かつて有名どころでは加賀百万石の前田公がはいっていた
「富山城」は、現在は模擬天守閣として資料館の役割を果たすべく、鉄筋コンクリートで「富山城址公園」に収まっている。もともと富山の地は「北陸街道」と「飛騨街道」が交わる越中中央の要衝であり、越中東部への進出を図る「水越勝重(神保長職)」によって16世紀中頃に築かれ、三代に渡って居城とされていたが、東部の椎名氏への儀によって出陣した越後春日山城主「上杉謙信」に攻め取られ小笠原長隆→上杉信定を城代に置いた。
江戸時代の縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら三つの郭で囲み、さらにそれを三の丸で凹状に囲む形のものであった。ただし、本丸搦手を守る東出丸はほかの郭のように三の丸に内包されておらず独立しており、また神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、防御面では弱点を晒していたと云う。謙信の影あるところに
「武田信玄」の「謙信を挟み撃ちにしましょう」みたいな書状は必ず存在するもので‥‥‥それが達筆な下の画像。
上が織田信長からの書状で、か細い字体が本人のイメージとは逆で、当時の武士では珍しく「花押(かおう)」で自分を証明するべきところを、チャッカリ「印」を押している。織田勢力が増す中、越前小丸城主
「佐々成政」が、富山54万石で城を改修し城下町の整備を行った。その後成政は、信長死後の後継者争いで反秀吉の立場をとるが、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降った。豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になり最終的には切腹と言う悲しい結末を迎える。
本来の
「富山城」の風貌は、天然の要害である神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見えた事から
「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に築かれた富山城は、江戸時代以降は後ろ堅固の梯郭式平城で、四方を水濠と河川とで二重に囲まれた大規模な構えの城であったと云う。幻想的な雰囲気だったこともあり、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城のひとつとも云われている。
さて、関ヶ原の合戦における武功により、家康から金沢城主とされた
「前田利長」は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。初代前田利家公の遺言状
「生涯前田家は豊臣家に背くことを禁じる」を破った末裔「利長」が隠居後、富山城に移るも主要部の建物をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移ったと記されていた。三代前田利常から10万石を与えられ分家した次男
「前田利次」が、廃城と化していた富山城を修復、入城してここに
「富山藩」が成立した。以降、富山前田氏13代の居城として明治維新に至った。
公園内に残る石垣や堀、お城の基礎となった石や当時の燈籠の残骸からは、前田百万石の威容をしのぶことは出来るが、平成26年完成予定で再整備工事が行われている途上の
「富山城址公園」であったのが残念。平成18年からの富山城石垣改修工事に合わせて石垣の調査も同時に行われ、当時の築造技術の素晴らしさや、歴史的価値の高さが判って来たようだ。戦後に建設された天守閣内の「富山市郷土博物館」では、400年以上にわたる富山城の歴史を紹介されていて、こう言う歴史もつぶさに解り得るのだ。
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今回は「CANON一眼7D」と「CANON IXY」と「iPad」と「携帯」での撮影です。
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【クイズの回答】 富山湾の漁師網にかかる「ゲンゲ」と言う、目が退化した鰻のような深海魚でした。昔は漁師さんのまかないになっていたが、最近ではその美味しさから名物になっている。
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■クイズ
刀は、上の画像のように刃を上向けて鞘に納まっているが、刃を下に向けて佩用(はいよう)する、下の画像のものは何と呼ぶのでしょう。