須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

感動の再会

2010年09月24日 | 須永博士の人生
めまぐるしく、毎日が過ぎています

ここに書きたいことも山ほど

感動や、勉強になったこと、そして大変なことも

だけど、不思議と、なにが起こっても、目の前に立ちふさがっても「大丈夫!!なんとかなるから!!」と思える自分がいます。

きっとそれは、見えない力が、ここに送られてきているからだろうと思ってます

ここをのぞいてくれている人からの・・・

大変なことは置いておいて、今日は感動したことを書きます。

9月19.20日の木魂館サイン会では、数えきれないほどの感動があり、来て下さる方々それぞれの人生に対して生まれる詩の数々、すべて紹介したい気持ちです。

2日目、20日の朝、木魂館サイン会の前に、いろいろな買い物を済ませてしまおうと出かけ、午前9時ごろに須永博士美術館に戻ると、2人のお客様が美術館前にいました。

まだ開館時間前でもありましたが、

「どうぞ~~

と中へ入ってもらおうと思い、

私「昨日と今日は、須永博士サイン会があるんですよ」

と言うと、

お客様「わたし、今日は須永さんに会いたくて来たんです。32年前に須永さんに詩を書いてもらって、それからずっと大切にしていました。

何年か前に新聞でここにあることを知って、ずっと来たくて、やっと今日主人につれてきてもらったんです。」

と・・・。

その時に書いてもらったというパネルをもってきて下さっていました。

だけど、おどろいたのは、今須永博士が小国にいるということは全く知らずにこられたんだそうです。

なのに、

「須永さんに会いに」

と、パネルを持ってこられ、会えると信じていたこと・・・。

パネルには、1978年12月 と書かれてありました。

福岡の、天神に地下街が出来たのが1976年だそうで、その2年後、須永博士はその地下街で展覧会をしていたそうです。

地下街の床に作品を並べ、小さなテーブルひとつで詩を書いていたそうです。

大切に大切にしてくださっていたパネルには、

「明日よりは いま少し素直になろう」




この詩が直筆で書かれていました。

そしてもうひとつ、私も初めてみた、須永博士のバインダーを持っていて、そこにもサインペンで直筆で書かれてあったのは、


「人間が 人間らしく生きるってことは」



の詩でした。

「須永さんに本当に会えるんですか・・・」

と、もう涙を抑えられない姿に、私まで胸がいっぱいになり、一緒に木魂館へ向かいました。



木魂館に入り、須永博士の姿を遠くに見ると、

「昔は髪の毛が生えていた」



そうでしたね!

それから何年もたち、頭を丸める出逢いがあったんですよ、とお話ししながら、須永博士の前にご案内しました。


↑水色のファイルと、32年前に書いたパネルを見せると、感激している須永でした




↑当時の事を振り返り、その頃の旅と、それからの人生を語る須永博士と、再会を心から喜んでくださっているお客様




↑右が、1978年に書いたもの。その横に、「人間 夢があれば 燃えて生きられる」と、今須永博士が思う言葉を書き入れました。

32年を越えての再会が、ここに刻まれました。



須永博士とほとんど変わらない年齢だということもこの日にわかり、

「ぜひ、これからもお元気で、旅を続けて下さい。」

と、堅い握手をしました。

この直後からも、夕方まで感動の連続でした。

また、紹介してゆきますね。

こう書いているうちに、自分の大変なことはどこかへ飛んでいった気がします

あきらめずに前へ進めば、絶対に大丈夫!! と、ゆっくりゆっくり歩いてゆきます

負けませんよ~~~

時間がかかろうと、今がんばれば、きっと明るい未来が待っていると信じて・・・


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出逢い

2010年07月11日 | 須永博士の人生
今日、須永博士美術館の玄関が開き、


「わぁ~~、懐かしい~~

と、入ってこられたお客様がいました。

お聞きすると、もう40年近く前に、小倉の三愛デパートで、須永博士に詩を書いてもらった事があり、そのパネルを今も大切にして下さっているのだそうです。

小国にあるというのは聞いたことがあったけれど場所が分からず、今日はここへ来る予定は無かったそうなのですがたまたま看板を見つけて立ち寄って下さったそうでした。

そういえば、三愛デパートさんといえば、須永博士が全国の旅を始めた1970年、銀座の三愛デパートさんで展覧会をしていたので、担当の方から小倉の三愛デパートを紹介してもらった、という話を聞いたことがあり、

それと、

今年3月の湯布院での出逢い

を思い出しました。

そして、そのお話しをすると、

「え!! Nさん、知ってます!!

