郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

「島貫兵太夫伝」を読む(その3)

2020-08-04 | 読書・「島貫兵太夫伝」

18歳でキリスト教に入信した島貫は、伝道者となるべく渡米を夢見ていた。

ちょうどその頃(明治19年)、仙台神学学校の設立が具体化してきた。

島貫は父の反対を押し切って入学することとした。兵太夫20歳のことである。

塾生は、島貫を入れて6名、教師は押川方義、ウィリアム・ホーイ、菅田勇太郎の3人であった。

明治21年に「仙台基督教一致教会仙台神学校」が正式名称となり、その後東北学院と改称された。

明治24年、島貫は仙台神学校を卒業し、東北学院英語神学部に入学した。そして、「ジョン・オールト記念館」の

舎監を命じられた。これは寄宿舎であり、島貫は厳しい規制を寄宿生に行っている。

この頃、島貫は「哲学と宗教」「信仰と道理」の問題に苦しめられるようになり、読書や断食を経て、

「信仰は実践にある」、「実践的に人の幸福のために尽力するのがキリストの心である」と悟ったという。

同じ時期に、島貫は郷里岩沼から来た二人の少年を苦学生として世話をすることになる。この経験が、後に

東北学院の「労働会」の組織へとつながり、そして後年の日本力行会の母体をなしたといえる。

 

明治24年(1891年)、内村鑑三不敬事件が起こると、押川方義らは「敢えて世の識者に告白す」として

御真影・勅語の拝礼問題を取り扱った共同声明を発表した。

島貫もこの共同声明に刺激され、内村擁護のために立ち上がったが、それは第二高等中学校の学生との

対決になり、大劇場宮城座での公開立会演説会となったが、島貫は姿を現さず激突は回避されたという。

後年島貫は「大逆事件」でも幸徳秋水との関係について特高の訪問を受けており、愛国者島貫の他の一面を

物語るものである。

 

明治25年(1892年)は島貫にとって画期的な年であった。

それは「東北救世軍」の結成と、宮城・福島・山形3県の伝道旅行であった。

 

 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その2)

2020-06-21 | 読書・「島貫兵太夫伝」

(その1)にも記したように、宮城県の岩沼市に生まれた島貫兵太夫は、その後「力行会」という組織を立ち上げ、

日本人の海外渡航に取り組んだということであった。

 

