■炎のクリエイター日記

美味しいもの・史跡が持つ歴史のご紹介。お料理はプロ・自作を問わず鮮明な画像で、どんな素材も関西仕立てにクリエイトします。

炎のクリエイター 撮影 & 画像補正

このブログに使用の画像は、殆んどを「iPhone15 pro」で撮り「CANON Power Shot G7XⅡ」と「CANON一眼」などの撮影機器でフォローしています。画像に補正を施せば、とっておきの一枚を奇麗にできます。 ※画像の転載・転用は禁止させて頂きます。 滋賀県の東海道沿い辺りでは、旧正月に獅子に扮した二人組が家々をまわって舞い、獅子に小さいお子の頭を噛んでもらうと、その子は元気に育つという言い伝えがある。舞いに使用する木製の獅子の頭部を「獅子頭」と言い、これも狛犬と同様に想像上の百獣の王ライオンがモデルと言えるだろう。

暴れん坊将軍などの‥‥京都の 「撮影スポット」

2013年08月08日 00時27分53秒 | 史跡・歴史巡り
大覚寺の趣きある門などの撮影スポット ←※つつくとリンクは、先日紹介した通りで各種ドラマ・日本映画のロケ地としても有名だが、境内の「大沢の池(庭湖)」も、日本で三本の指に入る「沢の池」として有名で、池に映る嵯峨野の素晴らしい景観を眺めることができる。





また、浮かべた船から水面に映る「月」を楽しむと言う「観月の夕べ」を催す池としても親しまれているそうで、池に面して立つ「大覚寺五大堂・観月台」と呼ばれるせり出ている床から望むと、時代劇ファンならずとも絶景に驚く。シーンとしては、屋形船の中での代官と大黒屋の悪巧みのような場面は、誰もが知るところだろう。



大覚寺正門から「大沢の池」へ出る右手前に「茶室・望雲亭」がある。その名前の由来は、嵯峨天皇が空海より送られた詩より命名されたそうで、法然上人も訪れたという歴史的なこの場所は、時代劇の撮影ではお店(たな)のご主人が、妾を囲っている別宅や隠居佇まいのシーンを撮影している。



少々アングルを変えるだけで、奥に写るやや新しい瓦葺の家屋は、全くと言っても良いほど見えなくなる。このような技も駆使して撮影は進むのだろう。



「大沢の池」沿いに、野道でつながっているところを更に進むと、チャンバラ場面によく使われる広場があり、「暴れん坊将軍」「鬼平犯科帳」などの撮影に使われているが、うさぎがこっ酷くやられるのもこの場所である。





池の端の野道のような景色も「旅のシーン」で使われ、途中に忽然と建つ「護摩堂」‥‥‥このお堂もまた時代劇では、旅の途中の一服するシーンや、「水戸黄門」の風車の弥七がキセルで煙草を吹かしていそうだ。





心経宝塔・石仏・名古曽の滝址などが、雰囲気の良い地道で散策できるが、この地道こそ時代劇では「旅立ちシーン」に使われる場所で、石仏がズラリと並ぶ景観は、あたかも小道具として用意した備品のようだ。







大覚寺横の「大沢の池」と、その近所の「広沢の池(下の画像)」も含めて確かに画面を通して良く見かけるし、現場に立つと向こうから「水戸黄門」のお銀が走ってくる場面に出くわすような異空間であった。




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必殺シリーズを始めとする・・・・京都の 「時代劇撮影地」

2013年08月04日 00時08分16秒 | 史跡・歴史巡り
定番時代劇は、ついこの間の「水戸黄門」の放送打ち切りが最後の放送となった訳だが、例え特番でも時代劇をテレビで見ることはめっきり少なくなってしまった。強いてあげれば、BS時代劇が細々と復活を願ってという訳ではないが、再放送で流れているくらいだろう。



先日、時代劇や映画のロケ地で知られている「嵐山・大覚寺」に行った折に、時代劇で見慣れた場所があった。まず「大覚寺」を訪れると真っ先に出くわすのは、寺を囲む堀と唐門に通じる石橋が見える角度である。



こうして真っ昼間に眺めると分らないが、「必殺シリーズ」の仕事人の秀さんこと・・・・飾り職人に扮する三田村邦彦が、かんざしを咥えて闇の中から水しぶきを上げて走ってきて、大立ち回りをするシーンで有名なところだ。



お次に控えるは、大覚寺の「正門(大門)」である。映画では大名屋敷や旗本屋敷の門として使われていて、一番の使用頻度を誇っている。



正門に並ぶように建っている「明智門」の由来は「明智光秀」の名を残すものである。名前の通り明智光秀の居城「亀山城(京都亀岡)」から移築した白漆喰が特徴の門で、これもまた「必殺シリーズ」の仕事人、中村主水が一日の仕事を終えて奉行所から出てくるシーンでよく使われていた。



その奥には、立派な「明智陣屋」があり、亀山城の一部と伝えられる木造切妻造の大きな建物で、ぱっと見にはよそのお寺の庫裏と区別がつきにくいが、前に生えている姿のよい松の木(左側にチラリと見える)と、懸魚部分が白漆喰なのも目印となる。「新・必殺仕置人」では寄り合いの外観として、この陣屋が使われていた。



映画「忠臣蔵」では、浅野内匠頭夫人が藩士たちと名残を惜しむシーンが「明智陣屋」の前で撮られているし、「たそがれ清兵衛」では、明智陣屋の前にある蔵が清兵衛の仕事場で、庄内藩の蔵として使われた。大きな井戸が並んで、嵯峨御流の生け花が展示されているから判り易い。



