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須永博士の人生①【誕生~中学生】 - 須永博士美術館スタッフブログ
今日は立春ですね。来週、2月11日に83歳の誕生日を迎える須永博士です。東京生まれの須永博士が50歳の時に、ここ熊本県小国町に出逢って1998年に須永博士美術館をつく...
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須永博士の誕生~中学生までを書きました。
中学生までは、目立つこともなく、成績も悪く、唯一中学校に入り入部した陸上部で走る楽しさを知った須永博士です。高校入試も、行きたい学校も無く・・・先生に薦められた高校を受験し公立高校不合格、合格した私立高校へと進学したのでした。
今日は高校での生活~を紹介します。
【高校入学】
昭和32年春 東京千代田区の私立錦城学園高校へ入学
「どうせ自分はこの程度の人間だ。だからそれ以上やると疲れるし、努力してもみんな以上になれるわけが無い。
自分からがんばる 挑戦するなんてことは できない。やらない。」
ずっと、ず~っとそんな考えで生きていました。だらしない、やる気のない高校生活でした。
ただ、絵を描くことだけは相変わらず好きだったので、美術部に入部しました。
毎日、楽しいことも無い、遅刻、欠席の繰り返しで、勉強もほとんどせずよく卒業できたと思います。
教室では休み時間、いつも絵ばかり描いていたのですが、2人の友との出逢いがありました。
1人は、いつも成績のビリ争いをしていた日下部君。彼とは気が合い、話も合い、家が学校からの方向が同じで近かったこともあり、
よく一緒にいました。そしてもう1人の友との出逢いがその後の人生を大きく変えてくれました。
その友人は、工藤君。頭も良く優しい同級生でした。
美術部で描いた自分の絵に興味を持ってくれ、休み時間に「何を描いているの?」と声をかけてくれて、
その絵をあげると喜んで自宅に持ち帰ったりしていました。
絵を描いて工藤くんに見てもらうことも、何となく嬉しいことでした。
【大学受験~高校卒業後】
「高校を卒業したら、父の写真屋を継ぎなさい。そのために写真を学べる大学に入りなさい。」
と、母に言われるがまま、写真の専門学校、そして大学を受験。
でも、受験した3校すべて不合格。 高校3年間、ずっと成績はクラスの最下位争いをしているくらいでしたので
写真を学ぶ学校の受験に必要な理数系も全く分からず、受かるはずもありません。
進路の決まらないまま、卒業できるかどうかも分からないような状況でしたが、卒業証書を受け取り、何とか高校卒業しました。
卒業後は、当時父親が営んでいた写真屋の手伝いをしました。
浅草や錦糸町の写真屋から現像の依頼を受け、その写真を自転車で配達するのが自分の仕事でした。
父は仕事は出来る人でしたが、夜はお酒を飲みに出かけ、その飲み屋さんの女性と仲良くて家に帰ってこない日もありました。
家に帰ってきた父に、母が問い詰め、父が大声で怒鳴ることが何度もあり、わたしは母を泣かす父が大嫌いでした。
大嫌いだった父ですが、感謝していることもあります。
自転車で配達をしていたのですが、父が「ひろし、車の免許を取れ」と言ってくれてお金を出してくれました。
教習所での車の運転が楽しくて、その時は「将来はタクシーの運転手になりたい」と思っていたほどでした。
運転免許を取得しましたが車は買えなかったのでオートバイを買い、配達に通いました。
いつも配達に行く写真屋さんに
「君はよく働くね。もしよかったら、自分の弟の会社で働かないか。」
と紹介されました。それは、タイヤの販売代理店でした。車も好きだったし、母も就職を喜びました。
社会人として・・・「働いてみるか。」と、深く考えることもなく就職してみたものの、
人とうまく話せない。 今まで大変なことはみんな母がしてくれていた。
そんな自分が、タイヤを勧めても誰も買ってくれない。
会社の上司からは、毎日のようにみんなの前で
「お前はダメだなあ。」
と言われる。
でも、母は有名なタイヤメーカーへの就職を喜び、自分の苦しみ、悩みは理解してくれない。
家に帰ったってつまらない。
新宿という町で、営業に出かける毎日。
来る日も来る日も、うまくセールスできない。どこへ行っても断られる。
「あ~、いやだなあ。」「辞めたいなあ・・。」
そんな気持ちでいるから余計に売れるはずが無い。
