝倉家の当主「朝倉義景」の出陣が無かったのも、本気度を疑いたくなる衝動に駆られる。関ヶ原の西軍の総大将「毛利」と同じようなスタンスだったのではないか?と考えたくもなる・・・・・。これも本丸址。



戦国大名「浅井長政」を滅ぼした本当の理由を探ると不可解なことが多すぎる。そこでワシ独自の意見だが、信長の妹「お市」が持つ不運の人生や、彼女達から引き継がれる「お茶々」の持つ最悪の運勢が、各武将(織田・明智・浅井・柴田・豊臣)を滅ぼしたと考えるのは考え過ぎだろうか? 最後の画像に、現彦根城の「西の丸三重櫓」を紹介するが、これこそ長政がお市や茶々と住んでいた元小谷城天守閣で、長浜城を経て彦根城へと移築されたと伝わる・・・・おまけに甲冑。



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今回は「CANON一眼」と「CANON IXY」と「iPad」での撮影です。
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コミック本「信長のシェフ」や「信長協奏曲」は、幼稚な嘘はなく史実に沿って書かれているし、普通では知られていない織田家臣「森可成(もりよしなり)」と、その家系の「長可(ながよし)」・「蘭丸(らんまる)」にスポットをあてているのが特徴で、そのフィクションと史実の組み合わせ方の融合完成度に驚くときがある。

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北近江と言うか長浜は、このあたりの名物である「のっぺいうどん」。鰹出汁を利かせまくった餡かけうどんで、寒いときには身体がほくほくする効果がある。そして、「鯖そうめん」は若狭の焼き鯖の煮付けと、その出汁で素麺を煮込んだもの・・・・どちらも美味しい。



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戦国武将 「浅井長政」 の弱点と 「小谷城」 の守備力 (前編)

2013年08月30日 00時05分06秒 | 史跡・歴史巡り
北近江は、中山道から北国街道への分岐点に「小谷城(おだにじょう)址がある。城主は、浅井長政(あざい ながまさ)と言う戦国武将。戦国時代から安土桃山時代にかけて北近江を所領とし、15歳の元服時に浅井家の3代目当主となった経歴があり、一昨年のNHK大河ドラマ「お江」浅井三姉妹の父である。下から小谷城址を見上げると、右から登って尾根伝いに左から下りて来れそうだ。登り口の長政の兜のモニュメントは2mほどあって特大クラス。









上の「番所跡」付近から、下の「虎御前山」を見下ろす。

小谷城へ上がる者あれば、最初の難関「番所」が待ち構えており、ここで侵入者を選別したのだろう。この付近からびわ湖方面を見下ろすと、目と鼻の先に「虎御前山」があり、「姉川の戦い」後の勝利者信長が、かかって来いと言わんばかりに長政を挑発する場所に陣を張ったと云われている。鉄塔の右側が信長で左側が家康、信長の右側が池田・羽柴・柴田・丹羽と言ったそうそうたるメンバーであったのだ。尚、明智は京都守護職も兼務していたことから、この地での陣跡は発見されていないと言うことだ。



更に遠くを眺めると‥‥左画像の右奥の山が「姉川の戦い」後に信長勢に寝返ったという阿閉定征(あつじさだまさ)の「山本山城」で、小谷城への兵糧援護はこの城から行っていたと云われている。その向こうはびわ湖で、やや左の霞む島が「竹生島」だが、中国からの有害物質PM2.5さえなかったら、去年撮った右画像くらいには見えるはずだ。



そして「竹生島」を望遠レンズで狙ったが霞んでいる。



もともと「長政」が北近江の戦国大名として名を馳せたのは、浅井の二代目「父・久政」を、当時の家臣が琵琶湖に浮かぶ上の「竹生島」に隠居させたことから始まる。家督を引継いだ「長政」は、15歳の若さで軍を率い信長の妹「お市」との政略結婚で出来た「織田浅井同盟」は、浅井家が最も繁栄を極めた時期であったが、その同盟に当初から反対していた家臣達が、都合良く隠居の父「久政」をかつぎ出した。このような家臣が勝手な行動に出る統率力が、もともとの一向一揆集団「浅井家の弱点」でもあるのだ。

番所の次には「御茶屋跡」がある‥‥‥。



「御馬屋跡」のお次は「馬洗池」と続くのだが、飲料水も大事な山城のことなので、馬を洗うだけのため池とは考え辛く、実は生活用水にしていたのではないかと考えられる。





この区切りの土手が、飲料水と生活用水の区分であると考えても良さそうだ。



本丸方向へと足を進めると「桜馬場跡」と「浅井家供養塔」があるが、いざ小谷の麓での合戦を想定すれば、攻撃側としては「馬出し」がスムーズに行かないばかりか、一列縦隊で困難を極めるものとなるだろう。後に秀吉が任されるこの「小谷城」だが早々と見限って、迅速に攻撃に移れる「長浜城」へ居城を移したのは誰もが知るところだ。