実は私も妹も三愛で働いていたので、妹の結婚式にはNさんも来てもらったのよ。」



出逢いって不思議です

そして、その当事の須永博士の印象は、

「とても物静かな人で、イスに座って下を向いて詩を書いていた。結構人が並んでいた中を私も並んで、詩を書いてもらったのよ。

おだやかで静かな人っていう印象が残っているけど・・・」

と教えて下さいました。

37年前に結婚されたそうで、その3年くらい前が最初の出逢いだった・・・・と、


という事は、本当に、一番最初に須永博士が九州に来て、小倉で展覧会をした時かもしれませんね

今度、そのパネルを写真で送ってくださると言ってもらえましたので、そのパネルを見るのがとっても楽しみです

28歳の頃の須永博士・・・。

きっと本当に、
物静かで、あまり人と話すのが上手では無かったんだろうな・・・。

話すのが苦手だから、紙とペンを必ずもって、書いて人に気持ちを伝えていたそうですから。

その頃を知る人に出逢えるというのも、ここで美術館をしていて良かったなぁ・・・と心から思いました。

今は、こんな活動をしているんですよ、

きっと、当事は髪の毛もあったでしょうが、今坊主頭にしているのには、こんな出逢いがあったんです・・・。

横山真理さんとの出逢い

と、私の伝えられることはお話ししました。

ゆっくりと、須永博士美術館で時間を過ごしていただき、


この色紙を購入されて、帰られました。



「心をこめて 人にあう

優しさこめて 人にあう

愛をこめて 人にあう

出逢いをいつも 大切に・・・

自分をいつも 大切に・・・」

今日の出逢いに感謝です

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須永博士24 歳のノート

2010年05月26日 | 須永博士の人生
ふと、手にしました

前にも紹介したことがあります、須永博士のノートです。

誰かに見せようとかではなく、一生懸命に生き方を考えていた時(24歳頃)の須永博士の心の声がびっしりとつまっています。

この貴重なノート、不思議なタイミングで、開いてみたくなるときがあります。

今、パッと開いたページには、

「もし自分が3年前の生活を送っていたらどうであろう。

それはきっとさびしいものであろう。」

と書いてありました。

家業の写真屋を手伝いながら、「絵描き,詩人」を目指そうと決めてから、3年、すでに振り返ると、3年前とは大きな変化があった事が想像できます。

書き始めから、紹介しますね。

「自分はなぜ現在写真を、絵をかくのであろうか。

それは、自分がこの世に生まれてきた運命と同じように

それは だれがそうしたのでもない

自分に与えられた人生というひとつの道なのであろう。

もし現在自分に写真と絵がなかったらどうであろう。

もし自分が3年前の生活を送っていたらどうであろう。

それはきっとさびしいものであろう。

人間というものは、考えようによっては短い人生である。

それを自分にもっとも素直に充実した人生を送るには、自分にふさわしいなすべき仕事をなす事にあるのではないか。

もしそれが自分に一番ふさわしい仕事であるならば、自分のすべてをかけてまいしんするべきである。

それには、目的をもち、やらなければならないという決心をもち、ただひたすらに進む事にあると思う。


このあとも、数ページにわたり、書かれてあります。

これを読んだあと、自分に置き換えて考えてみました。

自分は今、なぜここにいるのだろう、なぜ、生まれ故郷を離れ、ここで子育てしながら仕事をしているのだろう。

目的をしっかり持って、日々の仕事に向き合うと、すごく幸せなことにいっぱい気づきます・・・。

ここでしかできなかったことがたくさんあります。

今、人生の中で、すべてが満たされて、すべてが上手いっている人って、そんなにたくさんいないんじゃないかと思う・・。
なにか悩みや苦労を抱えながらも、日々をがんばっているんじゃないかな・・・。

落ち込むことや、つらいこと、そんなこともありながらも、生きている今、今しかできない自分の人生を、「決心」して、前へ向かって

自分にもっとも素直に充実した人生

を歩んでゆけたらいいですね。

このノートを読みながら、いくつかの詩が浮かびました。

どれも、須永博士20代~30代に作られた詩です。







さぁ、今日もがんばろうっと




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜川小学校さんへ

2010年03月29日 | 須永博士の人生
浜川小学校
金管バンド部、
がんばれ!!

本当に、須永博士は元気ですo(^-^)o

なんでこんなに元気でいられるんでしょうね(^^)v

今日は、午前中、全く予定には無かった場所に須永博士は立っていました(o^o^o)

これも、ご縁、奇跡的なタイミングで実現しました。

昨日のサイン会の最後に、浜川小学校さんの金管バンド部の女の子が来られ、部に飾る作品を購入しました。

須永博士は、購入した作品の他に、金管バンド部の皆さんに詩を書きました。

「こころひとつにすれば

目標ひとつにすれば

音ひとつにすれば

わたしたち

すごいことができる

やろう

やるしかない

浜川小学校

金管バンド部

全国大会出場

絶対やるぞ

ゆくぞ です」

この詩をプレゼントしました(^-^)

今日、金管バンド部の皆さんに紹介したそうです。

そのご連絡をいただき、須永博士に伝えると、

「行こうか!!」

と(^O^)

「はい(^O^)/」

ほんの数秒で決めてしまいました(;^_^A

まだ、学校にも部にも連絡する前です。

「まあ、もしも入れなかったら、そのまま帰ってくればいいから(^-^)」

と、すみません、本当に行き当たりばったりです。

そして車に乗り込み

「今から小学校に向かいます」

とだけメールをし、向かいました。

皆さん、来年度の目標を決めているミーティング中。

その中で、昨日の詩も紹介したりしたあと、サプライズで須永博士がおじゃましました(^O^)/

こんにちは~~(^O^)

「え~~!!」

「うわぁ~~!!」

皆さん、驚いた様子でした
(^-^)

6年生が卒業したばかりで、これから全国大会出場を目指してがんばろうと話し合いをしていた中、

「みんな、全国の子供達、力はおんなじだよ。

違うのは、どれだけ努力したかだよ。

簡単なことじゃないよ。

涙もいっぱい流すだろう。
悔しいこともあるだろう。
だけど、おじさんもそうだけど、最後は、

助けてくれるのは自分。

やれないのは、自分がやらないだけです。

やれるよ。

やろうと決めたら

やれる!!