また、拝観受付の右手にある「式台玄関」は、江戸期の建築物で、木造入母屋造瓦葺、正面に銅板葺きの唐破風を持つのが特徴。幔幕に染められた十六弁菊が皇室との縁(ゆかり)を感じさせる。そんな格式高い雰囲気から、「江戸を斬る」では「水戸家上屋敷」として使われたし、「水戸黄門」でも「水戸藩上屋敷」設定が見られる。「必殺仕掛人」では「良家の奥方の旗本屋敷」の玄関として使われていたと言う。



次の機会には、大覚寺は「五大堂の観月台」から見渡せる「大沢の池」から、京都・滋賀の撮影地勢ぞろいと題して東映時代劇の見い出した景観を紹介したい。




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■前回のクイズの正解
椎茸と、エノキ茸は作り物の偽者で、作ったようなピーマンは「子供ピーマン」と言って、ギュッ!っと縮めたような形をしている。証拠に焼いてみた・・・・・正解は「椎茸」と「エノキ茸」でした。

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京都嵐山 「大覚寺」 は、格式高く‥‥。

2013年07月23日 01時05分10秒 | 史跡・歴史巡り
京都は嵯峨野の「旧嵯峨御所大覚寺門跡」通称名「大覚寺」は、嵯峨天皇が建立された「離宮嵯峨院」を起源とし、お孫さんにあたる「恒寂入道親王」を初代住職としたお寺に改められたが、実はこの初代住職は、天皇になる立場だったのだが、藤原一族の政争に巻き込まれ、ついには皇太子の身分をも廃立されると言う立場にまで追い込まれた方だったのだ。燈籠と唐門のツーショットがいい感じ。



余談になるが、我が家に古くから残る家系図があった。藤原氏の世に出ない末裔の次男三男は、仏門に入る慣わしがあり「杉本寺」の寺院の住職になっている人もいる。親父の寺は「善照寺」で、藤原氏の地元で案外多い両寺院‥‥家に安置していた家系図は極めて複雑そのもの。





牡丹の間の「牡丹図」や、北側の紅梅の間の「紅梅図の襖絵」(ともに狩野山楽筆)はお見事で、訪れた人の目の保養になっている。奥へ進むと廊下は、二条城と同じく歩くだけで「キュッ!キュッ!」と木が軋む音?いやいや忍び避けって言うか、侵入者の発見を早くできるような工夫が施されている。そぉ~っと歩いても「キュッ!キュッ!」と音は消せない。





亡き祖父の嵯峨天皇がこよなく愛された「離宮嵯峨院」をお寺に出来るよう勅許を得て、弘法大師「空海」を宗祖と仰ぐ真言宗の寺院「大覚寺」が誕生し、それ以後、明治の初頭まで代々天皇もしくは皇統の方が住職を務められた、格式高い門跡寺院として今日に到るのだ。



この大覚寺のお庭は、白砂が敷かれており、かつての江戸城と同じ事から、「暴れん坊将軍」は度々この寺院で撮影を繰り返し、「松平健」が、白砂の上で立ち回りをしていたそうだ。



敷地内には、弘法大師空海の薦めにより、嵯峨天皇が浄書された「般若心経写経の根本道場」として、今も心を「無の境地」に追いやって信心されている方もおられる。また「いけばな」発祥の寺であり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。このように、今では庶民の間に広まっているような高尚なものは、大抵京の天皇家・公家から発祥している。






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山鉾みたいな 「祇園閣」 は、信長の菩提を弔うため・・・・・

2013年07月19日 00時09分55秒 | 史跡・歴史巡り
京都は、東山の祇園町にそびえ建つ「祇園閣」は、妙に何かに似ている。今が旬の「祇園祭の山鉾」の姿である。この建物がある「大雲院(だいうんいん)」は、浄土宗系の寺院で山号は龍池山。本尊は阿弥陀如来で、寺敷地内は通常非公開なことから知名度はあまりない。





信長から信頼を受けていた、後北条氏の一族「貞安大和尚」によって、織田家「信長」と「信忠」親子の菩提を弔うため、烏丸二条に創建したのに始まり、のちに豊臣秀吉の都市政策の影響で寺町に移転。さらに昭和になって周囲が繁華街となったことから、現在の東山に移転(1927年)された。



大雲院という寺院名は、織田信忠の法名からとってある。に、しても本堂の横にそびえ立つ「祇園閣(1928年)」はとてつもなくデカい。この正体は、大倉財閥の総帥「喜八郎」が、伊東忠太に設計をまかせ、別邸とし建てた「真葛荘」の一部が移築されたとある。この3階建ての建物は、屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣・銀閣に次ぐ「銅閣」を意識して作ったためであって、祇園祭の「鉾」を模して年中見れるようにとのアイデアだそうだ。但し、一番上には鳳凰の飾りが光っている。



本当の函谷鉾と較べてみると‥‥‥やや山鉾が宵々山で装飾品が多すぎて、まともに較べられないのが残念だ。




高さ約34メートルの3階建で、入り口付近の左右の石垣の形が対象になっているのがユニークで、その下層及び基礎の部分は鉄筋コンクリート造、中層以上を鉄骨鉄筋コンクリート造となっている。外観は祇園の山鉾を模っており、内部のライトを支える怪物状の装飾など設計者の趣味が遺憾なく発揮された建物である。そして祇園閣の通路・階段壁面には「中国・敦煌莫高窟の壁画」が模写されている。最上階からは、京都の町を一望できる景観で、左に八坂の塔~右に京都タワーなども手に取るように見える素晴らしい眺望だ。





奥まったところに墓場があり、その入り口の塔の石垣も左右対称の凝りようだ。はいって直ぐに「織田信長」「織田信忠」親子の石碑がある。奥へ進むと「石川五右衛門(いしかわごえもん)」と言う、安土桃山時代の盗賊の墓も実在した。文禄3年に捕えられ、三条河原で一子と共に釜茹でにされたと伝わる。









