郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

諸国賢人列伝(童門冬二著)2・・・鴨長明

2025-02-23 | 読書

前回投稿した時は河合曽良のことを書いたが、もう一人は鴨長明であった。

鴨長明はご存知の通り「方丈記」の作者として有名であり、その著書は「無常観、虚無感」を主としていて、作者については「隠者・逃避者・隠遁者」とみる人が多いと思う。

ところが、故堀田善衛さんの「方丈記私記」によれば、「長明は中世におけるルポライターだ」ということになるそうだ。

童門さんによると「長明は時代の渦の中を走り回った一滴の水だ」ということだ。長明は俗世間を離れた隠遁者であったことは間違いないが、なにかから逃げてゆく生き方ではなく、なにかに向かって逃げていった人物だと言う。

これは現代における「草の根」や「一滴の水」の連動に似ているという。鴨長明はコンピューターのない中世における、自覚した一滴の水か、あるいは一本の草の根といっていいという。

上記は童門さんが書いていることを要約して書いたつもりだが、私にはイマイチ理解し難かった。

さて、鴨長明さんのことを書いてゆくと、

鴨長明という名前は本名であり、日本古来の名族の一員であった。父は京都の河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)(神官)であった。長明は源氏政権の三代目、実朝と関りを持ったが、それは和歌の師としてだが、実朝は長明を気に入らなかった。長明は傷つき、その直後隠遁したという。

長明の父長継は、名族でもあったので、天皇近くにあり、長明も幼少から官位もあり、幸福な少年時代だったという。しかし二十歳前に父が急逝し、遺産も継げず、不遇な状況になってしまった。ただ和歌所の寄人に選ばれて喜んだが、和歌集編纂の選者には選ばれなかった。そんな長明に関心を持ったのが後鳥羽上皇であった。希望の官職を与えようと期待させたが、周りの反発にあい叶わなくなった。長明はひねくれてしまったが、その後実朝の話もあり、鎌倉に行き、そして前のような話になった。

そして書いたのが「方丈記」であるという。怒りと屈辱とそして絶望が混じりあったものが、燃料となり、一気に書き上げたという。

その後「ホトケへの接近」をはかり、『発心集』という仏教説話集を書いた。

しかし最後まで彼は「間違っていない」と主張する。それほど自己信仰の心が強かった。

長明は、中世に生きた「自分の意思で、組織を疎外した人間」である。ここに長明の、永遠に変わらぬ新しさがある、と童門さんは言う。建保四年(1216年)64歳で亡くなった。

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諸国賢人列伝(童門冬二著)

2025-02-17 | 読書

先月、1年前に亡くなっていた童門冬二さんの死亡記事が発表された。著作を愛読していたので、非常に残念に思った。

童門さんは、現役時代は東京都の公務員をしていたので、地方自治に詳しく、退職後は歴史関係の作家もしていたので、全国の歴史や人物にも詳しい。
今回借りてきた本は、地方や地域で知られてきた人物ではあるが、その業績が他の地域でも参考になる仕事をしてきた人ということである。
18人が取り上げられていて、知っていた人、初めて知った人、いろいろであった。
そのなかで、河合曽良と鴨長明について関心を持った。二人とも歴史の教科書にも載っているので有名であるが、読んでみたら意外な経歴があったので驚いた。
河合曽良は「おくのほそ道」を書いた芭蕉の同行者として有名だから、名前は知っていた。曽良は「おくのほそ道」の旅では、東北から北陸に回り、山中温泉で芭蕉に分かれて先に上方に帰ったという。
童門さんは、この曽良の別れは、曽良の神経の使い過ぎに寄るだろうと推測している。芭蕉の芸術的眼力と自分の現実的次元での見方に、耐えられなくなったのではないかという。
河合曽良は、1649年信濃国上諏訪で高野七兵衛の長男として生まれた。本名は岩波庄右衛門正字、幼名与左衛門という。6歳の時生父母が亡くなり、母の妹が嫁いだ岩波家の養子になったという。岩波家は諏訪地方の名族で、一族からは岩波書店の創業者岩波茂雄が後代にでている。しかし、養父も11歳の時に亡くなり、伊勢長島にいた叔父の世話で、長島藩主松平家に仕官することになった。その後仕えた藩主が改易され、曽良は浪人したという。
1709年、曽良は幕府の巡見使に選ばれた。担当は九州方面、「岩波庄右衛門」として、登用された。曽良は神道に詳しかった。吉川惟足や並河誠所、関祖衡が推薦してくれたという。曽良は俗人ではなく、旅を好み、いろいろなところを歩いていたらしい。
曽良は六十六部をしていたという説がある。六十六部とは「六十六か国にある一の宮と国分寺をたずね歩く」ということだ。神社仏閣関係の知識が豊富だったのである。
1710年、曽良は九州に向けて江戸を旅立った。東海道を下り大坂へ行き、その後船で九州へ向かい、小倉藩、名島藩を巡見しながら福岡城へ入った。その後離島の巡見に入り、壱岐に行き勝本港にはいり、そこで身体をこわし寝込んでしまった。地元の海産物問屋の居室で看病されたが5月22日亡くなった。壱岐の勝本にある能満寺に曽良の墓がある。