今、わたしも旅を始めてからずっと続けている事があります。

それは、

“自分への挑戦”

です。」

わずかな時間でしたが、皆さん真剣な表情で聞いてくださいました(^^)

最後に皆さんで記念撮影

p(^^)q

ある約束もして、皆さんとお別れしました。

先ほど、浜川小学校金管バンド部の部長さんのお母さんからメールが届きました(^-^)

許可をいただきましたので、紹介させてもらいます

(*^_^*)

「娘が今、部活から帰ってきました(^-^)

すごくいきいきとした表情で今日のことを話しています!!

娘は須永先生がいらしたとき、もう、本当にビックリして心臓がドッキンドッキンしていたそうです

そしてお話しをきいてとってもやる気がでたと言ってました

他のこどもたちも須永先生が帰られた後、

『すごーい!!』

としばらく興奮がさめなかったそうです

その後の練習でも、いつもならおしゃべりしたり、姿勢が悪かったりでやる気が感じられない雰囲気なのですが、今日はみんな

『早く練習はじめよう!』
と練習中の姿勢も背中がピンと伸びてとてもよい雰囲気だったそうです


これを聞いて、私は改めて須永先生の力、パワーを凄いと思いました


今日のこどもたちの真剣な表情は初めて見ました

いつもなら、下を向いたりおしゃべりしている子もずっと須永先生の顔を見てきいていたのですから驚きました

主人とも話したのですが、本当に全国大会に行けると感じました

今日早速、音楽室に詩を飾ったそうです

これを毎日見て須永先生の詩のパワーを浴びながら練習に励めると思います

o(^-^)o

本当にありがとうございました!!」

嬉しいですね(^O^)

全国大会出場めざしてがんばってください\(^O^)/
突然おじゃまして、すみませんでした(^-^)

ずっと応援しています

(^O^)/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須永博士の想い

2010年03月03日 | 須永博士の人生
2010年2月28日付 毎日新聞 
に掲載されました。

取材前、まだ、私達の気持ちは定まっていなくて、なぜならそれは、須永博士自身の心の中だけで見えていた答えだから・・・。

毎日新聞の記者さんが取材にこられ、その時、お母さんと男の子、女の子のご家族が須永と向き合い、詩を書いていました。

その姿や、一日の須永博士の様子を見ながら・・・・。

須永博士がやりたかったこと、須永博士が悩んでいたこと、それがわかってきたような気がしてきました。



記者さんを前に、須永博士が書いていた言葉です。

「須永博士 旅の詩人が なぜ桜島に来たのですか なぜ美術館を作ったのですかと聞かれたら

旅をして46年 この世に生きて68年

もう一度 何もなかった自分にもどって

誠心誠意 人に出逢って 

生涯この世に残る ひとつの詩を作りたいのです

わたしは“詩人になる”と決めて生きてきたのです。」

と。
新聞の記事にも書いていただきましたが、

ここ数年、講演会で呼んでいただく機会が増えたり、仕事の以来が増えたりすると同時に、須永は年々、本当に自分のやりたいことが出来ないもどかしさがあったようです。

ひとつのことではなく、いろいろなことが胸のつっかえになっていた様で・・・。

その一面が見えるような詩も、そういえば数々ありました。

「原点回帰」

「復活」

「元気百倍」

「無心無欲」

詩人の道をひたすら歩んでいく中で、

「人のために生きる」

という人生を、最後の最後までやりとげたいという、強い想いがこみ上げてきたことから、この桜島美術館への挑戦が始まったんですね。

私達も、なんとなくわかっていて、じゃあ、手伝おうと思っていながらも、深いところの心の中まではわからない部分も多かったけれど、この2日間で、すごくよくわかりました。

これからどうなっていくのかは、まだまだわかりませんが、私達に出来ること、それと皆さんのお力を借りたいところ、それをじっくり考えながら、前へ進んで生きたいと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩人の道

2010年02月23日 | 須永博士の人生
    

須永博士、2月11日に68歳の誕生日を迎えました。

21歳、生きることに絶望を感じていました。

「誰も助けてくれない」と、なんでも周りのせいにして生きていた弱い自分を嘆き、もう生きることを終わりにしようとした瞬間、

「誰も助けてくれないよ。

助けてくれる人がいるとしたら、それは、

自分自身だ。

よし、今から この弱い自分を、絶対に強い人間にしてみせる。」

と心からの言葉が湧き出てきました。

その瞬間から、詩人と画家を目指して生きようと、旅を始めました。

その旅は、決して楽な道のりではありませんでした。

今、こんなにたくさんの作品が残せ、今まで生きてこられたのは、奇跡だ。

と、よく須永博士は話しています。

あの日、五里霧中で、前が見えない人生から、一歩前へふみ出したことが、本当の第一歩。

ふみ出してみると、一気に霧が晴れたようだったそうです。

おてんとうさまが、「この先は、泥だらけの道かもしれないけれど、お前が進もうと思っている道ならば、歩かせてあげるよ。」と、今まで生かしてもらったような気がしているんだと、さきほど、言っていました。