家臣の勝手な考えで担ぎ出された久政は、越前朝倉家に進撃する織田軍を挟み討ちするよう長政に提案し、その意見に押し切られた長政の決断で織田との同盟は解消されたと云う。久政の時代に裏切り者の首を晒したと伝わる「首据石」は、上部が平らになっている。





「黒金門跡」付近から見渡すと「姉川の戦い」時は、浅井の支城「横山城(左やや奥の山頂)で、この城も信長軍団に包囲され、右側に伸びる龍が寝そべった姿からそう呼ばれた「龍ヶ崎」信長の軍23000が本陣を張ったと云う。その手前のグリーンベルトのようなものが「姉川」で、左手前の「大依山」に浅井長政軍8000の陣、その右側のやや広いところに朝倉軍10000の陣があって、徳川6000の陣は朝倉に横槍を浴びせるために、姉川向こう岸右側の離れたところに兵が潜んだと云う。



この図解は大方の見解通りに、徳川が朝倉と対峙したようになっているが、信長軍が開戦当初押し込まれて信長本陣まで迫られた事実から、実は浅井・朝倉同盟軍で、信長を奇襲したと見られる。徳川はあくまでも別動隊で、虎視眈々と朝倉の側面を狙ったと思うのだが‥‥如何だろう? 今回は自分の知識を殴り書くように、キーボードを叩いたので重複していることや、辻褄が合わないところがあるかもしれないが、徐々に完成品に近づけて行きたい。湖岸から竹生島を眺める‥‥湖面が眩しい。



次回【後編】←※つつくと後編にリンクは、黒金門から「小谷城本丸」へと進入するので乞うご期待!


‥‥‥<切り取り線>‥‥‥

コミック本「信長協奏曲」や「信長のシェフ」は、幼稚な作りごとなどは書かれていないばかりか、各主人公の出来事を史実に沿って融合させて書かれている完成度に驚かされることがある。






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比叡山延暦寺は‥‥‥油断大敵!

2013年08月24日 00時00分37秒 | 史跡・歴史巡り
滋賀県大津市坂本にあり、標高848mの比叡山全域に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称を「延暦寺(えんりゃくじ)」と言うが、寺そのものの名称よりも「比叡山」または「叡山(えいざん)」と呼ばれることが多い。平安時代初期の僧侶「最澄(さいちょう)」が「一乗止観院」という草庵を、延暦7年(788年)に建てたのが始まりの天台宗の本山寺院である。

画像は横川(よかわ)釈迦堂が迫力で迫ってくる。


龍池弁財天は、池の上に必ず「龍」のいわれがあるのだ。


弁財天がワシの守護神だと、別々の占い師3人から聞いたことがあるので念入りにお参り。


最澄の開創以来、「空海の高野山金剛峯寺」と並んで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれた仏教の総合大学を名乗れそうだ。平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持ったのだが、特に密教により平安貴族の支持を集め、真言宗の「東寺の密教(東密)」に対して「延暦寺の密教(台密)」と呼ばれ覇を競った。お断りしておくが「黒髪の白拍子(壇蜜)」とは何ら関係ない。

横川の雰囲気ある石仏は、何時の時代から佇んでいるんだろう‥‥‥。




朱塗りの鐘楼は誰でも撞くことが出来る‥‥‥迫力ある重厚な音が響き渡った。


最澄は、天台宗を確立することが自分に課せられたものだが、密教も取り入れることも必要と感じ、高野山金剛峰寺の空海に何度も経典を借り勉強し、自分は空海の弟子になっても学びたいと申し入れたとあるが、このあたりは最澄の真面目さと謙虚さがよくでている。ここで最澄も仰いだとされる「空海」の言葉を紹介したい。

あなたの心が暗闇であれば 出会うものは
ことごとく禍(わざわ)いとなります
あなたの眼(まなこ)明るく開かれていれば
出会うものは すべて宝となります
 (性霊集より)


東塔大講堂から‥‥‥。


根本中堂の石碑の前を通り、更に奥へと進む。


根本中堂の入り口には「撮影禁止」の文字が見える。


比叡山延暦寺。その中核をなす根本中堂に1200年もの間、一度も消えたことがない「不滅の法灯」と言うお灯明がある。毎朝夕に燃料の菜種油を絶やさないように僧侶が注ぎ足し続けているそうだが、気を抜くと燃料が断たれて火が消えてしまう。「油断」「油断大敵」は、ここから出た言葉であるのだ。油を注ぐのは単純で簡単なことだが、それを1200年もの間ずっと欠かさずに継続することは、とても大変なこと。気の緩みがあってはとても続くものではない。これからの人生に活かせそうな教訓だ。根本中堂の内部は「撮影禁止」で、印刷物からの複写となるが雰囲気だけ見て頂いたら重みも解りそうだ。