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祇園祭・・・・宵々山は凄い人。

2013年07月17日 00時11分47秒 | 史跡・歴史巡り
コンコンチキチン♪コンチキチン♪と祇園囃子が聞こえる京都は、祇園祭の宵々山も凄いひとで、うだるような暑さであった。毎年山鉾巡行を、くじ無しのトップで務める「長刀鉾」の周囲が凄い人だかりだ。ただ行くだけでなく、京で疫病が流行したので、何とかくい止めようと八坂神社が始めた「祇園祭」だと言うことだけ把握しておきたい。





この日は、お守り厄除けの「ちまき」を買えば、山鉾の中へ乗り込めるサービス付きなのだ。但し女人禁制で、お相撲の土俵と同じ扱いだ。こちらは別に某大阪の元女性知事みたいに文句などつけることはない。ここからは、男児を連れてきたお父さんの出番で、お母さんは撮影部隊に早代わりして、娘さんとこれを見送る。





この時とばかり、自分の贔屓の山鉾へ足を進めたのだが、この人手に押され彼女の帯結びが・・・・・と、言いたいところだが実はうちわ配りのバイトさん。凄い量のうちわの片面を、媒体として売り、尚それも配って山鉾連合会に寄付をすると言う大変なお仕事だそうだ・・・・汗だくである。





17日の山鉾巡航と言えば、豪華なタペストリーが街中練り歩く「動く博物館」のようなもので、宵々山の日は大事にカバーしてあるタペストリーだが、特に豪華な「函谷鉾」の横を通り、四条を少し上がり「菊水鉾」へ。







このタペストリーは、シルクロードを伝わってきたもので、当時の人々がまだ見ぬ動物の博覧会でもあった。「ライオン→スフィンクス→マーライオン→シーサー→狛犬」と、これも未だ見ぬ「百獣の王ライオン」の偶像をシルクロードが伝えたもので、あくまでも想像上の動物だったのが、この「菊水鉾」のタペストリーで、一足飛びにライオンの姿を島国の日本に伝えてきたものだったのだ。



残念ながら「キリンさん」は、カモシカと折衷になっており、ツノが間違っている。こんなことでも、伝えていく伝言ゲームのような難しさが解かるってものだ。細かいことだが、こんな見方も面白いと思うのだが・・・・・。



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今回は山鉾であったが、九州では「山車(だし)」などと呼ぶ繋がりで、「出汁巻き(玉子8個仕様)」は、豪快に箸で突っついて食べると、白ご飯によくあった。



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■久々にクイズ
山鉾に良く似ている建物が京都にはある。普段には一般公開されていないので知名度はないが、今は特別拝観されていると言うので訪れた。さてこの建造物「祇園閣」・・・・どんな所縁の寺にあるでしょう?
【A】 秀吉の供養のために建てられた寺
【B】 信長の供養のために建てられた寺
【C】 足利将軍の供養のために建てられた寺
【D】 天皇家の供養のために建てられた寺
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京都嵯峨野の 「直指庵(じきしあん)」

2013年07月09日 00時10分44秒 | 史跡・歴史巡り
京都市は右京区嵯峨にある浄土宗の寺院「直指庵(じきしあん)」。京都嵐山のイメージからは少し離れた場所でひっそりと佇む。山号は祥鳳山で、本尊は阿弥陀如来。隠れたスポットとして、この時期の訪問者は平日一日平均5人くらいとのこと。







江戸時代に、独照性円が「没蹤庵(1646年)」を建てた事に始まるこの庵名の由来は、ご住職のお言葉をお借りするならば、仏教の言葉に「直指人身(じきしじんしん)見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という言葉があるが、その言葉から「直指庵」と号したと開祖がおっしゃったらしい。





直ちにあなたの心を指してご覧なさい
そこには仏性―仏様になる仏性があります
成仏できるその心があります


と、続けられたと言う。
時代は移り変わり、その後「直指庵」は荒廃し、幕末に浄土宗の寺として再興されたのが現在の寺院と云うことだ。再興時の建物は明治時代に消失し、直ぐ後に現在の建物が再建(1899年)されたと伝わる。











この庵の「拝観料(\500)」は、本尊さまにお参りに来たとしても必要で、このお寺は檀家さんがない分、現在のご住職は不在で、各地を飛びまわり法話を行い運用の資金を集める、言うならば「托鉢(たくはつ)」をされていると言う。仏教を含む古代インド宗教の出家者の修行形態のひとつである「托鉢」の建てまえは、信者などの家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞い、信者に功徳を積ませる修行だそうだ。またの名を「乞食行(こつじきぎょう)」、「頭陀行(ずだぎょう)」とも言うようだ。





庵の本堂には来訪者が想いを綴る「想い出草」というノートがある。1965年頃から始まったとされ、現在では5000冊以上に上ると言うが、先客が何かをしたためておられたので、ワシは必然的にパスする事となった。先日紹介した落柿舎でタンポポが歌っていた「嵯峨野さやさや」の1番「京都嵯峨野の直指庵♪旅のノートに恋の文字」と歌われているのでも有名だ。



最後に、お叱りを受けるかもしれないが、これも直指庵運営費の一環として描いて販売されている色紙を2枚・・・・・売れて運営状況が良くなるよう、応援の意味をこめての紹介としたい。従って引き伸ばしの出来ないサイズに仕上げておく。

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翌日に大事な人と会う日などに最適な、臭いのしない「大阪王将」の餃子・・・・・何か頼りなかったので、タレにニンニクを刻んで入れてやったゼイ・・・・ワイルドだろぉ?