曽良が長くなったので、鴨長明は次回にします。
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地ひらく 石原莞爾と昭和の夢(福田和也著)

2025-01-25 | 読書
今年は昭和100年、戦後80年です。私は戦後生まれなので、戦前と昭和20年代の歴史には詳しくありません。
高度経済成長期に育ち、バブル経済を経験し、バブル崩壊後30年のうち20年は働いていました。
私はいい時代に生きたと思っています。
私の両親は、戦前に生まれ、青春時代は戦争と戦後復興のなかで一生懸命働いてきました。働きづくめだったと思います。
いまはもう亡くなりましたが、親孝行ができたのか、今でも悲しく、申し訳なく思う時もあります。

日本は戦後復興して裕福になりましたが、21世紀になった日本は、私たちが子供の頃に描いていた日本に、そして世界になったのでしょうか?

今、私の関心は、歴史と宗教、哲学にあり、そのなかで戦争の歴史、原発の問題、自然災害(地震と噴火)、人間の生き方です。

これらに関する本などを読んだりしています。

日本の戦争に関しては、どうしても満州事変というものが、大きな変換点と思われました。
今回この本で、石原莞爾と彼をめぐる周囲の状況などを、少しは知ることができました。
そして、そこで起こったことがその後の日本や中国や朝鮮半島にも大きく影響したと思いました。

これからもいろんな本を探して、読んでみたいと思います。
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ふるさと・みちのくから考えるー歌・祭り・未来

2025-01-12 | 読書

図書館から借りてきた本を読んでいる。

著者は山形県出身の元明治大学教授、自分の研究との関連やふるさとを外から見た感想から、書いてきた文章を集めている。
私も就職当時、始めの約5年間を山形県で過ごしたので、少し地名や土地柄はわかる。
そのなかで、新聞の「日曜随想」に載せたという「西行が眺めた山形の桜」という文章に関心を持った。
西行とは、平安時代から鎌倉時代にかけて生きた、もと武士であり歌人である。鳥羽院の北面に仕えた佐藤義清(のりきよ)は23歳の時に突然出家して西行を名乗った。30歳の頃にみちのくに歌の修行の旅にでた。そのときの歌集が「山家集」(さんかしゅう)という。
そのなかに、桜をよんだ歌があり、平泉の束稲山で読んだ、
  聞きもせず 束稲山の 桜花 吉野の外に かかるべしとは
そのあとに、出羽国滝の山という山寺で読んだ
  類ひなき 思い出羽の 桜かな 薄紅の 花の匂ひは

この滝の山の山寺というのは、山形市の南東方面にある滝山という山の中腹の西蔵王高原にあるということに驚いたのである。

山形市に住んでいた私は、よく東の蔵王山方面を眺めていたが、見えるのはこの滝山であった。蔵王山はその陰になっているのでみえないのだ。

その滝山の麓に、桜の木があったのだ。そして今でも西蔵王放牧場にはオオヤマザクラというのがあるようである。
駐車場側には、西行の歌碑もあるという。

東北にも知らないところがあり、いろんな方の行跡が残っているものである。


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老子までの道(加島祥造著)

2025-01-08 | 読書
本棚を整理していて、古い本を発見し、取り出してきた。
加島祥造さんというのは、アメリカ文学者らしく、翻訳もしていたという。
73歳で伊那谷に移住して、92歳で亡くなった。

この本の副題は「60歳からの自己発見」と書いてあったので、再度取り出したのだ。
当初の題名は「今を生きる」だったが、文庫化するときに改題して「老子までの道」にしたという。

著者はアメリカ文学者であったが、60代を過ごすうちに、老子に関心を持ち、タオイストになったようだ。

この文庫には21の随想文があり、横浜に住んでいた時代から伊那谷に移ってからの60代に書いたものだという。

このなかで気になった文章があった。それは「いま、なんで老子やねー宇宙会議と碁」という文章で、ある女性から標題のように問いかけられた著者が講演のなかで「なんで老子か」について、 「地球にとっていま、なんで老子が大切か」という空想話をしたということです。
それは、もし宇宙会議があったら地球代表には老子がふさわしい。そして 「いま地球にとって何がいちばん大切なことか」と問われたら、老子は「不争」(争ソワズ)の二語で答えるだろうというのです。「争う」というのはタオのエナジーの「むだ使い」だ。自然はそんな愚行をしない、というのです。
さらに、「日本人にとって、いま、なんで老子か」ということへの答えは「自足」の二字だといいます。著者の言葉によれば、それは「いまの自分に満足する、そしてそれを本当の富とするんだ」といい、老子はひとたび衣食住が満足したら、こんどは自分の「内なる自由」を見つけだすべきだというのです。
著者流の解釈ということなのでしょうが、なるほどなあと思いました。
私も老子を読んでみようと思いました。


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