「不滅の法灯」は「油断」で消えたことがあるからこそ出来た言葉だと思うのだが‥‥‥。



織田信長の「叡山焼き討ち(440年前)」の際には「不滅の法灯」は確かに消え去っている。なのに1200年も受け継がれているって‥‥‥このトリックは、法灯は分灯され「立石寺(りっしゃくじ・山形県山形市山寺)」で灯し続けられていたのだ。理屈はオリンピックの豪雨で消えた松明と、種火の関係に似ているようだ。立石寺のお灯明を元の延暦寺に再分灯されたと言う。



西塔の釈迦堂。


常行堂・法華堂(にない堂)では、今も修行中のお坊様の読経の声が聞こえる。


西塔の石仏‥‥‥iPadで撮影してフェイスブックにUPしようとするも、つながらず。


気になったのが、車止めを越してからも通行禁止の道路を、重い機材担いで汗だくで歩いていると、現役の叡山のお坊様が涼しい顔でハイヤーに乗って警笛を鳴らし追い越していかれた。何か釈然としないばかりか「信長の叡山焼き討ち」とまでは思ってはいないが、当時の腹立たしさも解るような気がすると共に「延暦寺」に興ざめしたので、以後画像を適当に貼っておく。切り株からの若い芽と、井の中の蛙。



比叡山々頂から大津市と瀬田方面を望むと、びわ湖のすぼまった部分が一望できる。


西塔の親鸞聖人修行の場もお城の縄張りのように残っている。


おみくじ発祥の地。







‥‥‥‥‥<切り取り線>‥‥‥‥‥

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必殺仕事人などの、京都近辺の撮影スポット

2013年08月12日 00時03分51秒 | 史跡・歴史巡り
必殺仕事人‥‥‥その決め台詞が番組の冒頭で朗読される。昭和時代に歌った童歌の替え歌となっているのだが、何と風情があって良い感じでもあり、恐怖感も覚えるように作ってあるのがお見事な演出であった。



壱掛け 弐掛け 参掛けて 仕掛けて殺して日が暮れて
橋の欄干腰下ろし 遥か向こうを眺めれば この世は辛いことばかり
片手に線香 花を持ち おっさん おっさん 何処行くの
私は必殺仕事人 中村主水と申します


それで今日は、どこのどいつを殺ってくれとおっしゃるんで?


‥‥‥で、効果音「チャララン、パッパッパッパッパッパラ、チャラリ~ン、ダダダ~ン」この時に一瞬浮かぶのが、京都山城の府道八幡城陽線に架かる木造橋で、全長は356.5メートルある通称名「木津川流れ橋」。木造であるがゆえ、時代劇にはお誂え向きと言って良いほど「故・藤田まこと」さんが、こよなく愛した橋でもあるのだ。



大阪淀川の上流にあたる、京都「木津川」に架かる木造の橋。正式名は「上津屋(こうづや)橋」と言うが、通称「流れ橋」の呼び名の方が有名で、その名の由来は増水時に水の抵抗を少なくするため、橋げたが浮いて流れるように設計されてある特徴から来たものだ。流された折には、つながれた鋼鉄のワイヤーで繋留されるようになっている。



時代劇では旅立ちのシーンとかに使っているスポットだが、その東詰めに必殺シリーズ「藤田まこと」さんが建てた石碑がある。心無いファンが石碑の角や先っぽを削り割って「中村主水」にあやかりたく御守りとして持ち帰るそうで、徐々に小さくなってきているそうだ。

京都宇治・木津川流れ橋


その少し上流の「木津川」に広々とした場所があるのだが、そこでは「大井川の渡し」場面として川人足がふんどし姿で撮影するのも面白いところ。増水時に雨を降らせて「まだまだ川開きは無理なんで、お宿にお戻りくだせぃ」的な雰囲気もあっただろう。江戸時代の現地「大井川」では、川人足の数は川の両岸にそれぞれ350人と凄い人数が定めらていたと言う。

京都山城・木津川


漁師などが登場する場合の海岸線シーン撮影などで、海を必要とする時は必ずと言って良いほど「滋賀県・びわ湖」を利用しており、近江八幡の「八幡掘り」「伏見の酒蔵」なども、江戸時代の大阪「浪華の八百八橋」、東京「江戸の八百八町」と言われる街角を表現するシーンで、犯人を尾行する場面などに登場する。ただ水辺の格闘シーンの悪党が斬られて飛び込むシーンだけは、東映太秦映画村のプールとなっているのがお決まりだ。

滋賀大津・びわ湖


滋賀近江八幡・八幡掘り


京都・伏見の酒蔵


最後に「お宮さん」や「科捜研の女」や「はぐれ刑事純情派」など、京都を舞台にしたドラマでは、鴨川べりの「亀石」や「千鳥」の飛び石は必ずと言って良いほど画面を賑わせているし、国宝彦根城の天秤櫓(てんびんやぐら)前の「木造橋」や、東福寺の「通天橋」は、鬼平犯科帳のエンディングシーンで登場しているので、何度でも繰り返し見ているお馴染みの場所とも言えそうだ。

京都今出川・鴨川


滋賀彦根・彦根城


京都・東福寺








‥‥‥‥‥<切り取り線>‥‥‥‥‥

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