今、全ての人生の集大成の時だと表現しています。

今までやってきたこと、挑戦してきたこと、それを初心にもう一度かえって、何も無かったあの日に戻って、「桜島」へ行こうと決めているそうです。

須永博士は、昨日桜島へ行き、今日小国に戻ってきました。

私は先に昨晩帰っていましたので、阿蘇駅まで迎えに行くと、とても元気で、昨日の夜、鹿児島で出逢った人の話をしてくれました。

詩人として、これからは感謝の気持ちの旅をしていくのだそうです。

今まで少し、忙しくなりすぎた。

もっと詩人らしく、もっとさわやかに生きていきたいんだと・・・。

そう思った昨日の朝、鹿児島へ向かう途中の阿蘇外輪山での朝日が、とてもまぶしかったです。

   
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崎坂祐司先生との出逢い

2010年01月28日 | 須永博士の人生
1月23日、熊本県長洲町での講演会の最初に、須永博士が言った言葉です。




「長洲町に やってまいりました

というより、

長洲町に 帰ってまいりました

という気持ちでいっぱいです」

その時、会場からも、拍手がおきました。

とってもあたたかい雰囲気の中、講演会が始まりました。

「ただいま」

そんな気持ちになるのも、ひとりの中学教師との出逢いから、須永博士と熊本のご縁、そして今があるからです。


教壇

という一冊の本が発行された1992年、いまから18年前・・・

教壇に生命をかける、「崎坂祐司先生」に会い、6時間お話しを聞き、それから東京に戻り、たった2ヶ月で完成させた一冊なのだそうです。

少し長くなりますが、この本の誕生秘話を、今日は紹介します。



1991年秋、須永博士が、ある手紙を受け取りました。
それは、須永のファンの女性からでした。
北九州の展覧会で出逢った女性が、あるシンガーソングライターのファンクラブの会報に書かれてあった崎坂祐司先生の手記を読み、

「この崎坂先生の手記を須永先生に読んでもらいたい」

と思ったのだそうです。

そこには、当時37歳の崎坂先生の言葉がありました。

アミロイドーシスという難病におかされ、その残酷な現実を前に一度は人生に絶望しながらも、同僚教師の言葉をきっかけに、残された時間を自分なりの教育にかけようと決意した、その経過と心情が書かれてありました。

(アミロイドーシスとは、いまだに治療法が見つからず、手足がしびれる、走れなくなる、歩けなくなる・・・という具合に、徐々に身体が不自由になっていく病気で、発症して10年~15年で死を迎えるといわれています。)

須永は、この手記を読み終えるやいなや、夢中で詩を書き始めました。
こみ上げる感情に、文字を書く手の動きが追いつかないほどの勢いで・・・。

そして、創作した詩を、崎坂先生へと送ったのでした。

「わたしの気持ちを、なぜこんなにもピッタリと書けるのだろう!?」

と、思いをつづったお手紙が、須永に送られてきました。

崎坂先生が乗り越えてきた現実がお手紙の中に書かれてあり、それは、須永の想像以上のものでした。

「これまで、悔いの無い人生に挑み続け詩人をしてきたが、まだまだ甘えていた。

自分はまだ 力を出し切っていない。」

と思わせました。

一方、崎坂先生もまた熱い思いでいました。
奥様はもちろん、先生を失意のどん底から救うとともに、いつも先生を影から支える先輩教師、奥村稔先生夫妻との心の交流が始まりました。

崎坂先生が 須永に
奥村先生も 須永に手紙を送り・・・

東京と、熊本

詩人と教師。

天命に生きる人・・・

手記を読んでから、まだひと月しか経っていない10月、須永は崎坂先生のいる、熊本へと旅立ちました。

初めて対面した、崎坂祐司先生と、須永博士。

須永が出逢った崎坂先生は、とても明るく、ユーモアに富んだ楽しい会話をする人です。

生徒のことや奥さんのこと、お子さんのことはもちろん、自分の身体のことを語るときも、先生はたえず笑顔です。その屈託の無いすばらしい表情をみていると、「自殺しようと考えた」ほどの苦悩の日々を想像することは出来ません。
本当ならば、家で横になっているのさえ苦しいはず。

でも毎日、生徒の待つ学校へ気力をふりしぼって通います。
先生にとって、「今日も生徒に会いに行く」ということが心の支えです。

数学を教えていた崎坂先生は、

「わかった者は、人に教えろよ。」

「自分だけできればいい、そんな人間にはなるなよ。」

「人には親切にしろよ。あなたの親切いらないと言われるまで親切にしろよ。」

と、人間の心も教えていました。

動かない身体で水泳の模範演技に挑戦したり、マット運動で前転して見せたり・・・自分をさらけだして、生徒と、同僚と、とことんかかわって生きていました。

崎坂先生に出逢った須永は、感じました。

「崎坂先生の明るさ・・・それは、生命の極限を知り、それでもなお自分の人生を生きることに使命感をもつ人の心映えなんですね。

本当に一生懸命な人です。

信念をもって生きている人です。」

この世で人生をやりとげている崎坂先生に出逢ったことは、須永の一日、一日の旅の中で、今でも大きな心の支えになっています。

出逢うべくして出逢ったふたり・・・

須永は、21歳の時、絶望のどん底から這い上がるために詩人をめざして旅に出ました。
その中で、辛くても一生懸命生きる人、真剣に人生と向き合って生きている人との出逢いが、須永自身を絶望の底から救い、そして、人間への讃歌の詩が生まれてきました。

崎坂先生に出逢い、作った詩です。



「“教壇”

わたしはここに生命をかけてきました

目の前にすわっている

わたしの生徒に

今日 どれだけの感動を

生きる力を 明日への夢を

与えてやれるか

わたしは教壇に立って

ひとりひとりの生徒と

心の会話をします

今日元気で 学校へきた生徒

今日悩んで 学校へきた生徒

今日つまらなく学校へきた生徒

ひとりひとりに 生きる力を

与えてやりたいのです

教壇をめざして生きてきたわたしの青春

教壇でついやしてきたわたしの人生

教師として我が生涯ついやしたいとねがいます

わたし人間の限界まで挑戦です

生命の限界まで たたかってみせます」

崎坂先生に教えられた、生命の大切さ、生きることのすばらしさ、教師としての生き様をまとめたい!!