上司に呼ばれ、みんなの前で比べられる。また落ち込む・・。
「あ~あ、もういやだなあ。」
「みんな俺のことをバカにしている。笑っている。」
「がんばったって売れやしない。」
こんなことを頭の中でぐるぐる考えていました。
働いて半年後くらいに、大学卒の優秀な人が入ってきて・・・その人から
「あなたは何にもできないんですね。」
と言われました。
それまでも、自分が勉強もできない、世の中のこともよく知らない人間だということは感じていましたが、
言葉で直接言われてとても苦しかったです。
それからも毎日のように
「お前はダメだ」「役に立たない」と言われ続けるうちに、人が信じられなくなり、
電車に乗っても身体が震えるようになってきました。
思い切って、母に「辞めたい」と相談してみたら・・・。
「あんな良い会社、なんで辞めたいなんていうの。」
と、やっぱりか・・・。という返事。
そんな時唯一の安らぎがありました。
いつも、会社の帰り道の銀座へ向かい夜のネオンや大きな鮮やかな看板を見て、それを絵に描いていました。
「きれいだなあ。」
「ずっと絵を描いていたいなあ。」
やはり、絵を描いているときだけが自分の心が落ち着くのでした。
家で母には悩みを打ち明けることも無く、いつも会話はほとんど無い生活でした。
【突然の父の死(須永博士20歳)】
突然でした。
昭和37年3月 大酒のみの父は、50歳、脳出血で亡くなりました。
家にいると、母と口論する父が大嫌いでした。
その日もお酒を飲んで酔っていた父は、私の態度が気に入らずもみあいになり、
大声を張り上げた時に突然苦しみだしてその場に倒れました。
私はその場を離れたくて外へ飛び出しました。
救急車が来て、そのまま父は亡くなりました。
泣きませんでした。
「こんな簡単に、人は死ぬんだ。」
それと
「もうこれで父のことを憎まなくて済む」
というのがそのときの感想です。
父の葬儀が終わり、その後すぐ、会社を辞めました。
いやな上司もいるし、仕事もうまくいかないし、続けていても意味が無い。
母は怒りました。
でも、もういやでした。
それから、家の中に閉じこもる生活が始まりました・・・・。
【1年半の空白】
父もいなくなり、母と2人っきりの生活が始まりました。
家にいれば、母が食事を部屋まで持ってきてくれる。
仕事もする気にもなれない。
毎日ただ生きている。食べている。寝ている。それだけ。
「あ~あ、生きていてもつまらないなあ。」
「誰も自分の気持ちなんて分かってくれないなあ・・。」
1人でいると、どんどん落ち込んでいくばかりでした。
外に出て人に会うのが怖い。
何をする気にもならない。
でも、部屋で本を読むことと、絵を描くことだけは辞めませんでした。
部屋で1人で過ごす日々が1年半続きました。
誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。
こんなに苦しいのに。
こんなに涙がこぼれているのに。
もう生きている意味なんて無い。
毎日思いつめているうちに、
「もう人生を終わりにしよう。
誰も止めてなんてくれやしない。
生きていてもいいことなんてひとつもない」
昭和38年 11月の冷たい雨が降る、鎌倉にいました。
鎌倉はその前にも行ったことがあり、好きな場所でした。
北鎌倉駅を降り、鎌倉の街をあてもなく歩きました。
もうこらえきれないところまで心がおいつめられていました。
自分のいくじの無さにほとほとあきれ果てていました。
なにかを思い立っても行動しないのです。いや、しないのではなくて行動する勇気を持ってないのです。
このままで生きていけば先は見えています。ただ、今までのように惰性で生きていくだけ。
自分の心などありません。喫茶店の窓ガラスに映る自分の姿は、みじめそのものでした。
踏切の前に立ち、電車の音が聞こえてきて・・
「もうすぐ電車が来る。
このまま飛び込めば、楽になれる。
もうおしまいだ・・・。」
「誰か 助けてくれ・・・」
心で叫びながら、一歩、前に足を踏み出そうとしたそのときでした。
「このまま、この世を去っていいのか」
確かに聞こえました。
一歩前に出るはずが、一歩うしろに下がっていました。
電車は通り過ぎました。
ハッとしました。それからです。
心の中から、こみ上げてくる言葉。
心の声。
「誰も助けてはくれないぞ。
助けてくれる人がいるとすれば、
自分自身 だ。
自分がいるじゃないか!おれだ!