【前回のクイズの正解】 明智光秀の紋所は桔梗・・・・・流石、お詳しい「ベージュさん」と「英さん。」に軍杯が上がりました。これは・・・・・年の功?失礼! そして、時代劇ファンの「SHOちゃん」も正解でした。
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「東福寺(とうふくじ)」のスポット・・・・通天橋。

2013年07月05日 00時04分10秒 | 史跡・歴史巡り
京都市の東山区と伏見区の境にあたる場所に「東福寺(とうふくじ)」がある。正式名「慧日山東福寺」は、摂政関白九条道家公の「浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る」との発願により、奈良の「大寺」と「興寺」に比肩する「大院」と言うことで、両寺から各一文字をとって「東福寺」と名付けられたのだ。





三門・本堂・方丈・庫裏などの建物は、現在でもお寺の業務が行われているため、逆方向の洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷に架る、上流から順に「偃月橋」「通天橋」「臥雲橋」という三本の橋(東福寺三名橋)を渡って「常楽庵」や「開山堂」へ渡れるようになっている。





特に「通天橋(1380年)」は、テレビ時代劇やドラマのワンシーンで見覚えのある方もおられると思うが、仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋で、谷を渡る労苦から僧達を救おうと架けたと伝う。当時のものは残念ながら台風で崩壊(1959年)したため、その後再建されたが、現在のものは橋脚部分を鉄筋コンクリート仕上げとしている。





通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となった形状のもので、真ん中には張出が造られており、渓谷沿いの新緑が視界に広がるとともに、下流に架かる臥雲橋が望める。今の時期は紫陽花や青もみじを眼下に望める名所として知られる。勿論秋には紅葉が美しい。





拝観料がかからない、帰りの道中に渡る「臥雲橋」からは、東福寺の景観ナンバーワンとも言える「通天橋」が、一番素晴らしいアングルのように思えた。ここがお金のかからないベストポジション!



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【先日のクイズの正解】 いくら間口が狭いと年貢(税金)が安い歴史を持つ、古都京都でも、これはないと思ったが、店名が粋な感じで答えはAの「味人(あじと)」であった。正解者ゼロは残念!



■本日のクイズ
作ったローストビーフの半端な切れ端と、直火焼きの「〇〇〇〇」をポン酢で和えて青紫蘇とレモンをあしらった。さて焼いたものとは何でしょう? ローストビーフの完成品はまた後日に紹介。

【A】 焼リンゴ
【B】 焼しめじ
【C】 エリンギ
【D】 トリュフ

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沖縄産の超美味しい 「細竹」 と、京都 「竹の寺」

2013年06月29日 04時58分23秒 | 史跡・歴史巡り
京都四条通を西に突き当たると「松尾」にでる。そこから左へ暫らく行くと「衣笠山」と呼ぶ臨済禅宗の寺「谷の地蔵(竹の寺)」がある。この地には、もと歌人の「衣笠内大臣 藤原家良」の山荘があったが、家良の没後(1367年)に、官領の細川頼之が当寺を建設した。この家柄は後の元熊本県知事で第79代内閣総理大臣「細川護煕(ほそかわ もりひろ)」を生むことになる。



以後、当寺は丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主となった「細川忠興(ほそかわ ただおき)」の細川家・・・・あの明智光秀の愛娘「細川ガラシャ」で有名なお家の庇護を受け、次々と末寺23ヶ寺を数える一大禅利となった。



現在の地蔵堂は、1935年に再建したもので、本堂には最澄作と云われている本尊の「地蔵菩薩」や、「夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之」らの木像を安置し、庭園にはずらりと並ぶ「羅漢」などがあり風流な感じであるが、受付けで尋ねると地蔵院庭園内は撮影禁止のため画像での紹介は出来ない。



しかし、この地蔵院は受け付けまでの参道の竹林が美しく「竹の寺」と呼ばれるだけのことはあるので、画像的に入山しなくても不思議と損はない。近年は近くの「鈴虫寺」に多くの観光客が集中し、ワシ達ツウには観光客が少なく風情のあるこのお寺は、穴場とも言えそうだ。


■地蔵院(じぞういん・通称竹の寺)
京都市西京区山田北ノ町23
TEL.075-381-3417


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■本日のクイズ
沖縄で採れる美味しく貴重なもので「〇〇〇」の異名を持つが、通称「細竹」とも呼ばれている。どうしてもホワイトアスパラと似ているので、マヨネーズとタバスコをかけてしまうワシであったが・・・・・味的にはこれでギリギリ正解のようだ。さて何と言う名前だろう?

【A】 王朝竹
【B】 大名竹
【C】 将軍竹
【D】 大竹まこと

【先日のクイズの回答】 鰯や穴子に似ているが、「秋刀魚の蒲焼」が正解。3回連続で正解した英さんの×大穴と、tomatoさんが大正解!でした。これを使った蒲焼丼はまた後日・・・・・。

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雨の 「落柿舎」 たんぼ道‥‥‥

2013年06月25日 00時46分12秒 | 史跡・歴史巡り
あの楽曲がヒットしたのは、かなり昔のお話だが、今も嵯峨野あたりの茶店では‥‥‥どこからともなく聞こえてくる「嵯峨野さやさや・タンポポ」の2番で「雨の落柿舎♪たんぼ道」と歌われているのだ。この「落柿舎」は、俳人松尾芭蕉の弟子「向井去来」の別荘として使用されていたと云う。下の画像が庵と横の大きな柿の木の古木。



ここで、タンポポが歌う「嵯峨野さやさや」の動画を少し紹介する。是非これを聞きながらBGMとして読んで頂けたら、つたない文も風流な雰囲気になるかもしれないので‥‥‥。



♪雨の落柿舎 たんぼ道 藪の茶店で 書く手紙
きのう別れた あの人に
京都嵯峨野の 笹が鳴る 京都嵯峨野の 笹が鳴る


この建築物について書いた書物「落柿舎ノ記」のお陰で細かい変遷も判ると言う「落柿舎」の周囲には、かつて40本の柿の木があったと云うが、今は入り口付近にある樹齢約300年の柿が、人の手の届かない高い位置で約20個実るだけ。この柿の古木は甘柿の実らしいが、今はお猿やカラスの食料となっていて、アトは実が落ちるのを待つだけだと言う。