本にしたい!!

その想いが湧き上がり、崎坂先生に取材に行き、6時間、先生の人生をお聞きし、「教壇」が出来上がりました。

出版までは、わずか2ヶ月。常識では考えられないスケジュールでした。

詩人と、先生の熱い想いがつまった本の出版。

熊本で、出版記念パーティーを開催しました。

会場には、学校、病院などの関係者約80名。正面に崎坂先生と奥様、そして奥村先生をはじめとする近親者。

その日、取材にかけつけたのは、熊本県民テレビ(KKT)でした。「ズームイン!!朝!」で、1991年12月27日に放送されました。

この同じ日に、崎坂先生の通う、長洲町 腹栄中学校へ講演に行きました。



「心の出逢いをもとめて」と題し、苦悩にみちた青春時代、放浪の旅、旅で出逢ったさまざまな人たちの話・・・

この時から19年後、2010年に再び長洲町へ訪れ、たくさんの再会が待っているなんて、想像もしていなかったでしょう・・・。

「教壇」は、その時から今まで、たくさんの方々に読んでいただいています。
昨年講演へ行った、大分県の日出生中学校で出逢った先生は、この本に出逢って、教師になったと教えてくださいました。

“教師になって、悩んだ時に、この本を読み返しています。”という方にもたくさん出逢いました。

須永も、講演会の中で、今も崎坂先生との出逢いを語っています。

崎坂先生の人生を語る中で、須永が最後に言う言葉です。

「失敗したっていい

負けたっていい

がんばっているあなたが

大好きです」

この言葉は、崎坂先生から届いた、最後のお便りに書かれてあった言葉です。

そのお便りが届いた2日後、崎坂先生は天国へと旅立ちました。

その時のことを、私も覚えています。

東京の自宅に届いた1998年1月24日の消印が押された一枚のハガキ。

そのハガキには、自分のことでなく、先輩教師奥村先生が病気になり、気遣う言葉が書かれてありました。

「崎坂先生、きっと元気だね。」とつぶやいて、須永と、名古屋の出版社へ行き、詩集「人間詩集」の編集打合せをしました。

そして東京に帰ると、奥様から、先生が亡くなったとの連絡が・・・。

涙をこぼしながら書いた崎坂先生への詩が、急遽「人間詩集」に加えられました。

崎坂先生との出逢い。それは、今も須永博士の心の中で生き続けています。

今年、1月23日の講演会も、腹栄中学校出身の方や、崎坂先生の教え子だった方がたくさん来られ、須永が、「きっとこの辺に、崎坂先生も来られていますね。」と言うと、みなさん、

「絶対にいますね!!」

と、笑顔で答えられていました。

長洲町へ講演に行ってから、崎坂先生が呼んでくれたような気がしていると言っていた須永博士。

このことを書きたかったのですが、だけどなかなか時間が取れなくて書けない。適当には書きたくない・・・。ともどかしい思いでこの何日かを過ごしていましたが、今日書いている中で、おとといが崎坂先生の命日だったことに気づきました。

おとといのきれいな青空。



そして、昨日は外に出ると、太陽の光で、雲が虹色に染まっていました。

きれいな空を眺めながら、

「今日は何の日だっけ・・・。なにかの日のような気がするんだけど・・・。」

と、不思議な気持ちになっていました。

それが今わかって、なんだか心があったかいです。



(手記を送ってくださった、山下さんと、崎坂先生、そして須永博士。)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上村 やまぶきホールでの感謝の1日

2009年10月25日 | 須永博士の人生
今朝は風が強く、空を見上げると、風が雨雲を一生懸命吹き飛ばしているような感じです(^3^)/



灰色の雲がだんだんと消えて、その上から、うっすらと青空が見えて来ました

(^^)v

では、会場へ出発します

p(^^)q



やまぶきホールに、今日のスタッフさんが集合!

きれいな紅葉を山からとってきてくださいました
(*^_^*)

みんなでステージを作り上げていきます(^-^)

須永博士も会場内、ロビーをまわりながら、指示を出したり、みんなに語りかけたりしています(^-^)


今日は、ステージ作りのプロの皆さんがいますので、私はこんな時間があります(*^_^*)

てきぱきと早い!