今から、この弱い自分を、自分の力で絶対強い人間になってみせる。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/31/529f1c956f5f931760128c9f73ff907d.jpg)
どこからか聞こえてきたようにも感じた心の声。
なぜだかみなぎってくる力。
さっきまでの弱い自分。惨めな自分。
でも今は違う。
絶対強くなってみせる!
絶対すごくなってみせる!
そう心が決まったのです。
行きの電車の中では、真っ暗なトンネルの中にずっといるような、 目の前に何も見えず苦しくて苦しくて悶えていた自分
帰り道は、トンネルを抜けた先に奇跡のような青い空と大きく広い 世界が広がっているように見えました。
今までの自分 惰性で生き、やる前にあきらめ、すぐにくじける自分 は、もう捨てよう。
これからは、一歩一歩、「自分」という仲間と一緒に、 自分をつくっていこう。
やりたいことをやろう。好きなことをしよう。 そうだ、やっぱり自分が好きな絵を描く仕事をしよう。
苦しいとき、本を読むと元気が出たなあ。 特に、詩を読むと、涙がこぼれてきた。
こんな言葉が書けたらいいなあ。
それまで落ち込むばかりだった自分が嘘のように、心の中は希望があふれてくるような気持ちがしていました。
「いよいよ、自分への挑戦だ!」 「いよいよ、好きなことへの第一歩だ!」
「さあ、いよいよ自分の人生を素晴らしいものにつくっていくぞ!今までの弱い自分から、自分の手で、強い人間にしてみせる!」
と、心に誓い、新しい人生の第一歩を歩き始めようとしました。
真剣に考えました。 今までの自分には何の基礎も無い。
そうだ、それには絵を描く基礎を学ぼう!と、考えました。
基礎の無い人生は、趣味、アマチュアで終わってしまう。
俺はプロになる! それには、ちゃんと学校へいって、基礎を学ぼう!
そう思い、絵を学べる学校を探していると、
高校時代の友人吉田君が「セツ・モードセミナー」という学校があることを知りました。
「ここで勉強しよう。」と決めました。 「よし、学校で、絵の基礎を学ぶぞ。」胸の中は希望であふれていました。
母に、「絵の学校へ行って勉強したい。セツ・モードセミナーというところなんだ。」というと、返ってきた言葉は
「会社もろくに勤められないお前が なんで絵で食べていける。 お母さんは許さないよ。」
それまでの自分だったら、こう言われてすぐにあきらめていたでしょう。
でも、今までの自分とは違うんだ!
「よくも言ったな!いつも俺が、これをしたい、あれをしたいと言うと、それはだめ。やめなさい。こうしなさい。と言ってきた。
だから俺は世の中で通用しない人間になったんじゃないか。
もう二度と俺のやることに口だしをするなよ!
失敗したっていい。自分のやりたいことをやる!!!」
ここまで母にぶつかったのは、生まれて初めてのことでした。
母も驚いたと思います。でもここでも返ってきた答えは、
「お前にできるはずが無い。」
でした。
その瞬間、自分の感情が表に出たのです。母に身体でぶつかりました。
何をどういったのか覚えていないくらいです。ここまでしなければ、母に自分の気持ちを伝えられなかった。
今思えば、かわいそうなことをしました。でも、こうするしかなかった。
絵の道で生きられなかったら、もう本当に人生は終わり。と思っていたから、どうしても越えなければならないものだったのです。
次の日、母が家出をしました。
「ひろしがおかしくなった。ひろしが狂った。」
母は、母の故郷、千葉にいきました。
自分がしようと、したいと思っていた家出を、先に母がしたのです。
母がそこで何を想い、何を考えていたかは今は知ることはできません。
ただ、それまで反抗することの無かった息子が突然、こんなことを言い、
こんなことを始めようとし、そして母に反抗するなんて・・・と、息が止まるほどビックリしただろうと思います。
1週間ほど経ち、帰ってきたとき、母は何も言いませんでした。
あとから知ったことですが、母の弟が「姉ちゃん、一度ひろしにやらせてやれよ」と言ったそうです。
それから、本当の「子離れ、親離れ」が始まりました。
セツ・モードセミナーに通うことを許してくれました。
費用も出してくれました。
「やるならば、趣味でやっていては本物にはなれない。基礎を習わなければ」
と決意しました。
(明日へと続きます。)
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