庵の中をのぞくと、へっついさん(かまど)や、居間・寝室、そして書斎のような部屋が充実した造りで、さすがに居心地が良さそうなのは当然の事だろうが、奥のヌレ縁側からは庭が見え、風通しも最高に良さそうだ。







ここに松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を著したのは、1691年(元禄4年※元禄は雅やかな時代で、15年には赤穂浪士の討ち入りがあった)4月から一ヵ月くらいで、一時は野沢凡兆(ぼんちょう)とその妻、去来らが訪ねて来て一つの蚊帳で5人が一緒に寝起きを共にしていた期間もあったと云う。 現在の庵は俳人「井上重厚」による再建であって、場所も建物も芭蕉の時代のものとは異なっている。平成21年9月までの庵の大修復工事が今の「落柿舎」であるのだ。



何故、名前的にこんなチンチクリンな「落柿舎」と言うのか‥‥‥受付けの方に聞いてみた。愛想良く「むかし、庭の柿の実を業者に売らはる契約をしはったあと、柿がぜ~んぶ台風で落ちてしもうたんです」と、お答え頂いた。そのためこう呼ばれ出したと云う。 【先日のクイズの正解】 従って「D」が正解で「英さん。」が大当たり。伊達にギャンブラーをやっていないと言わんばかりのヒットだった。



時間がゆっくり流れる中、獅子脅しのカコ~ンと、鶯の鳴き声が双方はいるように撮影していたら、結構な時間を費やしていたと言うオチ付き。次回は柿の実がなる秋に訪れたいと言う思いがよぎった。




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■本日のクイズ
白ご飯?に、青紫蘇と刻み海苔を敷いた。さてこのアト上に何かを盛って「〇〇丼」の出来上がりとなるのだが、さて何丼でしょう?
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嵯峨野 「常寂光寺」 の青もみじは若々しい。

2013年06月21日 00時07分29秒 | 史跡・歴史巡り
秋の燃えるような真っ赤な「紅葉」を情熱的と喩えるなら、この季節になって青々とした(実は緑なのだが・・・・・)もみじの色彩が、若々しさの象徴のようで実に美しい。嵯峨野の「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」は、初夏の急に暑くなり出した気候のなか、我さきにと芽吹いた「青もみじ」が、素敵な情緒を醸し出している。



百人一首で詠まれる小倉山の中腹斜面にあって、境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされ、山号はその名も「小倉山」と呼ぶ日蓮宗の寺院を訪れた。



最初にくぐり抜ける「山門(下の画像)」は、太い角材を格子に組んで造られていて、江戸後期に再建されたもので、閉門しても墨色に塗られた角柱の格子の間から、中を伺える開放的な山門であった。ひと度くぐって視線を上げると、辺り一面の新緑・青もみじの向こうに仁王門が構えている。





まず目に飛び込んでくる「仁王門」は、南北朝時代の1345年~49年に建立された「本圀寺客殿の南門」を移築のうえ仁王門にしたと言う。 この建造物が境内建築物の中で最も古く、特徴は珍しい茅葺の屋根と、仁王像は身の丈七尺で「運慶作」と伝えられているが・・・・・真実は不明。仁王さまは目と足腰の病にご利益があるとされているので渡りに船で、先日からの腰の痛みが治癒するように祈願したのが良かったようだ。最近調子が上向き。





ここを通り抜けると右が山道で、真っ直ぐ前は石段がある・・・・・ここは腰の状態も考えて、右へ進路をとった。石碑などがあり、良くわからない像もまた。説明はあるので知りたい方は読むことも可能だろう。



女ひとり 生き ここに 平和を 希(こいねが)う

第二次大戦時の男性は、当時の教育のもとお国のために散っていったが、残された女性は孤独に我が子の平和を願うが、生きるのに精一杯で、人間性も保てないような殺伐とした世の中になる戦争は二度と繰り返したくない・・・・。そのような叫びだろう。下の画像は「釣鐘」で案外新しい。





常寂光寺の「多宝塔」は1620年建立。高さ12メートルで檜皮葺は国の重要文化財に指定されており、寺伝では1596年に「日上人」が、当寺に隠棲して堂舎を建立し、さらに戦国大名の「小早川秀秋」の援助も得て、桃山城客殿を移築して本堂としたと伝わる。





青々とした「青もみじ」に包まれると、身も心も癒やされてパワーがみなぎってくるようでもあり、心身のリフレッシュになること間違いなし。そんな折、この季節のJR東海「そうだ 京都、行こう。」シリーズは「京都青もみじ」のキャンペーンだと言う。このような企画の目の付け処がさすがに「ジェイアール東海エージェンシー」であるし、影では「電通」が牛耳っている青もみじであった。



■常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
所在地:京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
電話番号:075-861-0435
拝観:AM9:00~PM5:00 (PM 4:30受付終了)
拝観料:400円


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【クイズの正解】 しじみちゃんとtomatoさんが大正解で「黒マグロの脊髄(下の画像左)」でした。その対の間のゼリー状のものを、スプーンですくって戴くと、まぐろの味がするのにはビックリ!