もう少しで完成です(^O^)

ススキをとって来てくださり、ステージに飾っているところです。



須永博士が最終チェックをし、みんなで作り上げたステージが完成しました\(^O^)/



リハーサル中です(*^_^*)



司会者さんのリハーサル





控え室にて

受付、開場が開始になり、お客様が来られています。
今日は1時30分、講演開始です(*^_^*)



約一年ぶりに来た川上村のやまぶきホールに、またたくさんの方々がお越し下さっています(o^o^o)

美和さんも走り回って、来て下さっている方にごあいさつしています(^-^)

受付には、川上村で陸上をがんばっている皆さんが今年もお手伝いしてくださいました。



須永博士作品販売コーナーです(o^o^o)

手際よくしてくださって、私は安心して、あちこちうろうろしてました(^o^;



昨日は、講演会開催、美和さんの本出版お祝い、そして美和さんのお誕生日にと、たくさんのお花が会場に届いていました。



美和さんのがんばりを、こんなにもたくさんの方が応援している(*^_^*)

素晴らしいです(o^o^o)



会場入り口ロビーにて、

須永博士沖縄写真展を開催しました。

栗山美和さんが撮影した中の厳選された数枚が飾られました。


須永博士はいよいよ控え室で集中p(^^)q
あと15分です(^-^)



講演直前、いよいよスタート!の瞬間の須永博士です。



前から撮ってみました(^^)v



講演中、舞台そでにて(*^_^*)



開演から終了まで、1時間30分……

この時間のために、長い時間をかけて作り上げてきた栗山美和さん。
そしてそれを周りで支えてきたたくさんの方々。

昨日、来てくださった方々……

普段の須永博士講演会とは全く違う1日でしたが、大成功に終わり、須永博士も講演が終わってから、ロビーに立ち、皆さんにごあいさつしたり、握手をしたり

和やかな空気でした。



ホールを出てこられた皆さん、皆さん涙を浮かべ……

講演のあと、
「おかあさんありがとう」の中の詩を、美和さんが映像にまとめたDVDが長されました。

私はリハーサルで見て、もう号泣してしまった……

須永博士も、開演前から
「話せなくなるよ。」
と言ってました。

生きることを最後まであきらめなかった、大きな母の愛と力

またこれはゆっくり書きたいので、お待ちくださいね。

今日は、川上中学校さんに行ってきます!



片付けが全て終わり、やまぶきホールから出てきた須永博士



ありがとうございました(*^_^*)

また次の旅に出発です(^-^)

今日、まだまだ載せられなかった写真がたくさんあります。

また更新します!






写真は、栗山美和さんが作った、「おかあさんありがとう」の表紙デザインの本物です。

昨日、本を手にした時

とてもやわらかな色合いで、きれいで、本当に温かい表紙だなと思いました。



須永博士もいつも言います。

「表紙は、



だから、一番大切なところだよ。」

って。手にした瞬間に、その表紙を見て良いものかどうかを感じると。

「おかあさんありがとう」の表紙はどんな風にイメージしたのかな

なんて考えていました。

昨日は美和さんに聞かずにいましたが、

今日、本が並べられた時、写真のラッピングがあり聞いてみたら、

美和さんが探しだして、自分の表紙イメージのラッピングをしてくれるところをみつけたんだそうです(o^o^o)

思い通りの表紙にするには、とても大変だったそうです。

本当にきれいですよ

(*^_^*)

美和さんの、おかあさんへの愛がいっぱいつまった一冊です(o^o^o)

行動を起こすって、すごいことですね(*^_^*)

今日の講演テーマは、

「奇跡への第一歩」

昨年、須永博士がこのタイトルで《詩集を作る》と決めてから、講演テーマにもなり、そして、今年2月に、このタイトルの詩集が発売になりました。

「奇跡への第一歩」


その初めての販売場でもあった沖縄へ、奈良から、1人の女性が須永博士のカメラマンとして来て下さいました。

その女性が、栗山美和さんです。

約4000枚の写真を撮ってくださいました。

今日の講演会は、ロビーに栗山美和さんの撮影してくださった、須永博士沖縄の旅の写真が飾られ、

2冊目の本
「おかあさんありがとう」
が並べられたのでした。

今日は、ほとんどが昨年11月も須永博士の講演会を聞いた方々だそうでした。

なぜ、まだ1年なのに、また須永博士を川上村へ呼ぼうと思ったのか、


それは、昨年講演をした11月30日その日から、美和さんの次の挑戦が始まっていたんです。

この1年、皆さんもいろんな事があったでしょう。

会場に来られた方、来られなかった方、たまたまこのブログを見た方……

皆さん、泣いたり笑ったり、喜んだり、悲しんだり……
いろんな事を乗り越えながら、また、集まって下さった今日。

行動を起こして、集まって下さったからこその今日。
栗山美和さんと須永博士も、今日再会し、リハーサルからどれだけ涙を流したでしょうか。

それには、昨年の講演から今日までの素晴らしい時間が生んでくれたものがあったからです。

写真は、今年2月に、沖縄で3回講演をした時に、須永博士が依頼して栗山美和さんが撮影してくれた沖縄の旅の写真をフォトムービーにしたものをリハーサルで見ているところです。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の続き その2