「力行会」の活動にも興味はあるが、私の疑問はなぜ、その当時キリスト教への入信とそのような活動をする

ことになったかである。

この「島貫兵太夫伝」は、島貫の自著「力行会とは何ぞや」(1911年発行)に基づいて書かれている。

その著書によると、島貫は慶応2年(1866年)に、仙台藩士島貫資澄(すけすみ)の子として生まれている。

島貫家の系図によると、島貫家は一番古い先祖は北条執権時代の三浦大介であり、三浦家が北条に滅ぼされると

越後の長尾家に移り、会津の山中の島貫館に移り、秀吉に滅ぼされて、奥州の葛西氏の臣となり、葛西氏が

伊達氏に滅ぼされると陸前国岩沼近在に帰農したが、伊達政宗の朝鮮征伐に従軍して武士に取り立てられ、

その後、岩沼へ古内守善が封ぜられたとき、御預かりとなって岩沼に住むことになったという。そのため、

伊達家直参の藩士だということで威張っていたという。

戊辰戦争に父資澄も従軍したが、敗北に終わった。父は帰農することになったが、慣れない農業で家庭は困窮を極めた。

兵太夫は5歳で母と死別、没落した貧乏士族の子は町人、農民の子にも軽蔑されけんかをしながら育ったという。

当時小学校もできてきたが、小学校にも寺子屋にも行かせてもらえず、親戚の産婦人科医院のもとに住み込みさせてもらった。

9歳から14歳までのことだという。住み込んだ安部医院では雑務一切をやらされ、雑務が終わった夜に、先生について

「大学」「論語」「中庸」「孟子」などを勉強したという。

しかし、どうしても小学校に入りたくて、父の無断で小学校に入学、四級(下等小学最上級)に入学を許可され、猛勉強を

して首席で卒業することができたという。明治14年9月には、小川小学校の助教に発令された。

明治15年10月には岩沼小学校の初等訓導に転じた。その後宮城師範学校に入学したが、授業がやさしすぎて二か月で退学した。

島貫がキリスト教へ入信するのは岩沼小学校に勤めていたころで、当時同僚の教師の中にキリスト教の信者がおり、島貫はその信者を

「耶蘇は国賊」と言っていじめていたが、「耶蘇教を知らないでいじめるほうがありますか、いじめるくらいならよく調べてご覧なさい」

と言われ、熱心に研究してみたら全く感心してしまったという。そして、仙台で押川方義により洗礼を受けたという。

明治17年(1884年)、満18歳のことであった。

その後満17歳で植松村小学校長、増田町高等小学校の首席訓導となり、伝道も続け「東北のパウロ」といわれるまでになった。

彼の伝道熱は燃え盛り、ついに耶蘇教の本山に行き大いに研究したいと決心するに至った。

 

ここで、押川方義という方が出てきたが、この方はネットの検索によると、東北学院大学の創立者であり、明治期日本のキリスト教

主義教育の先駆者とされるという。また、今現在NHKBSで再放送している朝の連続テレビ小説「はね駒(はねこうま)」の

登場人物・松浪毅のモデルといわれる。この方は、1850年生まれの松山藩士の三男で、東京の開成学校には入り、その後横浜の

修文館に移ったという。

また、明治初期のキリスト教の受容については、新島襄や内村鑑三が有名であるので、その件も別の本を読んで調べてみた。

いずれ、島貫もそのような方々と交流なり、関係が生じてくるようである。

島貫は1866年生まれであるが、新島襄は1843年、上州安中藩士の長男として江戸藩邸で生まれている。

内村鑑三は1861年、高崎藩士の長男として江戸藩邸で生まれている。内村は札幌農学校に入学しているのは有名である。

その生涯も多難であり、かつよく語られているところであるが、年齢も近いだけに島貫との関わりもあったようである。

(以下その3に続く)

 

 

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「島貫兵太夫伝」を読む(その1)

2020-06-04 | 読書・「島貫兵太夫伝」

私の住んでいる街に1つの記念碑が建っていた。

「島貫兵太夫記念碑」とあり、下には、島貫氏の言葉が書かれている。

その脇には略歴が書かれた石があり、1866年に生まれ、日本力行会を設立した、

明治の先覚者と書かれてあった。

しかし、明治時代のことでもあり詳しいことはわからずそのままになっていた。

ところが、先日仙台駅前のビルで開催していた古本市で、表題の本を発見して、即購入してきた。

 

この本は、兵太夫の長男、嶋貫信男氏が父兵太夫の伝記を書く目的で、回収していた資料を基に

郷土の歴史家、相沢源七氏が「仙台郷土研究」に連載したものをまとめたという。

「仙台郷土研究」に載ったのが昭和54年から59年、この本が発行されたのは、昭和61年であった。


 
この記念碑の設立を報じた新聞記事によれば、

島貫兵太夫は、慶応2年(1866年)に岩沼に生まれ、明治19年、仙台神学舎(現東北学院の前進)に

入学。仲間とともに「霊魂と貧民の救済」を目指して、東北救世軍を組織して伝道活動に入った。

明治27年上京し、牧師のかたわら「東京労働会」を設立、翌年「日本力行会」を発足、会長となった。

「日本力行会」は、設立当時の明治時代中頃は、移民のための海外渡航が盛んになったばかりで、

島貫は、苦学生ばかりではなく、一般の海外移住者への精神的教育の必要性を感じ、渡米部を設け

教育にあたった。その後学校も設け、1年間に300人の青年たちを、ハワイや北米、南米、東南アジア

などに渡航させた。しかし、大正2年(1913年)47歳の若さで病死した。

海外移住者の「父」と言われたが、地元ではあまり知られていなかったという。

 

上記のような概略であるが、明治時代にそのような人物が地元から輩出していたことも知らなかったので、

次回以降、もう少し内容を詳しく読んでいきたい。・・・つづく

 

 

 

 

 

 

 

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