【本日のクイズ】 この煮物(上の画像右)は、肝を煮込んだものだが、何の肝でしょう?これまでで一番「超」難解な問題である。ヒントは、普通に肝の味だが、後味に苦味が残るも心地の良い苦味であった。
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お殿様も嘆くであろう‥‥‥ 「富山城」

2013年06月05日 03時31分02秒 | 史跡・歴史巡り
かつて有名どころでは加賀百万石の前田公がはいっていた「富山城」は、現在は模擬天守閣として資料館の役割を果たすべく、鉄筋コンクリートで「富山城址公園」に収まっている。もともと富山の地は「北陸街道」と「飛騨街道」が交わる越中中央の要衝であり、越中東部への進出を図る「水越勝重(神保長職)」によって16世紀中頃に築かれ、三代に渡って居城とされていたが、東部の椎名氏への儀によって出陣した越後春日山城主「上杉謙信」に攻め取られ小笠原長隆→上杉信定を城代に置いた。



江戸時代の縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら三つの郭で囲み、さらにそれを三の丸で凹状に囲む形のものであった。ただし、本丸搦手を守る東出丸はほかの郭のように三の丸に内包されておらず独立しており、また神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、防御面では弱点を晒していたと云う。謙信の影あるところに「武田信玄」の「謙信を挟み撃ちにしましょう」みたいな書状は必ず存在するもので‥‥‥それが達筆な下の画像。




 
上が織田信長からの書状で、か細い字体が本人のイメージとは逆で、当時の武士では珍しく「花押(かおう)」で自分を証明するべきところを、チャッカリ「印」を押している。織田勢力が増す中、越前小丸城主「佐々成政」が、富山54万石で城を改修し城下町の整備を行った。その後成政は、信長死後の後継者争いで反秀吉の立場をとるが、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降った。豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になり最終的には切腹と言う悲しい結末を迎える。





本来の「富山城」の風貌は、天然の要害である神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見えた事から「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に築かれた富山城は、江戸時代以降は後ろ堅固の梯郭式平城で、四方を水濠と河川とで二重に囲まれた大規模な構えの城であったと云う。幻想的な雰囲気だったこともあり、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城のひとつとも云われている。





さて、関ヶ原の合戦における武功により、家康から金沢城主とされた「前田利長」は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。初代前田利家公の遺言状「生涯前田家は豊臣家に背くことを禁じる」を破った末裔「利長」が隠居後、富山城に移るも主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移ったと記されていた。三代前田利常から10万石を与えられ分家した次男「前田利次」が、廃城と化していた富山城を修復、入城してここに「富山藩」が成立した。以降、富山前田氏13代の居城として明治維新に至った。







公園内に残る石垣や堀、お城の基礎となった石や当時の燈籠の残骸からは、前田百万石の威容をしのぶことは出来るが、平成26年完成予定で再整備工事が行われている途上の「富山城址公園」であったのが残念。平成18年からの富山城石垣改修工事に合わせて石垣の調査も同時に行われ、当時の築造技術の素晴らしさや、歴史的価値の高さが判って来たようだ。戦後に建設された天守閣内の「富山市郷土博物館」では、400年以上にわたる富山城の歴史を紹介されていて、こう言う歴史もつぶさに解り得るのだ。


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【クイズの回答】 富山湾の漁師網にかかる「ゲンゲ」と言う、目が退化した鰻のような深海魚でした。昔は漁師さんのまかないになっていたが、最近ではその美味しさから名物になっている。



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■クイズ
刀は、上の画像のように刃を上向けて鞘に納まっているが、刃を下に向けて佩用(はいよう)する、下の画像のものは何と呼ぶのでしょう。

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霞ヶ城と呼ばれる 「丸岡城」 は現存するお城?

2013年05月30日 05時18分55秒 | 史跡・歴史巡り
福井県坂井市丸岡町霞の、小高い独立した丘陵に築かれた平山城「丸岡城(まるおかじょう)」は、築城当時から現存している城と言うことで足を伸ばして見たが、どうやら福井地震の時に倒壊していたらしい。復元天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された後、「国宝」に指定されていたが、現在は重要文化財の指定を受けている。





このお城は、別名「霞ヶ城」とも呼ばれ、その由来は合戦時の不利な状態になると、大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説に基づくもの。お城もこの時代まで残そうと思うと、何かしら幸運のようなものが無いと困難なのも納得出来るところ。その大蛇が出てくる井戸と竜神さまのお堂にお賽銭を入れ、一攫千金をお願いした。





現在の丸岡城は、天守閣のみが現存していて、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から、現存最古の天守とも呼ばれていたが、古さでは「犬山城天守閣」ではないか?との論争がある。柴田勝家の姉の子供である「柴田勝豊」の建造である場合は、1576年頃と推測出来るが、建築史の観点では慶長期の特徴を多く見られるので、1596年以降の築造もしくは、改修による姿ではないかと言う説もある。







安土桃山時代(1576年)に、織田信長の家臣で越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家。その甥にあたる柴田勝豊によって築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。本能寺の変(1582年)後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移されたので、代わって勝家は安井家清を城代に据えた。柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされる(1583年)と、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝を置いたとある。
以後、安井家清→青山宗勝2代→青山忠元2代→今村盛次→本多成重4代→有馬清純8代となり明治維新を迎えた。・・・・・って、徳川家はこの間何代入れ替わったことか。血縁が続いているかは絶対に怪しい。天守閣最上階の突き上げ窓より東西南北と見渡す。





また、昭和23年の福井地震によって「丸岡城」は倒壊した。その後、昭和30年に現物部材を組みなおして修復再建されたとある。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓に改変されている。独立式望楼型二重三階で、一階平面を天守台に余分を持たせて造られているため、天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦で「寒冷地仕様」に葺かれていると言われる。ご覧の通り天守閣の階段は急なため、観光用の補助縄が取り付けられているが、カメラを持った状態での昇り降りはキツイものがあった。







石垣は、当時の野面積みがそのまま現存していると言うことなので、恒例の石垣補強作業を完璧に行った。しかし、この石垣悲しい伝説が残っている。それは「人柱お静の伝説」と言い、丸岡城を築城する際に、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかった。そこでこの時代の人達は人柱を立てる事となったのだが、城下に住む貧しい片目が不自由な未亡人「お静」が、息子を武士に取り立てる事を条件に、人柱となる事を申し出た。