2009年09月28日 | 須永博士の人生
須永博士がなんでこんなに元気なのか

その元気の源、支えはなんなのだろうか

本人に直接聞いてみました

「人は、親しい人であっても、友達であっても、なかなか心の中までは話さないし、話せない。

さみしさや、つらさ、苦しさを抱えて生きている人が世の中にはたくさん、たくさんいるよね。

絶望、孤独・・

苦しくて、生きているのがつらい。

そんな人に、旅でたくさん出逢ってきた。

今なんで詩集を作っているか、詩を書いているかは、

「自分の信念を貫きたい。」

から。

ダメだと言われ続けた人間が、

ダメじゃない人生をつくりたい。

何も無かった自分が、
夢が無かった自分が、

今生きていて、詩を書き続けられる幸せ。

人から言われたことを、精一杯やりたい。

たった一ページでも、たった一編の詩でも、人に不快感を与えたくない。

元気を与えたい。

だって、今の自分は、

「宝くじが当たった」

というくらいの幸せだと思っている。

今、少しの体の不調があったとしても、全然苦にならない。

それよりも、今自分がやりたかったこと全てがやれている幸せがある。

それは、ペンがある。
紙がある。
生きていられる。

それだけでいい。

私が、会いたいと思う人は、

「人のために生きている人。」

疲れているな。大変だな。と思った人がいたときに声をかけてあげることのできる人が、今回もサイン会に大切な仲間を連れてきてくれたね。

あの人だから、須永博士も一生懸命関わるんだよ。

人が求めているもの、

それは、

感動

元気

私が出来ることは、出逢った人に心で話すこと

心で詩を書くこと

今もそれに挑戦し続けています。」

そう話していました。

そして、須永博士の大きな支え。
一番の力、元気の源・・・

それは、

大切な
信じられる



だそうです

その人を幸せにするために

その人に愛される人になるために

今も努力し続けているよ。

と、最後はとっても嬉しそうに、話していました。

須永博士の詩を心の支えにしてくれる人がいるように、
須永博士も、自分を求めてくれるファンの皆様がいることが、どんなに支えになっているか・・・。
出逢った人が、落ち込んでいたけれど立ち上がることが出来たと聞いた時、どんなに嬉しいことか・・・。

20日のサイン会で、最後の方にいらした山口からお越しいただいたお客様に話していたことを紹介します。

「人という字は、人が人を支えていますよね。

私は、この短いほうの一画。

短いけど、頼りないけど、一生懸命、人を支えたいと願って生きてきた。

少しづつ、少しづつ、その線が太くなり、長くなり、今気づいたら、

入る

という字になっていた。

気づいたら、たくさんのものが入ってきた。

たくさんの素敵な出逢い。

たくさんの愛情。

たくさんの優しさ。

本当に奇跡的な人生だと自分でも思っています。

だから、これからも精一杯、自分にできることを人のためにしていく人生を、最後の最後までやり遂げたいです。」

と・・・。



↑その話の後に書いた一枚です。



(9月22日 須永博士美術館にて)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日の続き その1

2009年09月28日 | 須永博士の人生
今日の朝日が昇ってから、かなり時間が過ぎてしまいました

月曜日の朝は、やっぱりバタバタしますね・・・

でも、外を出た瞬間のギンモクセイ、キンモクセイの香りには本当に癒されます

子供たちもみんな元気に出発しました

では、昨日の続きです

9月中旬、須永博士が小国に来てから、私達もやることが多く、須永博士ともなかなか打合せをする時間が無いまま、16日の熊本市内の高校へのサプライズ講演会当日を迎えていました。

長い間、一緒に旅をさせてもらったり、話を聞かせてもらったりしていて、講演会も数多く手伝ってきて・・・。

須永博士も私達を

そして私達も須永博士を

分かり合っていると思っていたからこそ、一番大切なところを最近おろそかにしていたような気がしています。

この日の朝、やっと、須永博士が心の中で思っている大切なことをたくさん話してくれました。
そして、私も、今の状況、思いを伝えさせてもらうことができたんです。

今日出逢う人に、元気を与えたい!
そう強く願いながら向かったK高校の1年2組の教室。
それから迎えた、19.20日のサイン会。

またまたたくさんの出逢いがあり、たくさんの詩が生まれ、いま元気に東京に帰り、次の詩集の原稿制作にすぐに取り掛かっている須永博士です。

私達も、次の準備に、毎日皆さんのことを想いながら取り掛かり始めています。

昨日も一日いろいろ考えながら、

「須永博士があんなにも元気で、次から次へと制作意欲がわき続けている原点はなんなのだろうか・・・。」

それを考え出したら、分かるようで分からない。

やっぱり本人に聞くしかないか

と、紙とペンを準備して電話をしてみました。

続く・・・ ここをクリック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月29日

2009年08月29日 | 須永博士の人生
今日、8月29日は、須永博士の母、須永静江おばあちゃんの命日です。

1999年8月29日の明け方でした。

もう10年前になるんですね。

たまに、講演会の中でも須永博士がその日のことを話します。

東北、仙台でサイン会をしていたのですが、容態が急変したとの連絡を受け、急遽東京へ向かい、
そして病院へ行き・・・

もう意識が無い中で、

「おばあちゃん、博士だよ!!

帰ってきたよ!!」

と声をかけたら、瞳から、ひとすじ、涙がこぼれたそうです・・・。

その後、すう~~~~っっと、息を吸い込み、


須永静江おばあちゃん、86年の人生を、最後まで見事に、息子の到着を待ってから天国へと旅立っていきました。

子供の頃、関東大震災も経験し、たった一人の息子、須永博士をこの世に生んで、戦争、東京大空襲と、生きてきた静江おばあちゃん、きっと今も、天国から見守ってくれていると思います。

浅草のお墓には、私も東京に帰るたびにお墓参りへ行きます。

今日は、熊本から手を合わせます。

お祭りが大好きだったおばあちゃんで、亡くなった年の6月、須永博士の地元南千住のお祭りの時、布団で横になっていたのに、お神輿を担ぐ声が聞こえると、起き上がって階段を降り、手をたたいてみていた姿が忘れられません。
「祭りを見るのは今年が最後かな。」なんて、80歳を過ぎてから毎年言っていましたが、そんな言葉とは裏腹に、最後の最後まで気力で生き、生き抜いたおばあちゃんでした。