その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了したのだったが、人柱を立てるとスムーズに事が運ぶのは、現代では不思議としか言いようが無い。柴田勝豊はほどなく豊臣秀吉に滅ぼされ、その約束は果たされなかったため、それを怨んだお静の怨霊は大蛇となって暴れたと伝わる。毎年4月に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼んだ。城内にはお静の慰霊碑が寂しげに建てられている。下の画像はお静の五輪塔アップ。





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イイネ
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二番じゃいけないんですか?岩盤の 「如来さま」

2013年05月27日 00時08分14秒 | 史跡・歴史巡り
上朝宮の集落入り口に立つ「岩谷観音」の道しるべ・・・・細い県道にはいって両サイドに茶畑を見ながら山の奥へと進む。車が対向出来るかどうか微妙なくらいの道幅を気にしつつ走ると、道標が無くなり不安になって農家の前で作業の方に聞いてみると「まだこの奥の方や」と教えて頂けた。暫く行くと谷川に架かる橋を渡って、鬱蒼とした山中に忽然と現れたのは懸崖造りの小さな小堂。「仙禅寺跡」の石碑が建つ後ろに更に碑がふたつ。三脚にセットしてシャッター速度6秒の画像は如何?



先日紹介した「朝宮茶発祥地の碑」と「松尾芭蕉句碑」である。芭蕉先生の俳句は、先日紹介したワシの俳句とは雲泥の差で・・・・・

木がくれて 茶摘みもきくや ホトトギス (芭蕉)


・・・とあった。そう言えば姿こそ見なかったが、ホトトギスが来る道中で鳴いていたような気がする・・・・ちょうど時季なのだろう。





このお堂の正式寺院名は「岩谷山 仙禅寺(いわやさん せんぜんじ)」で、山号の岩谷山から通称「岩谷観音(いわやかんのん)」と呼ばれている。この「仙禅寺(せんぜんじ)」は「奈良時代(723年)」に創建され、山城鷲峰山金胎寺の別院として栄えたそうだが、南北朝時代と戦国時代の2度に渡る戦火で焼失し、現在は巨木に囲まれた巨岩の上に建つ小堂が再建してあり、本尊「十一面観音秘仏」を安置している。



観音堂の床下の3メートルあまりの巨岩の岩肌には、「三尊形式の仙禅寺磨崖仏」が浮彫りにされており、中央に高さ80センチの「薬師如来座像」が彫られ、その脇にも右上に「不動明王立像」と、左上に「毘沙門天立像」を彫出するとのことだが、うっすらとお姿が確認できる程度である。左の脇像の下に「建長元年11月8日大施主」と陰刻されているそうだが、こちらは確認できない。鎌倉時代のものとしては、我国で二番目に古いものと伝わるのだが、そんな事より天然の石や岩にコツコツと彫り続けた人の執念のような、一心不乱な姿が浮かぶような周囲の空気に圧倒された。



お堂の方は、ピシャリと引き戸が閉められているが「火の後始末に用心」と書かれていて、誰でも自由に参拝出来るような雰囲気だ。ここまで来たら開けずに帰るわけには行かないので、思い切って開けるも中から伝わってくるものは異様な別世界の空気に思えた。それは、霊的なものではなく、神秘な恐ろしさからくるものだろう・・・そう結界のようなものと受け取ってもらっても良さそうだ。





まるっきり光が入らない真っ暗い祠の中には本尊の「十一面観音像」があり、気配がおどろおどろしい雰囲気だったので、画像は入り口付近から強引にストロボを光らせて収めたが、格子の向こうにレンズを突っ込んで写す気にはなれない空気が漂っていたからだ。神式に乗っ取って心中は「一攫千金」を、ずっと願いながら手を打ったあと、しっかりと後始末もして引き戸を元通りに戻しながら岩谷観音を後にした。横の谷川は清流が脈々と流れている。



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【クイズの回答】 通常は沖ギスとか、ニギスと呼び、料理名は焼きギスと言って、キスを焼いたもの。地方名は、オキギス(沖ギス)・ニギス・オキウルメ(沖うるめ)・オキノガマス・キツネエソ・トンガリ・ハダカ・ミギス・メギス・チョウセンギス(朝鮮鱚)・トンコロ・オキキス(沖鱚)などの呼び名があるらしい。もともと軽く焼いてあるだけなので、焼きながら戴くと丁度いい具合の肴になった。しじみちゃん大正解でクイズクイーン復活!



■おことわりとクイズ
本日から「ジャムおじさん旅行」で、富山の方へ出発します。お返事や訪問を満足に出来ないかも知れませんが、応援よろしくお願いします。先日、食べた「葱たま牛丼」はリピートはしないだろうと思われる味であったが・・・・・さてこの丼を販売している店名はどこでしょう?
【A】牛丼の松屋
【B】牛丼の吉野家
【C】牛丼のすき家
【D】牛どんの背中

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強者どもが夢のあと 「将軍塚」 ~京都東山~

2013年04月14日 00時02分17秒 | 史跡・歴史巡り
一般的には、京都を一望できる「夜景」や秋の「紅葉」を楽しむカップルのスポットとされている「将軍塚」は、京都の東山の頂き付近にあり、春の「桜」がやや遅くまで楽しめる行楽地である。山門(福徳門)を進むと木造お寄棟造りで瓦葺のお堂に突き当たる。堂内にあるのは、付近の山中から掘り出された石仏の「大日如来像」が安置されている。



奈良から京都の南方「長岡」に都を移された「桓武天皇(かんむてんのう)」は、天皇家に事故や不可解な出来事が頻繁に起こったことに頭を悩ませる。そんな「桓武天皇」を、京都東山の頂きに案内した「和気清麻呂」の京都への遷都進言に「平安京」が実現されたのだ。下の画像は三条大橋で「石田三成」や「長宗我部盛親」が、六条河原で斬首刑後、三条河原で晒し首にされたとある。言わばとんでもない心霊スポットかも・・・・・。



小さなゲートをくぐると、境内には「大隈重信お手植え松」や、甲冑を着せた人形に太刀・弓矢を持たせた上で埋めたと伝わる「将軍塚」がある。国家や天皇家に災いが起こりそうになると、この塚が鳴動する不思議なスポットとされている。





下の画像のように、直径約10mの円形の「塚」には、甲冑を身にまとった「将軍人形」が西の京都盆地を向いて埋められてあるので、それが由来となり「将軍塚」と呼ばれるようになったと言う。「桓武天皇」が、京都守護のために作らせたこの仕掛けは、怨霊封じのシステムとしても機能しており「保元の乱(1156年)」や、「治承の乱(1179年)」には朝廷の危機を知らせるために鳴動したと伝わる。「太平洋戦争」が起こる直前にも鳴動したそうだ。



ここで出たぁ~!「伝」によれば「和気清麻呂の屍を、棺中に立たしめ、平安京に向ひて葬り、甲冑・刀剣・弓矢と共に埋め、死した後も京の守護をさせた」とあるのだが、一般的には前述したように「土偶に、甲冑・刀剣・弓矢を装着し埋めて守り神とした」とある。残虐な「人柱」などの仕打ちが罷り通った時代に、前者をやわらげ伝えたのが後者の作り話と受け取れそうだが・・・・どうだろう?



岩の割れ目から松が生えている「一念松」は、生命力の強さを改めて知る凄い念で、この塚がパワースポットであることを証明しているものであった。



将軍塚は「強者どもが夢の跡」でもあり、乃木大将・東郷元帥・菊池大麓・大隅重信などのお手植の松が植えられている、やや軍神的な背景もある。各植樹の横には石柱や石碑が、その松と共に残され、偉人達がこの地から京都の町を見下し、豊かな日本国造りを心に誓ったのではないかと想像される。





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史実に基づいて、ワシ独自の意見や解釈も記してあります。
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境内には二箇所の展望台があり京都市街が一望でき、サスペンスドラマの結末シーンで見覚えある方がおられるかも? 枯山水とそのバックには京都盆地と見晴らしの良いところで、「カンパーニュ」のスライスで仕込んだ「ハムオニオンサンド」を楽しんだ。

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日本三名園の 「後楽園」 と 「牡蠣のお好み焼き」

2013年03月31日 00時27分44秒 | 史跡・歴史巡り
岡山城から川を隔てて北にある「後楽園」・・・・・当初の「宇喜多親子が城主」時代は、城の防御を固めるがための堀の代わりとした「旭川」に守られ小姓の住居が並んでいたところだと言う。藩主の座は宇喜多氏、小早川氏、池田氏へと移り変わり、4代目の池田綱政の治世となる。





上の画像は、後楽園の「延養亭(えんようてい)」と言う藩主の居間。つまり園内で最も重要な建物だが、これも米軍の爆撃で岡山城と同じく焼失したらしい。どんだけ爆弾を見境無く落としたんだ! 昭和35年に築庭当時の間取りに復元された。園内外の景色が一望出来るように作られており、歴代藩主もここから眺めたと言う。



「池田綱政」は、宇喜多秀家時代の「小姓町」に、自らの休息のための庭園を造るよう命じ、完成したばかりの延養亭で工事に携わっている家臣の労をねぎらって、園内で宴を催した事実などがあり、1700年に一応の完成をみた。



なお、庭園の当初は「御菜園・御菜園塚」などと呼ばれていたが、城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるように次第に変化していった。戦災をまぬがれた数少ない建物の一つに「廉池軒(れんちけん)」がある。池に架かる石橋や対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えていて、ここから「沢の池」越しに見える松林や曲水と池の段差など、起伏に富んだ景観を眺めることができる。



幕末にもなれば、徳川の力が衰えたこともあり、9代藩主「池田斉敏」が、実の父親で薩摩藩主の「島津斉興」を「後楽園」でもてなした記録もあるようだ。ジャムおじさんが、鯉に餌の麩を与え始めた。



明治時代には財政的に苦しかった「池田家」が、岡山県に土地は無償で「後楽園」を寄付すると同時に、建造物と樹石は有償「1万2500円」で譲渡することを決めた。そこから岡山県が後楽園の文化的価値や観光価値をあげて「日本三名園」までになったようだ。園内六鎮守のひとつ「地蔵堂」がひっそりと佇んでいる。



巨大な花崗岩を、運搬からの理由で九十数個に割り、もとの形に組み上げたものが「大立石」で、築庭にあたり池田綱政が運ばせたもの。大名庭園ならではの豪快な高さ7.5mもある花崗岩で、ひとつでありながら「雌雄同体」をあらわすのだ。岩全体の姿が陽、池の対岸から見える割れ目(ポッ!)の側が陰と言うことで、この岩は大きさのため90数個に分割して運搬し、この地で元のように組み上げたものなのだ。その技術は、石垣の構造や加工技術の高さが窺える貴重なもので、石の割り方がわかる木型も残っていると言う。この石は世界遺産に暫定登録申請中とあった。



今回「ジャムおじさん」と「とも」との3人旅で行動を共にしたのだが、初参加の「とも」は煙草が吸えない施設が多かったので、灰皿のある場所で腰を下ろし落ち着いてしまっている。喫煙者にとっては、多額の納税を義務付けられた上に、気軽に吸えないと言う・・・本当に住み辛い世の中になったものだ。灰皿が石垣・・・・。



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岡山の瀬戸内海沿いで、新鮮な牡蠣が獲れる地区があるが、その辺りでは「お好み焼き」に「牡蠣」を入れて焼く「牡蠣おこ」がある。豪快にギッシリ牡蠣を並べた「牡蠣おこ」からは、香ばしく焼けた海の香りと、濃厚なミルク味の相乗効果で、たまらなく美味しかった。



これは間違いなく・・・・ビールで良いだろう。
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