きっと今も天国で元気に、息子やみんなの心配をしているんだと思います。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須永博士美術館の誕生秘話

2009年06月06日 | 須永博士の人生
今から12年前、須永博士美術館は、

「須永博士極楽羅漢美術館」

という名前で開館しました。


1997年でした。


1993年、テレビ番組の出演のために、訪れたのが、この小国町北里、木魂館でした。
研修宿泊施設だった木魂館にたどり着いたのは、もう真っ暗になっていた時間だったそうです。

この日の、木魂館館長さんとの衝撃的な出逢い(この話はまた……)から、今こうして、須永博士は小国を第二の故郷としてアトリエと作品館を作りました。

作品館は、今も地元の方が管理してくださっています。

旅先から、年に何度も熊本を訪れるようになり、その中で、

宮本武蔵が五輪の書を書いたという洞窟が、熊本にあるという事を知りました。

若い頃から、宮本武蔵の生き方が好きで書物を読んだりしていた須永博士は、ぜひ、その洞窟「霊巌洞」を見に行きたいと思いました。

その洞窟があるのは、熊本市内の中心部から見える山、

「金峰山」

にあります、雲巌禅寺さんです。

お寺に入ると、洞窟の手前には岩肌に座る五百羅漢さんがいます。

風雪で、かなり痛んではいますが、ひとつひとつの表情はとても豊かで、誰一人として同じ顔はありません。

思わず笑ってしまいそうな羅漢さんもいます。

須永博士は、目的の霊巌洞にたどり着く前に、この五百羅漢さんに心を奪われて、無心でデッサンし始めたそうです。

続く……
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五百羅漢さんとの出逢い

2009年06月06日 | 須永博士の人生
小国を初めて訪れた翌年の1994年、宮本武蔵が五輪の書を書いたという洞窟「霊巌洞」を見に行きたいと向かった場所には、思いもかけなかった

五百羅漢

との出逢いがありました。

ずっとずっと、「油絵」を書きたいという夢を持っていた須永ですが、そのモデルになるもの、書きたいものが浮かばずに長年過ぎていたそうです。

五百羅漢さんに出逢った瞬間、


「これだ!!!」

と、胸がときめいたのだと話しています。

そして、このお寺に再び足を運んだ時、この羅漢さんに出逢いました。

誰かが置いたのでしょう・・

頭の上に、一輪の椿の花が乗せられてありました。

この時の話し、写真が

詩集「たった一冊の詩集」

に載っています。

今日の写真も、その時に一緒に旅をしていた柏木尚美さん撮影です。

それから、全国旅をしながら、各地に羅漢像があることを知り、大分、京都、山形、佐賀などなど、旅先で数々の羅漢さんに出逢って、そのたびにデッサンを書き続けていました。

その数、約3000点以上になり、そのうち、

空を見ても、雲を見ても、また、サイン会場の床のタイルを見ても・・・

すべて、羅漢さんのお顔に見えてくるようになっていたそうです。


続く・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

500枚への挑戦

2009年06月06日 | 須永博士の人生
1994年の出逢いから、羅漢さんの絵を描き始め、気づくと、アトリエはキャンバスでいっぱいになっていました。

無心で描き続けていたので、

その先、この絵をどうしようか・・・

なんて考えてもいませんでした。

私もその頃、一緒に全国を回っていたのですが、一日のサイン会が終わると、すぐに宿に帰り、部屋中キャンバスでいっぱいになり、床を汚さないように新聞紙やシートを敷いて、夜中まで描いていた日々でした。

それだけ夢中になって描いた絵・・・。

このままにしておいても、絵もかわいそうだし・・・


そんな時、須永博士が小国にアトリエ、作品館をつくったきっかけの人、その当時の木魂館 館長さんが、

「先生、五百羅漢だから、500枚描きあげてください。

もし、書き上げたら、それを飾る美術館を小国に作ろう!!」

とアイデアを出してくださり、須永博士も、

「そうだな!!

よし! 500枚をめざして描くぞ!!」

と、また力を頂き、さらに楽しそうに、様々な表情の羅漢さんを描いていました。

1997年、その目標、500枚の羅漢絵が完成しました。

3年の月日を費やして描いた絵は、その時その時の須永博士の心も現しているように、楽しい顔、気難しい顔、こわい顔、嬉しそうな顔・・・。

タッチも、今までのイラストとは全く違うものになっていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須永博士極楽羅漢美術館オープン

2009年06月06日 | 須永博士の人生
館長さんとの約束どおり、500枚描きあげた五百羅漢さん、

須永博士は、

「極楽羅漢」

と名づけました。

自分も、描き続けて心が洗われた。楽しかった。

この絵を見た人が、少しでも心が軽くなってもらえたら嬉しいな・・・。

そんな願いも込め、名づけられました。

館長さんと須永博士、さぁ、この絵をどこへ飾ろうか・・・。と、二人で小国の中を探し歩いていました。

でも、なかなか、

ここだ!

という場所にたどり着きません。

しばらく時間が過ぎ・・・


「そうだ、やっぱり、この絵を描いたのは、この北里だ。

だから、北里に飾らなければ!!」

これも館長のひらめきだったのでしょうね

そして、現在の須永博士美術館があるこの場所に飾ることが決まりました。


ここは・・・・


館長さんのご自宅だった、ぬくもりが残る民家です。

(写真は、極楽羅漢美術館オープン前夜、須永博士自らが展示をしているところです。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする